OjohmbonX

創作のブログです。

十九、二十歳

 こんな夜中に掃除してる。クイックルワイパーでフローリングの床をざっと拭いて、ガラスのローテーブルの上はウェットティッシュで拭いたあと乾いたティッシュで跡にならないよう水分を拭き取った。
「ごめん。急なんだけど今から泊めてもらえないかな。」
「いいよ。」
「実はもう一人友達もいるんだけど、、、終電のがしちゃって、、、」
「うちベッド以外は布団一組しかないけど」
「えっと、それでも大丈夫だけど、、、だめ?」
「いや、そっちがいいならいいけど」
「ありがとう」
「来る時間わかったら教えて。だいたいでいいから」
 ローテーブルをどかして布団をクローゼットの上から引っ張り出して敷いた。もう〇時半だった。平日はいつもなら十一時には寝てる。
 落ち着かなくて部屋の中をうろうろしてしまう。あれから一時間たったのにトラからLINEの返事がこない。その「友達」との話に夢中で気づかないんだろうか。トイレのペーパーホルダーの上に少しホコリがたまっているのが気になってここも掃除した。もとから部屋を汚くしてるわけじゃない。別に掃除をしなきゃいけないってこともない。でもいちばんいいところを見せたいってどうしても思ってしまうのは結局なんか、見栄なんだろうな。
 そう。見栄だ。泊まりにくるって言われたのが嬉しくて即答して、でも友達が一緒だと聞いたときに嫌だなと思ったのに、断らずに寛容な人間のフリしたのだって、見栄でしかない。
 チャイムがなって急いでドアを開けたら茶髪でふわふわのパーマになってるトラの頭を見て、一年以上も会ってなかったんだなと思った。その後ろに「友達」がいて二人とも大きなギターケースをしょって、なんだかごちゃごちゃしていた。
「あの、俺明日、七時前には家でなくちゃいけないし、六時に起きるんで、早めにシャワー使ってもらっていいですか」
「早っ」
「明日仕事なんで」
「バイト?」
「いや、普通に会社で働いてますけど」
「えっ。でも峰口と同い年のいとこなんですよね? えっ」
「高卒で就職してるんで」
「あー……そうなんだー……」
 この想像力の欠けた「友達」にも、来る前に説明のひとつもしてないトラにも、イライラした。早くシャワーしろって言ったのに荷物も下ろさずコートも脱がず無遠慮に人の部屋を見回してくるこの初対面の「友達」にも、いつまで経ってもお互いの名前すら紹介しないトラにも、ますますイライラした。
「いや俺、シャワーいいっすよ。もう遅いし」
「そうじゃなくて、整髪料も枕につくし……」
「あーと、ああ、そうゆうこと」
 そうやってイライラを抑えられずに、もろ態度に出してる自分にも腹が立つ。
「は? あの人なんか怒ってんの?」
「いやいや、そんなんじゃないと思うよ」
 風呂場を案内して離れる間際に「友達」がそう言うのを聞いて叫び出しそうになった。
「リョータごめんね。急に、こんな遅く、明日も早いのに。えっとサークルで今日飲み会があって、」
 そのまま説明を続けそうなトラを遮った。
「いや。いいから。俺さき寝るから、あのお友達は下で寝てもらって、トラはベッドこっち半分使っていいし」
「うん。ありがとね」
 全然寝付けない。なんでこんな風になっちゃったんだろ。一人暮らしはじめてそういえばトラに泊まってほしいなと思ってたんだった。ゲームとかしたりして夜遅くまで遊んだり話したりして、そういう子供じみた楽しみ期待してたんだってこと思い出したのに、なんだこれ。
 壁にほとんど密着させてた顔を離して仰向けになって目を開いたら視界の端に、所在無さそうに部屋の真ん中で突っ立ってるトラの後頭部があった。
「髪染めたんだ?」
「えっ」
 ベッドの端を指して席を勧めた。こんな風にトラが自分に気を遣ってるのを見るくらいなら、泊まるのなんて断れば良かった。
「あー髪ね。うん、どうかなーと思って」
「結構似合ってると思うけど」
「リョータも、いっぺんやったら似合うんじゃない」
「いや、そういう職場じゃないし」
「あー、……そっか」
 そうじゃない。そういう気まずい雰囲気にしたいわけじゃないんだけど。トラがシャワーに行って、部屋で「サークルの友達」と二人になったから寝たふりしてたらそのまま眠ってた。シャワーから上がったトラがベッドに入り込んでくる動きで目を覚まして、自分が眠っていたことに気づいた。もう部屋は暗かった。「サークルの友達」はもう寝息を立ててた。ほんのちょっと酒の臭いがして、そうだ、学年いっしょだけどもうトラは二十歳なんだよなと思った。
 シングルベッドが狭すぎて、もちろん仰向けうつぶせは無理だし、二人で背中合わせに寝てるけど掛け布団の幅が足りなくて寒いし、寝返りも打てないし、他人と寝るとかそれこそ小中学生のころトラとふざけて同じ布団で寝たりしてたの以来だし、もうぜんぜん眠れない。体感で午前二時、家を出るまで四時間きってる。


 急に自分のダッフルコートが子供っぽく思えてきたのはリョータが、スーツにネクタイにしゅっとしたトレンチ着てていつもは、もっとラフっていうかビジネスカジュアルって感じだけど今日は外注先に行く用事があるからって言ったから朝、駅までいっしょかと思ったけど俺、下りの列車ちょっとギリだからごめん先急ぐねって俺と横田を残してさっさと行っちゃった。朝六時台の、歩いてる人も車もまだまばらな、住宅街を白い息吐きながら歩くなんて、久しぶりで変な感じがした。
 あの人さあ高卒で就職ってヤバくない工場とか、建設現場とかで働いてるのって横田が聞くからうーんと、コウミツって会社らしいんだけどって言ったらえーっ大手じゃんすげえコンシューマー向け製品じゃないから普通の人あんま知らないけど計測器で大手だよって横田が急にコンシューマーとか言い出して腹が立ってきてめちゃくちゃ、リョータって頭いいんだよって言ったらなんで、大学行かなかったんだろって横田が言うから二年前のこと思い出してた。もうこれ以上学校で勉強したくないし、社会でやってみたいって言ったけど母さんも、おばあちゃんもおじさんおばさんも、父さんも、自分が養子だから遠慮したんだって今でも思ってて、俺はでもよくわからない、リョータに直接聞いたこともないし。俺が進学してリョータが就職してから前みたいにあんまり会ってないし。
 就職するって言い始めたとき大人ら全員すごく怒ってるみたいに大学に絶対行けって言ったけどリョータは、困ったみたいな顔して遠慮してるとかほんとにそんなんじゃないんだけどなって全然折れずにほんとに就職した。大人らにしたら罪悪感の裏がえしで怒ってる。母さんにしてみたらリョータは、実の息子なのに、そうじゃない俺だけ進学させて悪い母親って思ってるし、父さんは本当ならリョータを引き取って息子になってたかもしれない子供なわけで、自分の息子だけえこひいきしたみたいな形になってるし、おじさんおばさんは自分達がわがまま言って引き取った子供なのに大学に行かせられなかったってメンツが立たないし、みんなリョータに復讐されたって感じしてた。そういう空気もあって俺もなんとなくリョータのこと敬遠してたみたいなとこもあるかも。やっぱ頭よかったリョータが就職して、頭わるい俺が進学したって変な感じするし。
 あのあとリョータから連絡きてめし行ってリョータが、会社のこととかいろいろ話してくれてそれ聞いてたらほんとに仕事が充実してる感じだから別に、リョータはほんとに進学したくなかっただけかもしれないと思ってリョータは、もう働いてるのに自分がこんななんとなく大学通ってレポートとかサークルが忙しいみたいなこと言ってるのなんなんだろみたいな気がした。こっちから誘ったんだしそれに、今月はボーナス入ったしって言ってリョータがめし代を払った。


