OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (12)

 男は、自分が正当な先頭だと隣の列に無理して割り込むか、この不条理を受け入れてすごすごと最後尾にまわるか、その与えられた二つの選択肢のうちの後者を選びとって私の後ろについた。憤慨と愉快が同時に突き上げてきて私を不快にさせる。一方で正しさを貫けなかった男の弱さに怒りを覚え、他方で全く理不尽に不平等を人が甘受する様に歓びを覚える。不愉快極まりないこの状態を耐えるために目を閉じていると耳もとで「替わって下さい」と声が響いた。驚いて振り向くと男がへらへら笑いを浮かべている。
「僕と、場所を替わって下さい」
 私は頭に燃える熱さを感じながら男に言う。
「あんた、私の前に並んでいる全員、先頭以外の全員に同じこと言いなさいよ。そうしてこの列の二番目までさかのぼる気があるんだったら替わってやってもいいけど」
「いやいや、別にあなただけ替わってくれれば良いんですよ。だってあなたは私より後に並んだじゃないですか。後に来たのに先に乗るなんておかしいじゃないですか」
「私だけじゃない。二番目以降、全員だよ」
「でもあなたがとにかく私の後に並んで下さいよ。そうすれば良いんですよ。私はそれで十分なんですよ」
「お前の溜飲を下げるために私はいるんじゃない。頭に割り込めなかった自分の弱さを呪えよ馬鹿野郎」
「私は正しいんですよ、みんなが間違っているんですよ」
「残念だけど、フォロアーがいなきゃ世間は正しいと認めてくれないんだよ。それか自分だけ信じて黙ってやるかのどっちかだね。甘ったれたこと言ってんじゃないよ」
「でも、でも、私は最初から並んでたんですよ!」
「知らないわよ。知ってるけど知らないわよ。世間がどうだろうと自分が正しいと思ってるなら無理して頭で割って入れ。あんたはあきらめてすごすご後ろに並んだ。世間に負けたんだ。もうダメだよ。往生際が悪い」
 周囲の誰もが私と男のやりとりを注視している。周りを見回して確かめた訳ではないけれど、見ない振りをして見られている。きっと自分もそちらに回ればそうするのだから構わないけれどただ、ひたすら吐き気がするだけなのだ。私は目立つことが苦手なので世間に埋没するように生きてきたのに、こんなところで息が苦しい。
「知ってますよね、私がちゃんと最初から並んでたってみんな、ちゃあんと知ってるのにおかしいですよ、ね、ね、あなただけでいいんですよそうしたらいいんですよ、私もそれで気がおさまるし」
 男は興奮を強めて喚き続けているが、「世間に負けた」というフレーズをさっき口にしてから「昭和枯れすゝき」の歌が私の頭の中で流れ始めて仕様がないので男のことが急にどうでもよくなった。
貧しさに負けた
「だいたい私、この電車に座るために一本前の電車を見送ってるんです」
いえ世間に負けた
「毎朝私はこの電車に乗っているのだから、同じ顔の人が何人もいるのに」
この街も追われた
「誰も私を擁護しない!」
いっそきれいに死のうか
「こんな気持ちじゃ、出社してもしきれない」
力の限り生きたから
「だから僕は精一杯のことをしたいんだ」
未練などないわ
「絶対にあきらめない」
花さえも咲かぬ
「何で黙ってるの」
二人は枯れすすき
「嫌な女だ」
「あんたにとっての良い女って自分が安全でいられる奴でしょ。そんなの糞食らえだよ」
 ふいに、私がプラットホームの縁に立っていて、突然背中に衝撃を感じて気づいてみると、線路の間に身を沈めていて代わりに、男が私の立っていた縁に立って笑っている周りも笑っている、突き落とされたのだと、気づくイメージに襲われていったい、今のはどこから来た何だったのか呆然としていると電車がホームに滑らかに到着した。
 ああ、うるさい、うるさい!
