OjohmbonX

創作のブログです。

グッバイ、ゼア・ハムスター

 お掃除を終えて晩ご飯の準備の前に少し、ソファに座って朝から動かし続けた身体をいっときだけ休めると途端に、小腹がすいたのでちょっとしたスナック感覚でハムスターを食べていたら、小学校から帰ってきた娘に見られてしまった。
「ママ、それ、わたしのハム太郎
 ロコちゃんは血まみれの、私の手の中の小さな血まみれを見て泣き出した。しゃくりあげながら右手を、目の辺りにあてて涙を拭って左手は、私を非難するように私や、私の手の中の小さな血まみれを指差すけれどしゃくりあげるせいで指す指は定まらない。まるで肉の味も弾力もなく、あの肉の悦びがなくて、小さな骨と毛ばかりの口の中は、不快だしロコちゃんの泣き声は耳障りでもっと、不快なのだった。なにより不快なのはハム太郎が、ハム太郎が、とハム太郎のことしか頭にないまま、泣いてばかりいるロコちゃんのことで自分の娘ながら、馬鹿なんじゃないかと小学生にもなって少し、頭が弱いのではないかと私は、思うのだ。
 私は一人の、小学生の娘を持つ母親である前に、毎日よろこびをもって家事を愉しむ主婦である前に、ハムスターをスナック感覚で、食べる一人の女なのだ。たかだか十年しか生きていないこの娘はもっと、するどく気づくべきだと私は親心ではなくて思う。ハムスターをスナック感覚で食べる女が、娘をもスナック感覚で食べる事態に、いささかも思い至らないほど私に安心していいはずはない。いくら血がつながっていても、あなたの親である前に私は、野蛮な一人の女なのだ。この野蛮さの前で、血のつながりは何の、救いにもならない。
 私は血まみれの、残骸を捨て口の中の、毛と骨も吐き捨てロコちゃんの細い肩を両手で、丸く包むように掴んで強く押し下げた。泣き止んでロコちゃんは丸い目を赤く濡らして私を見つめる。膝から折れてひざまずかせる。身じろぎしても強い力で抜けられない。私はゆっくり娘の首元に顔を寄せる。私は私の鋭い犬歯が娘の滑らかな白い肌に突き当たってかすかな弾力で抵抗を示した直後に風船が割れるみたいに躊躇いもなく肌が破れじわりと鮮やかに赤い血がにじみ、それでもなお娘の肉の繊維を裂いて私の歯が押し入ってゆく想像を、視覚だけでなく触覚としても見たのだけれど一瞬で、匂いにイメージは凌辱されて、現実に反映される前に姿を消した。この娘の匂いに。甘ったるい子供の匂いに、初潮を済ませた女の匂いに、日に当たって沸き立つ土の匂いに、かすかに吸った汗と洗濯石鹸の混じり合った服の匂いに。惜し気もなく娘の匂いは私の野生を奪って母親にした。
 娘から身を、引き剥がして息も、絶え絶えにようやく私は、言った。
「ごめんねママが、代わりにハム太郎になるから、どうか許して」


 肩に血をべっとりつけたままロコちゃんは私を見ている。私はハム太郎
「へけっ?」 「もひもひ」 「てちてち」
 ロコちゃんは目を輝かせている。ぎらぎらに光らせている。私を見ている。目は見開かれて凝視しているが身体はその重さの全てがソファに預けられている。膝も腕も広げて背をもたせかけてまるで身体には力が入っていない。熱に浮かされているのだ。息が深い。目だけが瞬きもせず逸らしもせず私を見ている。ロコちゃんはハム太郎に興奮している。この小学生の娘は、突然見舞われたこの興奮に耐性など持ち合わせてはいない。
 絨毯の上でハム太郎得意のでんぐり返しをしてみせるとロコちゃんは大きなため息を一つついて物憂げに体を起こした。そして毛づくろいする私にゆっくり、つらそうに近づいて私の目の前にしゃがんだ。ロコちゃんは柔らかな布を私の目にあてて頭の後ろでその端を結んだ。私の視界は奪われた。薄い布も私のまぶたもけれど光を透かしている。
ハム太郎はね、ほっぺに目一杯、ヒマワリの種を溜め込むの」
 そう言い終わらないうちに娘の子供の指が、私の唇を押し入って、そして引き抜かれた。私の口の中にヒマワリの種を一つ残して。
「種をね、ハム太郎は……とっても…………大好きなの……私の、大好きな……ハム太郎は……」
 うわ言みたいに意思のはっきりしない言葉を呟きながら娘は次々に私の口に種を詰め込んでいった。言葉以外の音はまるで聞こえなかった。言葉はちょうどヘッドフォンで聞いているみたいに頭の中で響いた。布とまぶた越しの光が目に溢れかえる。詰め込まれた種でもはや私の口に余地は残されていなかった。私は固く唇を結んだ。娘はその唇に次の種を突き立てた。私は唇を開かない。なお強く突き立てられる。唇は裂けて血が出る、痛みが走る。私は娘の腕をつかんだ。それまで逆らいもしない自分の思うがままだと信じていた母親が意思を示した驚きに娘の身体が撥ねる。私はそのまま娘を押し倒して覆い被さった。
 指を自分の口に突き込んで、種をほじり出す。その唾液まみれの種をロコちゃんの口と思われるあたりの穴に押し込む。なすり付ける。娘は逃げようともがくが私は許さない。
「ママやめて! ハム太郎はそんなことをしない」
「いいえ、するわ。私がハム太郎よ」
 私は娘に身体を密着させる。首もとに顔を埋める。あの匂い、子供の、女の、土の、太陽の匂いが鼻孔を埋め尽くす。さっきは私を母親に引き戻したあの匂いは、けれど今はハム太郎の野生を掻き立たせるばかりだった。私は我を忘れて娘の首の柔らかくしょっぱい肌を口に含む。娘は身をよじってあくまで逃れようともがく。私は娘より重い体の重さで圧して逃がさない。両手で娘の頭を包む。頬を撫で上げまぶたの上から眼球の形を確かめ額から指をすいて髪へ埋める。汗でしっとり湿った髪を掻き上げると別の匂いが鼻に届く。
 そして娘は抵抗をやめる。私のしたいようにされた。協力的ですらあった。私が私の口からほじり出した唾液まみれの種を、娘は口で受け入れ始めた。それも積極的に口をひくつかせて種を求めた。
 ついに娘も私と同じように野生を野放しにし始めたのだと喜びにむせ返るが後で思えばそれはきっと都合のいい加害者の理屈でしかない。あれは防御の方針が心の底で切り替わったのだ。本人すら意識していないところで。自分さえもだまして相手に協力すれば最悪の事態は避けられるはずだという無意識の最後の砦。何とか自分を納得させるための、消化するための装置。
 けれどそのときの私は野生の喜びに侵されて気づかない。まどろっこしくなって私は唇を娘の唇に押し当てる。直接舌で種を押し込んでいく。娘は少し咳き込みながらも拒まない。ふくらみかけた娘の胸を手のひらで包む。娘は思わず歓喜の声を上げる。
「へけっ!」
「ロコちゃん、あんたもあたしももう、ハム太郎なのよ」
「ママ、ママ、ああ、へけっ!」
「そうよ。そうよ。へけっ!」
「てちてち」