 置いてあったPS3でトラと桃鉄をやってた。ボンビーがついて邪魔されると
「あー」
と言ってくすくす笑う。もともと大声で話したり大笑いしたりするタイプじゃなかった。せっかく集めた物件とかカードとか勝手に捨てられたりすると、ちょっと本気でイラッとしてしまう自分とは大違いだなと思った。なんでこんな穏やかでいられるんだろ? 画面を見つめて特急カードを使うかどうか迷ってるトラを、斜め後ろから見てた。スウェットの襟から伸びたうなじと短く刈り上げた襟足の、案外しっかりした首筋を見ながら、そうそう、細い割にけっこう筋肉しっかりしてんだよなと思った。ふわふわしたパーマの茶髪がちょうどトラの性格と似合ってると思った。
 就職するときにもうほとんどゲームなんかやらなくなってたから家に置いてきた。年末から元日まで久屋の方の家にいて、元日から二日は峰口の方の家にいる予定にしたら、トラも同じ日程で合わせることになった。去年は結局、大晦日と元日だけ帰ってすぐ会社の借り上げ寮に戻ったんだった。まだ就職して一年も経ってなかったし、進学せずに就職したことでまだ何となく家というか親たちも変な感じだった気がして居づらかったけど、今年は父さんも母さんもばあちゃんも、どことなく帰ってきてほしいような雰囲気だったから。どうせ寮にいても一人だし暇だし。
「俺エレキギターの音ってちゃんと聞いたことなかったわ」
「そうなんだ。これ、この前の追い出しライブでやったやつ」
 トラの演奏は思ってたよりずっと上手かった。桃鉄にも飽きて、トラがギターを出して弾いてた。アンプにつなげずに小さな音だったけれど、キュイキュイ鳴ってけっこう気持ちいい音なんだなと思った。
 高校から始めたって聞いてたけど、四年くらい前に自分とこの高校の学祭で見た同級生のライブなんて、なんだこれってくらい下手くそだったからトラもそんなもんだと勝手に思ってた。
「あーもうぜんぜん覚えてないや。ライブ終わっちゃうとすぐ次の曲の練習しないといけないから忘れちゃうんだよね」
 もともと全然知らない曲だったから気にならなかった。トラの中で出てきたフレーズをあてもなく弾いてるみたいだった。
「ここがねー。このリフがちょうかっこいいんだよ。めちゃくちゃかっこよくてライブで本人が弾いてるの見ちゃうともう泣けるくらいかっこいいんだけど、難しくて、ほんと自分とか全然だなっていやんなるよ」
 謙遜しているというより本気でそう思ってるみたいにそう言ったけど、素人の自分が見るとすごく上手かった。トラの、長くてやや骨ばった指がすばやくコードを押さえてくのを見てた。
「その弦がキュイキュイ鳴るのかっこいいな」と言ったらトラは、んふふーみたいな笑い方して、
「俺も好き」と嬉しそうに言った。
「年明けにね、またライブがあるから冬休み中も練習しないと。俺だけできないとみんなにも迷惑かけちゃうし」
 色んなバンドの曲をやると言って床に散らかしたスコアを手に取って見てみたけどどれ一つとして名前を知らなかった。トラの言う「みんな」っていうのがどんな人たちなのかも全然知らない。この前うちに泊まっていった「サークルの友達」なのかどうかも知らない。
「そうやって色んなバンドのコピーとかやるじゃん。で、そのフレーズ、リフ? とかどんどん覚えてったり、コード進行とか覚えてったりするじゃん。たくさんバンドのライブに行ってかっこいいなとか思ったりするでしょ。そしたらさ、こうしたらもっといいかもとか、こういうのが聞きたいなとか思ってきて、自然と自分でも曲作ってみたいとかってこと、ないの?」
「んーそういうのはあんまないかなあ。好きなバンドの好きな曲を演奏できて楽しいって感じで。サークル自体もオリジナルはやらないとこだし」