 男はさらに激しく言い募る。
「お願いよお願いなのよ、あんた一人でいいの。あんたより先に行けたらもう十分なのよ来ちゃった電車来ちゃったじゃない早く早く!」
 男はほとんど恐慌をきたしてオカマ口調になってくねくねしていた。車内から乗客が降りきって列が進み始める。男は泣き声を上げている。私はそれを無視して進む。けれどふいに振り返って私は男に告げる。
「先に行ってもいいよ」
 意味がすぐに通らなかったらしく男は曖昧な顔をした。
「そのかわり中腰で乗るんだよ。腰の曲がったおばあちゃんみたいな具合に進むんだ」
 私の提示した条件に男は怪訝そうな顔をしてみせるが言われた通りに私の前を進む。もはや車内は満員で乗り込む余地が無い。人の束に男は頭を突き込む。最後尾の私が入るスペースはもはや無い。発車のベルが鳴る。私は後ずさる。十分な距離をとる。そしてドアに向かって、男の背に向かって、私は駆け出す。ホームの「黄色い線」で踏み切る。跳ぶ。車内に身体を滑り込ませる、男の背中を踏み付ける、踏み切る、さらに跳ぶ、ドアが閉まる。乗客の肩を踏む、跳ぶ、踏む、網棚の上によじ上る。網棚の上に体をもぐり込ませ、邪魔なサラリーマンどもの鞄を下に捨てた。
 私は日常的に満員電車に乗る訳ではないが、見ればわかる。どれだけ混雑していても網棚のあたりはすいているのだ。素人でも気づく事実をこの馬鹿どもは毎日目に映しながら見ようとしなかった。今こうして怒鳴り散らし手を伸ばして私を引きずり落とそうとしている彼らは、鞄を捨てられたことへの怒りではなく、後から来た私が余裕のスペースを持った不公平感を解消しようとしているだけだ。
「悔しかったらここまで上れ」
 私は私に伸びる手をことごとく金づちで叩き潰す。さっきの男がドアに顔を押し付けながら快哉を叫ぶ。次第に手は減って誰もが黙り始める。これを日常として受け入れ始めたのかもしれない。
 ようやく私も心を落ち着けて電車に身をゆだねた。ゆだねてみると、網棚が身体に食い込んで痛い。網棚の乗り心地はこれまで黙殺されてきたらしいが、もはや時代はそれを許さない。東急にはすみやかに改善して欲しい。
 一瞬車内がざわついた後、一角で人の穴ができた。その中心で若い出勤中の女がうずくまっている。その女の背中越しに床へ嘔吐したものが散らばっているのを見た。満員電車の人いきれに酔ったらしい。見てしばらく間があって臭いが届いた。臭いはほとんど反射的に私に吐き気を催させた。私は我慢強い種類の成人女性ではないので吐いた。ただしその直前にポケットから取り出したビニール袋を手早く口に当て、その中へ吐いて封じ込めた。吐いたものを袋越しにしげしげ眺めながら結局エビは私の栄養にならなかったのかと思うと悲しい気持ちになるし、どうせあの女は吐いて臭いも車内に漂っていることだし一も二も大差ないだろうと、ビニール袋の中身を上からみんなに向けてぶち撒けた。ゲロというものは妙な粘度を有する。水のような液体と扱っても砂のような粉末と扱っても正しくコントロールできるはずはない。広範囲に平等に撒くにはそれなりの技術が必要だ。しかし私は昔から撒くのが得意なので広く、薄く、香りが効果的に立つような撒き方が可能だった。あの女のゲロから逃れられたと思い込んでいた乗客は頭上に別のゲロが振ってきて狂乱した。そこのおっさん、ハンカチで口と鼻を覆っていたね。窓外に目を向けていたね。それでもう自分はゲロと無関係でいられると思っていたんでしょ。でも残念でした。逃がさないよ。
 悲鳴だらけの満員電車は上から眺めると黒い頭がうねうねと波立っていたので私は網棚から転がり落ちて波に身を横たえてみた。臭いに誘われてあちこちで吐く音が聞こえる。私はとてもすっきりした気持ちで仰向けに波に揺られる。天井の空調用の穴を見つめる。電車が渋谷駅に到着した。波に揺られるまま車外へ出てゆっくり地面に降りたって改札を抜けて地上に上がる。午前七時五十分だった。


(つづく)