 唾液にまみれて娘と絡み合っていると突然、目隠しを引っ張られて娘から引き離された。圧倒的に強い力で引き上げられたところで目隠しがすっぽ抜けて私は尻から落ち、床に尾骶骨をしたたか打ち付けてひどい痺れを感じながら見上げると夫が帰ってきていた。
「あらパパ。これはね、豆まきなのよ」
「豆じゃなくて種だ。しかも今は5月だよ」
「そうね。お帰りなさい」
「ただいま」
 そのまま自室へ引き上げようとする夫へ娘が告訴する。
「パパ、ママがハム太郎を食べちゃったの」
「なるほど」
 父親はそれをあっさり流して、娘は不満そうな顔をするばかりだった。


 夕食は唐揚げだった。夫も娘も私の揚げた唐揚げが大好物なのだ。はしたなく欲望を剥き出しにしてむしゃぶりつく彼らを見て私は嬉しい。そして私は唐揚げが好きではない。夫は突然、何かに気づいて箸を止めた。
「まさかこの、唐揚げは、」
「それは鶏の唐揚げよ」
「そうか、なら、いいんだ」
 何がいいのよ。私は意地悪い気持ちが湧き立つのを抑えられない。
「いいえ。ほんとはね、ハムスターの唐揚げなの」
「げぇーっ、やっぱり」
「嘘よ」
「そうか」
 そして何食わぬ顔で唐揚げを食う夫を見て私はふいに耐え難い憎悪に襲われた。私を日々の繰り返しの中に、閉じ込めて少しずつ狂わせたのは誰だ。私は妻を自ら選択した。けれどそこから私を主婦に押し込めたのは目の前のこの男なのだ。ほんの少し、娘との季節外れの豆まきをエンジョイした私を、容赦なく引き剥がして日常に封印した。
 私の夫への憎悪とは無関係に、ロコちゃんはギラギラした目付きで父親を見つめていた。唇を唐揚げの油でヌラヌラさせながら、父親をギラギラの目付きで睨んでいる。そしてヌラヌラがうごめいて再度告発した。
「パパ、ママがハム太郎を食べちゃったのよ! そして今じゃ、ママがハム太郎になっている!」
「黙れロコちゃん。そのミルク臭い口を閉じろ。私はお前の母親のそういうところさえ愛しているのだ」
 私は眩暈がした。私は妻や母親としてだけでなく、野蛮なハム太郎として同時に存在することを要求されている。否定でも禁止でもなかった。すべてがそのままに、いつの間にか日常に閉じ込められるのだ、この男がそうする。
 けれど例え、あらゆるものが、あの慣れというひたすらの怠惰が残酷さを呈するやり方で日常に回収されるにしてもズレ続けなければならないのだ。日常から逸脱し、そして日常に取り込まれるまでのほんの一瞬の輝きのために、私は死ぬまであらゆる私になろう。
「もうハムスターなんて時代遅れよ。ヒヨコを飼いましょうよ」
「ヒヨコなんてすぐにニワトリに成長してしまうよ」
「そしたら唐揚げにすればいいわ」
「唐揚げ!」
「唐揚げ!」
「そうよ。唐揚げよ。あなたたちの大好きなやつよ」
 きっと私はニワトリの代わりにハムスターの唐揚げを黙って二人に食べさせるだろう。日常の唐揚げだと信じていた二人へ逸脱を見せてあげよう。ハムスターだと知った瞬間の彼らの驚きと吐き気を想像して私は笑う。
「ママどうしたの」
「あなたたちの大好きな唐揚げのことを、考えていたの。とても、楽しみだわ」
 そして毎日食べさせて日常に閉じ込めるのだ。今度は私の力で。
「ママ、言っておくけれど私はお前を愛しているのだよ。ママが何をしようと、どうしようと、私の愛の中にお前はいる」
「構わないわ。私はきっと、その愛からほんの一瞬だけ脱出してみせる。あなたが私を肯定する一瞬前にあなたはきっと困惑する。その間にだけ私は生きるわ」