 めちゃくちゃ腹一杯で階段のぼって俺の部屋むかう途中で上から、リョータが振り返って「多すぎだろ」って言ったから二人して、ゲラゲラ笑ったのはもう年末からずっと久屋の方でも、めちゃくちゃ豪華なめしだったのにこっちの家も、めちゃくちゃ豪華なめしが出てきてぜんぜん、食べきれない量が出てきたから。そりゃそうだよだって、久屋のおばさんにとっても母さんにとってもリョータは自分の子供なわけだしぜんぜん、リョータもふだん会社の寮にいて帰ってこないし去年も大晦日と元日しかいなくてすぐ寮に戻ったし。「あり得ないでしょあんな量」ってうれしそうな顔で言うからほっとしたってとこあってやっぱ、大人たちみんな大学行けって言ってたの無視して就職したからなんか、ぎくしゃくしてたのかと思ってたし。
 元旦だし年始の挨拶ってことで今朝は、父さんも母さんも久屋の方にきて昼過ぎにリョータも一緒に車でこっちの家に帰ってきたその、車の中で峰口のお父さんなんかテンション高くなかった? ってリョータに言われてそういえばそうだったかもしれない。なんか今日父さんの車乗ってたらはじめて、峰口のお父さんが運転する車乗ったとき変な感じしたの急に思い出したってことリョータが話してた。こっちはだいぶ早く離婚してて自分の遺伝上の父親って知らないから父親の、車に乗るって経験なかったしそれでって。そういえばリョータあの日帰り妙に静かだったもんね、それまでは初対面なのにめちゃめちゃ俺としゃべってたのにって言ったらリョータはぜんぜん覚えてないって言った。
 小五のときはじめて俺と会ったときのことぜんぜん、覚えてないってリョータが言うからおかしくて笑ってた。俺の方はめちゃくちゃ緊張しててだって、これから母親になるかもって人と兄弟になるかもって人に会うとか言われて緊張しない方が変だと思うのに親たちが、ドリンク取りに行って二人きりになってちょう気まずいじゃんって思ったらいきなりそいつがねえそっち行っていーい? って。自分のとなりに来たと思ったら急にDS出してゲームとかするのって聞いてきてこれ、やったことあるって言い出したのがテトリスで急にやりはじめたと思ったらこっち渡してきて遊ばせてもらったってこと。ぜんぜんリョータは覚えてないけどテトリスにはまってたのは覚えてるとか言うからおかしくてめちゃめちゃ笑ってた。「トラのことはなんか最初っから友達だったって記憶しかないんだよ。」そのあと、峰口君って呼ぶのもさあ、だってたぶんこの後俺も『峰口君』になるわけじゃん、そしたら虎彦君? だっけ? って呼ぶの? でも呼びづらいしトラでもいーい? 俺のことは『亮太さん』でいいよ、とか言い出してそれずるくない? って俺が笑ったらリョータも笑ってそれからリョータ、トラって呼ぶようになったんだったってこと思い出して、笑ってたけどそれもリョータはたぶん、忘れてる。
 結局リョータは兄弟に、ならずにおじさんとおばさんの養子になったからいとこになったけどその頃の大人たちとのやり取りの方ばっかりリョータは覚えててそれで、俺とは最初っから友達ってことになってるみたいだって。子供の自分よりおじさんおばさんや母さんの方が緊張しててもちろんいつだってお母さんにも会えるしもし嫌になったら峰口さんちの方へ移ってもいいのだしおばさんもおじさんも子供もいないしお母さんが亮太のお父さんと離婚してこっちに戻ってきてから亮太と一緒に暮らしたこと自分の子みたいで本当にうれしかったしもし、このまま一緒にってすごく顔こわばらせておばさんが言ってたのとか、峰口のお父さんが虎彦と、全く同じくらいに君のことは自分の子供だと思ってるからこれからは、亮太君じゃなくて亮太って呼ぶよって言ってくれたときもなんか緊張しててリョータは、学校変わるのも名字変わるのもちょっといやだなと思ってそのときオッケーしたけどでも、そのあとも時々もし、あのとき峰口の子になってれば俺と兄弟になってたんだよなとか同い年の、兄弟ってことは双子になるのかなとかでも、そのまま完全に他人のままだったってこともあったんだよなとか思ってたってこと俺の、ベッドの上でごろごろしながら話しててリョータのそういうのはじめて聞いたなと思った。
 こうやって両親が二組いるっていうの悪くないなって今だと思うよでも、めちゃめちゃ飯が出てくるけどってリョータが言った。二人でけらけら笑ったけど俺にとっては両親とおじさんおばさんでしかないんだよなと思った。午前二時だった。


 歯磨きしながらもう一本の歯ブラシを見てた。もともと俺が着てたジャージはトラ専用みたいになってるし、コーヒー入れるマグカップも使い分けが定着してきたし、俺のiTunesはトラがせっせとCDを持ってきては入れていったバンドの曲を今も流してる。
 そろそろ遅いから、と思って部屋をのぞいたタイミングでトラがちょうど音楽を消した。目があったトラがにやっと笑って親指を立ててきた。
 土曜の夜に合鍵で勝手に入ってくる。日曜に部屋でだらだら過ごして夜に外で飯食ってそのまま帰ってく。完全にパターンになってる。
「これ俺のホームステイ」
「なんかそれ意味ちがくない?」
「じゃあなんだろ。疎開?」
「もっとちがくない?」
「まあとにかくリョータんちが一番落ちつくってこと。あと大学から近いし」
 トラはギター練習したり俺のパソコンで学校の課題やったりLINEとかツイッターとかしたりテレビみたりして、俺はベッドで寝転がってネット見たり漫画や本読んだりして、それぞれ勝手に過ごしてるのが半分で、もう半分は冬のボーナスで買ったPS4とStar Warsバトルフロントで遊んでる。最初のころはトラもやってたけど「むずい」と言って俺がプレイしてる横で見てる。たまに気が向いてちょっと借りてプレイしてる。トラはベッドに横になって布団にくるまって画面の推移に合わせて間投詞と効果音をずっとしゃべってる。「うおっ」とか「どーん」とか勝手に言ってる。俺がベッドでネット見てて面白いの見つけて呼ぶと上から「どーん」とか言って子供みたいにのしかかって肩越しにスマホを覗いてくる。
 なんか別にそれだけなんだけど、俺の生活がすげえうるおってるって感じがする。大学行かずに就職してから高校の友達とも全然会ってないし、職場には同世代もいないし、高卒の同期もほとんどいないし、よく考えたら友達づきあいがなくなってた。こうやって家に一緒にいて楽しいやつがなんとなくいるってだけでこんないい感じなんだなってことはじめて知った。
「そういえばトラって彼女とかいないの。学校とかサークルとか……」
「いたけど別れちゃった。一年の秋に先輩から告られて付き合ってたけど夏ごろフラれちゃった。なんか私のことほんとは好きじゃないでしょって言ってその人浮気してた。ってかリョータは? 高校のころからのとか会社の人とか」
「いないよ! 仕事でもほとんど女の人いないし、いてももう自分の母親くらいのおばさん……なんかね、職場の人がさ、『おばさんじゃない、おねえさんって言わなきゃだめ』って言ってくるんだよね」
 2月になって「ごめん俺あんま金なくて」ってトラがマフラーをくれた。トラから誕生日プレゼントもらうなんて中学生以来だなと思った。
「ってかついにリョータも二十歳だねー。今度どっか飲みいこうよ」
 あっ俺トラの誕生日なんもしてないって一瞬焦ったけど、去年の十一月なんてまだトラと疎遠だったんだよなと思って、半年もたってないのに自分の生活にこんな風に友達っていうか家族みたいのがいてすごく楽しいっていうの、全然想像もしてなかった。


 リョータが自己紹介して女の子たちが、顔見合わせて「は?」みたいな表情したときリョータの顔をつい、見ちゃったけど見なきゃよかったってあんな風に、ひきつった笑顔してなんか言おうとしてなんにも、言えずにいるずっと俺なんかより頭よくてしっかりしてる人がそんな状態になる瞬間を見て一生、忘れるってことないと思った。それであっちのメンバー集めた女の子が俺の、顔見てなんで、大学生つれてこないんだよって目をしたの、リョータもぜったい知ってる。
 君らコウミツって知らないかもしんないけどすげえメーカーなんだってリョータさんさあ、高卒で入るとかすげえエリートなんだってボーナスもあるし俺らより、ぜんぜん。横田がそう言ってフォローしてそのあと合コンの、あいだほとんど女の子たち無視して横田はリョータに仕事のこととか趣味とか聞きまくっててリョータは、さすがに合コンなのに女の子としゃべろうとしないってこと最初は気にしてたけど途中からもう横田としゃべることにしたらしくて俺と、渡辺が向こう四人の相手してたけど二人はもう、完全に怒っちゃってて一人はぜんぜん気にしない感じでバンド好きの子で声が大きくてめちゃめちゃよく笑う子でそのときぜんぜんしゃべってなかった横田と一ヶ月後に付き合うことになって一人は、俺がリョータんとこ毎週泊まってるって話したらそのこといろいろ聞きたがって話したらキャーキャーゆって喜んでくれた。
 なんか俺のせいでごめん変な空気なったっぽいってリョータが言ってなんて答えていいかわかんなかったから黙っててまた、合コンとかの話があったから何回か誘ったけどこなかったから誘わなくなった。仕事で元請けの人から俺のことこの前、しっかりしてるって問題とかあってもすぐ連絡くれるしうらやましいって言われたって課長が、あとで教えてくれてやっぱ、そういうこと社外の人に認めてもらえるとかってこと嬉しいっていう話を急にリョータが言って母さんにそのこと伝えたら母さんは、ドン引きするくらい喜んでてなんか、ちょっと、自分が責められてるみたいな感じがした。
 母さんはリョータがそういう仕事のことを自分から、ぜんぜん言ってくれないからもし、他にもあれば教えてくれっていうけど別に俺は、リョータと母さんの連絡帳じゃないし。
 仕事のことで自慢したのは合コンで女子に、ばかにされたみたいな感じになったことともしかすると、関係あるのかもしれない。


 なにこのアイコン、と思った。フェス行ったときの友達三人の写真っぽいけど真ん中じゃなくて右端がトラで、これじゃアカウントの主だってわかんないじゃん。ライブ楽しみーとか授業だるーとか意味のないつぶやきが少しと、友達とのやり取りがたくさんで、その友達はほとんど鍵つきアカウントだからどんなやり取りしてるのかはあまりわからない。どんな関係かもわからないけど、かなり仲良くしてるっぽい女の子はいるみたいだ。フェースブックはほんとにときどき写真が更新されるくらいだ。
 あれ、今週は来ないのかってことが続いてこの一ヶ月は一回しかトラは来ていない。来ないなら来ないって連絡がほしい、こっちの予定だって立たないし。それで次の土曜は来るのかってラインしたら既読のままぜんぜん返事がない。
「えーと、こっちも予定たたないから連絡ほしいんだけど、、、」
 ずーっとトラのタイムラインをさかのぼって先週、先々週のそのころトラがなにしてたのか見て、トラの友達で鍵つきじゃない人がトラの写ってる飲み会の写真をアップしてるのを見つけて、ああ、そっちを優先したのかと思って、なにやってんだろこれ。俺。なんだこれ。なんでこんな、人のこと女々しく気にしたりしてバカみたいだ。もう嫌だ。結婚したい。結婚して子供できてふつうの家族つくってSNSですげえ充実してますみたいな写真載せたい。
「今週は行けたら行こうかな」
 ギター持ってくのめんどいからってトラがうちに置いてった練習用のやつ眺めながら邪魔だなと思った。だって来ないんなら単に俺の部屋が狭くなるだけで俺が損じゃんか。ごめんこれ持ってかえってほしいんだけどって言われてえっと、ここ置かせてもらえるとリョータんちきたとき練習できてすごく助かるんだけどだめかなっていうか、トラだって来ないじゃん最近なんか、だんだん俺の部屋っていうよりトラと共同の部屋みたいになってきてるけどこれはちょっと、違うんじゃないかってってリョータが、不機嫌っぽかったからこの前の合コンのことまだ怒ってるのかなと思ってとにかく、ごめんっていった。
「なにが?」
「なにがって、リョータがなんか不機嫌だから謝ってるんだけど……」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど」
 そういうつもりじゃない。ぜんぜん違う。なんでこうなっちゃうんだろう。せっかく久しぶりに遊びに来てくれたんだから楽しくやろうと思ってたのにこうなる。でも、ずるくないか? 不公平じゃないか? こっちばっかりあれこれ気にしたり便宜はかってるのに相手が何とも思ってないとか。
「でもそんなの、リョータが勝手にそう思ってるだけじゃんか」
 勝手にっていうかもともと、トラがうち来るっていうから予定あけたり、なるべく過ごしやすくしたりしてるんだろこれ。そんでこっちも予定立てたいから連絡してって言ってるのに連絡はくれないし、
「だって俺だってほかの友達との都合もあるからそんな前々から決めらんないよ」
 だからさあ、それだとこっちは来るか来ないかわかんないから予定開けといてさ、当日になったらそっちは友達とライブとか行ってるわけでしょ、なにそれ
「そんなのストーカーじゃん」
 リョータがきつく目をつむってしばらく苦しそうに、黙ったあと「そうかもね」って言った。どうしてこんなこと言っちゃったんだろって自分で思ったけどもうどうしようもなくて黙ってたらリョータが、もうほんとしんどいんだよいや、自分の方の問題だってわかってるけど、なんかもうトラのことばっかり考えてるみたいになっちゃってほんとしんどいしともかく、もう会うの当たり前って状態やめて前みたいに戻さないとだめだ。こういうこと話しながらこれ、トラの方は何とも思ってないんだよなとか思うと自分がみじめな気がしてしんどかった。うちに遊びに来るのは月一くらいにすること、来る予定は少なくとも一週間前には決めること、合鍵は返してもらってギターも持って帰ること、そんな提案をした。
「うん」
とうつむいて神妙そうな顔でトラが了承した。二十三時だった。そんな顔をしてほしいわけじゃない。もう一度ちゃんと友人としての距離を取り直そうってだけの話だからもっと、普通に事務的に返事してほしかったのに。
「えーと、で、……今夜泊まる?」
「いや、今日は帰る」
 でももう結構遅いし、泊まってっても別にいいよ、うん、でも、今日は帰るね。そっか。
 紐を結ぶのが面倒な靴を玄関で、履いているしゃがんだトラの頭を部屋着のリョータが見下ろしていた。その頭越しに体と腕を伸ばしてリョータは玄関の、鍵を開けてやったのに気づかずにトラが立ち上がりかけて体が、触れそうになった。リョータが怯えたように身を引いたから二人のからだも服も触れることなく避けていった。
「じゃあ、また」ってドアを開けたらもう、春の夜で生ぬるい、空気が部屋に流れ込んできた。

王将のマナー

 餃子の王将ではおばちゃん(ほとんどおばあさん)の店員が、カウンターに座るサラリーマンたちの背中を木の棒で叩いていた。早く食べて出ていけという意味だ。新しい客がなにか注文すると、フロアの女が「淫乱ガーゴイルー!」と厨房に向かって叫ぶ。厨房からは「淫乱ガーゴイルー!」と叫びが返ってくる。そうすると餃子が出てくる。なるほど、餃子のことを「淫乱ガーゴイル」という隠語で呼んでいるようだ。
 餃子は必ず全員に一皿くる。しかしその他、天津飯やラーメン、炒飯、ニラレバの何が出てくるかは完全にランダムだ。出てくるだけありがたいと思え。おばあさんの店員に棒で叩かれたサラリーマンが「いま食べとるやろうが!」と振り向いて怒った。おばあさんの店員は「ぎゃっ」と言ってぽろぽろ泣き出した。かわいそうだ。両脇のサラリーマンが、そのサラリーマンの頭をがっと掴んで、いきなりラーメンの丼にぼちゃっと顔をつっこんだ。しばらくサラリーマンはじたばたして、もがもが言っていたが静かになってぐったりした。死んだのだ。おばあさんの店員は元気を取り戻して、カウンターのサラリーマンたちの背中をまた木の棒で叩き始めた。死んだ客は厨房に引き取られて、餃子の具になる。当たり前だ。そうやって食材になれば、無銭飲食の罪に問われることもないし、遺族も莫大な賠償金を払わされることもなく、うれしい。
 食べ物が出てきたら1分以内に食べきらないとおばあさんがめちゃくちゃ怒ってくる。食べ物が出てきた直後から棒で叩き始めるけど、1分がたつと耳元で「ウオーッ!」っと叫んでくる。怒ってるのだ。店の回転率は客が支えないといけないから。食べ物がまだ届いていない客は、食べている客を応援しないといけない。手拍子をして、冬は広瀬香美の「promise」をみんなで歌う。合間合間で、おばあさんが人間を棒で叩く音と「ウオーッ!」という怒りの声が入る。ゲッダン(ウオーッ)揺れる廻る振れる(ドンッ)切ない気持ち(ドンドンッ) そんな感じだ。
 夏は店内の温度が6000℃を超えるので人間が生きていけない。店の前に募金箱があるため、客は食べたつもりでそこに金を入れて帰る。地球温暖化の影響だ。昔は店内も400℃くらいだったからチューブを歌っていた。


 ここまではカウンター席の話だ。テーブル席はもっと優雅で、叶姉妹や皇族が座っている。「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と店員が呼び交わして出てきた餃子も、ミリ単位でゆっくり食べていく。だいたい半年かかる。だから、住み込みで食べてる。いつも10月くらいにきて、翌年の3月に帰っていく。おばあさんは時々、棒で叩きたそうな目で見てくるが、そういうときはかわりにカウンターのサラリーマンをめちゃくちゃ叩く。スーツもシャツも破れて背中が血だらけになるけれど、餃子の王将に来るのが悪いんだからしょうがない。
 叶姉妹はときどき、パエリヤとかを食べてる。デリバリーを注文して王将に届けさせている。あと全裸のメンズを駒に見立てて、チェスをしたりしている。テレビ出演があるときは、プロジェクションマッピングで、餃子を食べる叶姉妹の映像を壁に映している。最近はテレビも少ないので王将にだいたいいる。
 美容にいいから、炒飯をスムージーにして飲んでる。餃子も、パリコレに出てきた新作じゃないと食べない。カウンターの席のサラリーマンたちは、有史以前からある土から掘り出してきた餃子を食べてる。産業資本主義が進み、格差社会となった、その縮図である。


 そういうわけで、ベビーカーとかを入れるスペースは王将にはないので、家族連れは赤ちゃんを入れたベビーカーを店の外に置いて食べる。赤ちゃんを連れて入っても、おばあさんに棒で叩かれてすぐ死ぬから、意味がない。だけどベビーカーを店の外に置いておくとすぐに赤ちゃんは盗まれて外国に売られてしまう。王将がある地域というのは治安が悪いからだ。川崎駅の店舗などは、店の中におじさんが入ってきて勝手に人の餃子を食べたりしてくる。しかし、盗まれる赤ちゃんが悪い。自分の身は自分で守らないといけない。ちゃんと自分の両足で大地を踏みしめて、入店して、棒で叩かれながらも餃子を食べきる。そういう赤ちゃんでなければ、生きている資格がない。
 ここまで「木の棒」と言っているけれど、おばあさんのコンディションや種類によっては、最初から包丁で客を刺し殺してくる。そういう場合はジャケットの下に雑誌を仕込んでおくとか事前準備が必要だ。


 店の奥から淫乱ガーゴイルが出てきた。石の悪魔、ガーゴイル。餃子1皿の隠語が「淫乱ガーゴイル」だと思われていたが、たんに料理の名前だったようだ。淫乱なのに、相手がいなくて切なそうに、狂おしそうに、身をよじらせている。オスのガーゴイルだ。股間から立派な一物が屹立している。
「御覧なさいな美香さん。すごいじゃないの。」
「そうですわね。」
 叶姉妹が喜んでいる。皇族の方々はしずしずと箸をはこんでいる。一番奥にいたサラリーマンがガーゴイルに食われた。この場合、どうなるのだろうか。法的には? 客が料理に食われた場合、支払いはどうなるのか。かといって客が抵抗すれば、それは鳥獣保護法違反で厳しく罰せられる。ただなすすべもなく食われるしかないのだろうか。生活笑百科に取り上げていただき、四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ。
 しかしこの淫乱ガーゴイルの欲望を、いったい誰が満たすのだろうか。おばあさんがガーゴイルの股間の棒を、木の棒でめちゃくちゃに叩き始めた。「ウオーッ!」「ウオーッ!」おばあさんかガーゴイルか、どっちの叫び声かわからない。サラリーマンたちが「promise」をみんなで合唱した。厨房とフロアで店員たちが「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と呼びかけあっている。店内には餃子の焼ける匂い、音。叶姉妹が手を叩いて笑っている。皇族がほぼ静止しているようにしか見えないスピードで餃子を食べている。「ウオーーーッ!!」ガーゴイルとおばあさんが吠えた。ガーゴイルの棒の先端から液がだらだらと漏れ出した。そう。本来ガーゴイルは、西欧の建築における雨樋の装飾であった。その口から雨水を放出するのだ。だからこれは、ある意味で正しい。淫乱ガーゴイルは店の奥へ帰っていった。


 都会の駅近の店舗はおよそこんな雰囲気だが、地方の郊外店舗になるとまた話はがらっと変わる。ブレーキとアクセルを間違えた老人が大量に店につっこんでくるため、郊外型店舗はことごとく壊滅した。今は、より頑丈な、牢獄のようなバーミヤンにかわってしまった。これもまた、時代の流れである。

奇跡の人

 夜の町の曲がり角で小柄な老婆とぶつかりかけた。老婆は
「ウォーター。」
と言った。その抑揚を奇妙に欠いたイントネーションと、文脈にそぐわぬ言葉をいぶかって男がよくよく見れば、老婆ではなくまだ30前後の女だった。ヘレン・ケラーだった。彼女の太い杖がいきなり跳ね上がったかと思うと、中から白刃がひらめいて男は逆袈裟に斬り上げられて絶命した。
「ウォーター。」
 反りのない刀を高速で垂直に鞘へと納めたヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。


 ヘレン・ケラーは要人を年に十数人ほど殺害していた。特定の思想信条によらず依頼が成立すれば構わず殺していた。依頼が成立しさえすればもはや100%暗殺が成功する、暗殺マシーンと恐れられていた。恐れたところでどの道防ぐことはかなわないのだった。
 あるときはプライベートジェットの中にまで平気な顔をして現れた。ターゲットがかすかな違和感を覚えて顔を通路側に出したちょうどそのとき、ハンドガンを握ったままのボディーガードの切り捨てられた腕が目の前を飛んでいった。前方では腕のない死体の、胴に突き立った仕込み杖をヘレン・ケラーがゆっくり引き抜くところだった。動きはあくまで緩慢だというのに、ほとんど冗談のような速さで気づけばもう目の前にいて、ターゲットが何か声を出そうとしたときにはすでに、喉を斬られていた。


「おっら、ケラー! これがウォーターじゃ! ウォーター!!」
 まだ幼く、無音の暗闇に突き落とされて日の浅かったヘレン・ケラーを縄で縛り上げ、バケツに汲んだ水を顔にぶっかけ続けている。それがヘレン・ケラーがサリバン先生と出会った最初だった。
「ケラー!! おっら言え、これがウォーターじゃ!!」
 目も見えず、耳も聞こえない、言葉も喋れないあわれな少女に、サリバン先生はこうして喋らせようと言うのだった。無謀だった。しかし奇跡は起きた。
「ウォーター。」
「でゃはーっ! やればできるじゃ。おみぇーっ!!」
 ヘレン・ケラーは喋った。しかし残念ながらそれ以降「ウォーター。」としか喋らなかった。
「ウォーター。」
 その日の夜中にサリバン先生が目をさますと、枕元にヘレン・ケラーが立っていた。体はベッドに縛り付けられて身動きがとれなかった。鼻と口を覆うように濡れたガーゼが載せられていた。ヘレン・ケラーがサリバン先生の口にじょうろから水をゆっくり滴らせていった。
「もっが! もっが! おいっ、ケラ、ケラーッ、おごご」
「ウォーター。」
 サリバン先生が溺れ死ぬのを覚悟したとき、ふいにヘレン・ケラーが手を止め、ガーゼを顔からはがして捨て、無言で闇の中へ消えていった。サリバン先生はベッドに縛り付けられたまま思った。これは警告なのだと。あんなやり方を私にするなという彼女の警告なのだ。サリバン先生はゲラゲラ笑いだした。ヘレン・ケラーをとんでもないおさせにして稼ごうと考えていたサリバン先生は、このときアイデアを鞍替えした。ヘレン・ケラーを暗殺マシーンに仕立て上げることにした。
「こりぁ才能だぁ。とんっでもねえ才能だぁ。こりぁ」
 サリバン先生はそれから3時間かけ、独特の動きで縄から脱け出した。


 手始めにサリバン先生はヘレン・ケラーを夜の人気のない公園に連れ出した。ハンマーを手渡し、ベンチに一人座るおじさんを指差した。
「あいつぉ殺せぇ。あいつぁ悪のじじいだゃ」
 ヘレン・ケラーはすたすたと近づいていった。ふと顔をあげたおじさんの額に、なめらかにハンマーを降り下ろした。
「ウォーター。」
「いたい! やめて!! これはハンマー!」
 ヘレン・ケラーは2撃目を食らわした。
「ウォーター。」
「ハンマー!」
 何度も殴った。おじさんは意識が朦朧としているようだった。
「ウォーター。」
「はぁい。ウォーターでぇーす」
 おじさんは血まみれになって死んだ。
「よーぅやったでゃ!」
 遠くから見ていたサリバン先生が小躍りしながら走り寄って、おじさんから金目の物を奪い取っていった。サリバン先生の指示に従ってヘレン・ケラーは人を殺め続けた。
「拾ったじゃぁ~。拾ったじゃぁ~」
 サリバン先生が「拾った」という仕込み杖を渡すとヘレン・ケラーは教わりもせずに凄まじい剣技を見せてターゲットを斬っていった。全く融通無碍な剣術で、逆手に握ったり鞘で殴打したりまるで自由だった。その頃にはサリバン先生がどこからか依頼を受け、場所や時間を上手く設定し、ヘレン・ケラーが実行するという役割分担ができていた。
「わっすのマンネジメントがマンネタイズだゃ」
 サリバン先生は稼いだ金をヘレン・ケラーに分け与えなかった。しかし自分で遣うこともなかった。二人は最初と同じままボロ切れのような服を身に付けていた。サリバン先生は金へ多大な執着を見せたが、何かの目的があるというより、金そのものへの欲望に突き動かされているばかりで遣い方を知らなかった。それでも一軒家を買った。周りに家もない郊外の空き家を格安で買った。女二人で住むにはあまりに広い家だった。二人はリビングで寝起きし、他の部屋はサリバン先生が集めてくるゴミに満たされた。


 装飾のない、しかし徹底的に清潔な応接間で、サリバン先生は落ち着かない様子だった。分厚いドアから長身の立派な体躯を備えた老人が現れた。真っ白な髭を豊かにたくわえ、無表情のままサリバン先生とヘレン・ケラーを見下ろした。
「お越しいただき、ありがとう。私がアレクサンダー・グラハム・ベルです」
 電話の発明で著名なベル博士だった。彼は聾教育でも知られた人だった。彼の母と妻が聾者であったことからそうした人々への教育にも熱心だったのだ。ベル博士は「ウォーター。」としか喋ることのない盲聾者の年若い女性がいると噂に聞き、その当人を探しあてて呼んだのだった。
 ベル博士が握手もなしに、机を挟んで二人の向かいに座ってすぐ、サリバン先生はやたらな早口で乞うた。
「しぇんしぇえー。こん子はなぁ、目ぇも見ぇーず。耳も聞こぇーず。かわいそうじゃ。恵んでくだしぇ」
「私は金で施さない」
 あまりにベル博士の断り方がきっぱりしていたから、サリバン先生は混乱して無意味に手を上下させはじめた。
「どってぇ? どってぇ? ほーすぅぃたーら、どってぇ呼んだじぇ?」
「私は彼女に教育を与えたいのだ」
「えーん。こん子わぁ。教えたってウォーターしか喋りょらんじゃ。バカですで。」
「断じてそんなことはない!」
「ひぃーえっ」
 突然、獣の吼えるような腹の底から響く声を上げ、ベル博士は机を分厚い両手のひらで叩いた。サリバン先生はひどくおびえていた。泣き出しそうな子供の顔でベル博士の顔のあたりに視線をうろつかせた。しかしベル博士はサリバン先生を全く見ていなかった。ヘレン・ケラーの無音の闇に閉じ込められたままの顔を見つめていた。
「そんなことはありません。私は一目見て確信しました。この人は極めて聡明です。適切な教育機会さえあれば、大学にさえ進めた人でしょう。しかし今からでも遅くはありません。言葉という光の道を与え、彼女を音の無い暗闇から解放する」
 ベル博士はそこで言葉を区切って黙った。ヘレン・ケラーをじっと見つめたままだった。サリバン先生はおどおどと二人の顔を交互に見比べていた。そのまま沈黙が5分ものあいだ流れた。ベル博士が息を吸う音が立って何かを言いかけた。
「ウォーター。」
 しかし沈黙を破ったのはヘレン・ケラーの方だった。ベル博士は何かを言うのをやめた。また沈黙がたっぷり8分も横たわった。ベル博士はふいに、ソファに立て掛けられたヘレン・ケラーの太い杖に視線を移した。黙ったままそれを見つめていた。サリバン先生はさらに高速で二人を交互に見る作業に没入していた。
 突如ヘレン・ケラーの右手が素早く杖をつかみ、同時に立ち上がり、杖を垂直に目の前に構えた。左手が鞘側を、右手が逆手で柄側を握っていた。サリバン先生にはほとんど、ヘレン・ケラーが刀を抜いて机越しにベル博士を斬殺するイメージが見えていたが、実際にはヘレン・ケラーは構えのまま静止していた。ベル博士は深く腰かけどこか冷ややかにヘレン・ケラーのその姿勢を黙って見つめていた。
「かかかっか帰りますぇーっ」
 サリバン先生はあわてふためいてヘレン・ケラーをなかば押し出すようにして部屋をあとにした。


「このあと流します映像には、大変残酷な場面が含まれます。ご注意下さい」
と男性アナウンサーが白々しく沈鬱な表情を浮かべて断った。監視カメラの白黒の映像が映された。音はなかった。
 ビルの広いホールだった。隙間からは煙が漏れ、部屋全体に天井のスプリンクラーが水をまいていた。どしゃ降りのなか、右下隅から小柄で背の曲がった白い人影が、よたよたという歩き方で現れた。ホールには20名ほどの銃器で武装したスーツ姿の男が散らばっていた。全員が白い人影に銃を向けていた。一瞬、画面の一部がサチュレーションして白に覆われた。一人が発砲したのだ。次のコマではその発砲した男の両腕がはね飛ばされていた。そして次々に画面の至るところで白く光っていった。白い人影はあいかわらずよたよたと右へ左へ揺れ動いていた。そのたびごとに男たちは血しぶきを上げて倒れていった。たかだか2分ほどのうちに活動可能な男たちは半減した。ついに逃げ出そうとする男が現れた。白い人影から細長く光る線が発したと思うと逃げ出した男に突き刺さり男が倒れた。刀を手放した白い人影はしかし左手に握った鞘で立て続けに三人を打ち倒し、倒れた男から刀を抜き取って再び手にした。
 全員を倒した。どしゃ降りの水が大量の血をさらに床に広げていた。画面の左上隅で振り返ってホールの全体を見つめていた白い人影は、向き直ってホールをあとにした。
 監視カメラの映像が終わり、一人の男のインタビューが始まった。両腕が肘の先から失われていた。
「それは女でした。30歳くらいかと思います」
「彼女は終始目をつぶっているようでした。何も見ていないようでした。しかし我々の銃弾、その弾道をあたかも最初から『知っている』ようでした。避けるというより、あらかじめ体をズラしているという感じでした。どれだけ撃っても当たらないのです」
「とてもゆったりした動きでした。ところが気づいたときにはもう懐に入り込んでいました。何もできませんでした。ただただ、私は自分の腕が下から斬られていくのを見ているだけでした」
「彼女は一瞬ほほえみのような表情を浮かべ、はっきりとはわかりませんが何か、『ウォーター』というような言葉を呟きました。生き残ったのは結局、私一人でした」
 腕のない男は淡々と喋っていた。


 着々と要人の暗殺を重ねていたヘレン・ケラーだったが、一方でベル博士による介入も続いていた。ベル博士は氷のような冷たい表情のまま奇妙な熱心さでヘレン・ケラーへの教育を諦めなかった。サリバン先生は自分たち二人の順調で、ある意味おだやかな生活を乱すような真似をされて不愉快さをむき出しにした。ベル博士はあからさまにサリバン先生がヘレン・ケラーの教育を妨害していると見なしている様子で、応接室への同行を拒絶したが、
「いやぁ、でもぉ、ケラーん気持ちぃ、わかるんわぁ、わっすだーけ。わっすだーけ。じゃからぁ……」
と何か言い訳みたいにだらだら言いながらサリバン先生は、ベル博士が立派な体躯で塞いだドアの隙間から、独特の動きで体をねじ込んで勝手に部屋に入ってくるのだった。
「ウォーター。」
ヘレン・ケラーは言った。
 次第にサリバン先生とベル博士は鋭く対立していった。家の中ではそれまで何か下品に笑っていたサリバン先生が突然思い出したようにベル博士を口汚く罵ったりした。
 サリバン先生とヘレン・ケラーの暮らす家が燃えた。家を満たしていたゴミのおかげでよく燃えた。月に一度のベル博士の訪問のあいだのことだったから、二人は無事だった。失火か放火かは不明だった。しかしサリバン先生は絶叫した。
「ベルのじじぃーっ!! もーぅ殺す!!!」
 暗殺で稼いだ金は床下に無造作に入れてあったから、財産の一切が焼失した。二人とも親類づきあいをまるで持たなかったから頼るあてがなかった。サリバン先生は迷わずベル博士を訪ねた。
「家ぇーが燃えたじぇ。金ぇーもないじぇ」
「それはさぞお困りでしょうな」
 ベル博士はその場で、2万ドルをキャッシュで手渡した。
「わっすぁ、たかりじゃーねのっす!! でゃど、ありがてぃーだゃ。ありがてぃ」
 サリバン先生はベル博士の分厚い手を握って泣いた。掛け値なしに純粋な感謝の涙だった。その後仮住まいのモーテルに戻ってまたベル博士を罵り始めた。ベル博士への感謝と憎悪は、サリバン先生の中では別に矛盾も起こさず共存しているのだった。その後、町中の安アパートを借りて女二人で暮らし始めた。サリバン先生は他の「仕事」も持ち込まず、普通の暮らしを続けていた。2ヶ月ほどが経った。
「さぁて。殺す。」
 サリバン先生はにわかにヘレン・ケラーの服の裾をまくり上げ、背の素肌をさらした。そして猛烈な早さで背中を指でなぞり始めた。それはベル博士の住居兼職場であったベルビルの詳細な見取り図だった。いつもこうしてターゲットの居場所を指示していた。1階から進み14階の見取り図をなぞったところで、背中の一点を皮の厚い人差し指でどんどんと叩いた。ここにターゲットがいる。殺せ。
 少し疲れた様子でサリバン先生は、まだみずみずしく白いヘレン・ケラーの背に、頬をつけ頭の重みをあずけた。サリバン先生はそのとき44歳だったが、まるで60過ぎのように見えた。


 翌日、サリバン先生はいつもどおりに買い物へ出掛け、ヘレン・ケラーは部屋で一人ソファに座っていた。夕方で日も傾きかけていたが電灯をつける必要がなかった。真っ赤な日が部屋に差し込んでヘレン・ケラーの顔に強い陰影を作り出していたが、彼女自身はそれを知らない。アパートの階段を音もなく駈け上がり、二人の部屋の前に武装した男たちが集まっていた。全員が揃いの装備を身に付けよく訓練された無駄の無い動きだった。そのうちの一人が中の様子を伺おうと木製のドアに寄って聴診器を当てた。その男がくぐもった呻き声を強く上げ、聴診器を取り落とした。周りの仲間がいぶかしげに目をやると男の背から血まみれの切っ先が突き出ていた。ドア越しに突き殺されたのだった。にわかに興奮と殺気が男たちの間に立ち込めた。刀がやにわにドアの向こうへ引っ込み、男が崩れ落ちた。
 仲間の遺体をどけ、ドアを蹴破って男たちが侵入した。しかし逆上して慌てて入り込むようなこともなく、あくまで落ち着いて的確な身振りで手前のバスルーム、キッチンと部屋を一つづつクリアしていった。誰もいなかった。廊下を進んで最後の一部屋、リビングのドアを開けた。
 もう日が落ちて薄暗い部屋に、真っ白な服を着た人影が、逆手に仕込み杖を持ち、腰を落としてやわらかく立っていた。
 男たちは銃口を素早く白い人影に向け、一斉にためらうことなく撃ち込んだ。
 サリバン先生が帰宅すると部屋中に男たちの四肢や死体が落ちていた。
「いやぁーっ!」
とサリバン先生は絶叫したが、買い物袋を落とすこともなく取り乱しもせずに
「おっしゃ。もうベル殺そ?」
と言った。
「ウォーター。」


 ベル博士は14台のモニターが並んだ壁面を、ソファに座って見つめていた。1階から8階までラベリングされたモニターにはただ床に死屍累々が築かれ、動くものの一つもない画面が流れていた。そして今、9階で超絶的な速度で武装した兵士らを斬殺していくヘレン・ケラーの映像が流れていた。ベル博士はヘレン・ケラーの動きにじっと視線を注ぎ続けていた。
 ヘレン・ケラーはベルビルの14階にたどり着いた。ひとつの扉に手を当てた。サリバン先生が背中に描いた地図の、ここがターゲットのいるとされた部屋だった。しかしヘレン・ケラーはふいに手を離すと、踵を返して向かい側の部屋の扉を押し開けた。二人が何度も通ったあの応接室だった。中にはベル博士が一人いた。
「驚いた。さすがだ。あの部屋には、ガスが……あなたを楽に逝かせるために、ガスが仕込んであったのだが……」
 言葉とは裏腹に驚いた様子もなくベル博士は言った。応接室はソファやテーブルが全て片付けられ広々としていた。
「あなたは……哀れだ。しかし、それだからといって、あなたの罪が免ぜられるわけではない」
 ベル博士は壁に立て掛けてあった刀を手に取って抜いた。幅広の重厚な打刀だった。それをぴたりと正眼に構えた。隙の無い構えだった。ベル博士は正確にイメージしていた。融通無碍に見えるヘレン・ケラーの剣術だったが、そこには一定の型のようなものがあった。ただそれが既存の剣術とかけ離れていたために一見法則性がないように映るだけだった。ベル博士は13階分のおびただしい私兵の犠牲を払ってその型を見極めた。一撃目だ。一撃目さえ防ぎきれば必勝。どちらが先に打ち込むかの我慢比べだ、と思った。
 我慢比べを覚悟したベル博士の認識とはうらはらに、ヘレン・ケラーはあっさりゆらゆらした足取りで素早く間合いを詰めてきた。そのままノーモーションで横薙ぎの斬撃を逆手から無造作に繰り出した。ベル博士はそれを完璧なタイミングで受けきった。勝ったと思った。ベル博士は溢れんばかりの慈愛に満ちた瞳をヘレン・ケラーに一瞬向けた。そして攻撃へと転じようとした刹那、ヘレン・ケラーは猛烈な力で払い落としながら、そのまま刀から手を離した。まるで想定していなかった、この場面で自ら刀を捨てる行為にベル博士が驚愕する間もなく、ヘレン・ケラーは別の手に握った拳銃の口をベル博士の顎下に当て撃ち抜いた。ベル博士は即座に絶命して床に無惨に崩れ落ちた。ヘレン・ケラーは銃を捨てた。それは私兵の標準装備品だった。拾った仕込み杖を鞘に戻した。


「ひっひっふー。ひっひっふー」
 サリバン先生は息を切らして走っていた。人気の絶えた夜の町を、両手と背中に自分一人分ほどもある荷物をめいっぱい抱えて走っていた。角を曲がったところで突然視界にあらわれた人影を前にして急停止した。薄汚れたぼろきれをまとった小柄な女だった。ヘレン・ケラーだった。
「なんじゃああーっ。おめぇー生きとっただぁーっ!?」
 その場でいきなりサリバン先生は荷物を全部どっさり取り落とした。
「おみぇーはもう、人間じゃねえだ!!」
「あんた、ベルに取り入って裏切ったようだが……」
「しぇーーーッ!!!」
 サリバン先生はすみやかに尿をシャーッと漏らした。
「おみぇ、おみぇ、しゃべれんだかぁああ?? み、み、みみみも聞こえてぃーる」
 ぐうっとヘレン・ケラーの両まぶたが開いた。静かに獰猛な、青い光を湛えた双眸があらわになった。わずかな間、両目がそれぞれ独立に少し振れていたが、やがて静止しサリバン先生の顔を見据えた。サリバン先生は自分でも気づかないうちに後ずさっていた。ヘレン・ケラーはじっと顔を見据えたままそれを追い詰めていった。店のシャッターに背中をぶつけ、サリバン先生はその場にへたりこんだ。
「おっ、おみぇ、見えてただか……」
「そうだよ?」
 サリバン先生はもう大声を出す気力も失って喋っていない間も酸素の足りない金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「なんで、なんでなんで、今まで、隠してた」
「見ねえし聞かねえ方が、見えるし聞こえるんだよ。人の心ってもんがさ」
 高速で刀身が鞘を走り抜け、切っ先がサリバン先生の両眼からただちに、永遠に光を奪い去った。自身の眼を斬られたとサリバン先生が認識した時点ですでにヘレン・ケラーは納刀していた。サリバン先生は顔を両手で覆った。その間から血が溢れ出ている。
「あああ、熱ぃーい。水を、水」
「ウォーター。」
 ヘレン・ケラーが身体を半回転させると同時に再び白刃が閃いて消えた。歩道脇の鉄の消化栓が真っ二つに切断され大量の水が噴き上がり、二人の上へどしゃ降りに降った。
「わかるか? サリバン先生。これがウォーター。ウォーターだ」
 サリバン先生は片手で血まみれの顔を覆い、もう一方の手でなにかを求めるように落ちる水の中をむなしく探っていた。
「自分で盲になってみれば、あんたもわかるさ」
 ヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。