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創作のブログです。

奇跡の人

 夜の町の曲がり角で小柄な老婆とぶつかりかけた。老婆は
「ウォーター。」
と言った。その抑揚を奇妙に欠いたイントネーションと、文脈にそぐわぬ言葉をいぶかって男がよくよく見れば、老婆ではなくまだ30前後の女だった。ヘレン・ケラーだった。彼女の太い杖がいきなり跳ね上がったかと思うと、中から白刃がひらめいて男は逆袈裟に斬り上げられて絶命した。
「ウォーター。」
 反りのない刀を高速で垂直に鞘へと納めたヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。


 ヘレン・ケラーは要人を年に十数人ほど殺害していた。特定の思想信条によらず依頼が成立すれば構わず殺していた。依頼が成立しさえすればもはや100%暗殺が成功する、暗殺マシーンと恐れられていた。恐れたところでどの道防ぐことはかなわないのだった。
 あるときはプライベートジェットの中にまで平気な顔をして現れた。ターゲットがかすかな違和感を覚えて顔を通路側に出したちょうどそのとき、ハンドガンを握ったままのボディーガードの切り捨てられた腕が目の前を飛んでいった。前方では腕のない死体の、胴に突き立った仕込み杖をヘレン・ケラーがゆっくり引き抜くところだった。動きはあくまで緩慢だというのに、ほとんど冗談のような速さで気づけばもう目の前にいて、ターゲットが何か声を出そうとしたときにはすでに、喉を斬られていた。


「おっら、ケラー! これがウォーターじゃ! ウォーター!!」
 まだ幼く、無音の暗闇に突き落とされて日の浅かったヘレン・ケラーを縄で縛り上げ、バケツに汲んだ水を顔にぶっかけ続けている。それがヘレン・ケラーがサリバン先生と出会った最初だった。
「ケラー!! おっら言え、これがウォーターじゃ!!」
 目も見えず、耳も聞こえない、言葉も喋れないあわれな少女に、サリバン先生はこうして喋らせようと言うのだった。無謀だった。しかし奇跡は起きた。
「ウォーター。」
「でゃはーっ! やればできるじゃ。おみぇーっ!!」
 ヘレン・ケラーは喋った。しかし残念ながらそれ以降「ウォーター。」としか喋らなかった。
「ウォーター。」
 その日の夜中にサリバン先生が目をさますと、枕元にヘレン・ケラーが立っていた。体はベッドに縛り付けられて身動きがとれなかった。鼻と口を覆うように濡れたガーゼが載せられていた。ヘレン・ケラーがサリバン先生の口にじょうろから水をゆっくり滴らせていった。
「もっが! もっが! おいっ、ケラ、ケラーッ、おごご」
「ウォーター。」
 サリバン先生が溺れ死ぬのを覚悟したとき、ふいにヘレン・ケラーが手を止め、ガーゼを顔からはがして捨て、無言で闇の中へ消えていった。サリバン先生はベッドに縛り付けられたまま思った。これは警告なのだと。あんなやり方を私にするなという彼女の警告なのだ。サリバン先生はゲラゲラ笑いだした。ヘレン・ケラーをとんでもないおさせにして稼ごうと考えていたサリバン先生は、このときアイデアを鞍替えした。ヘレン・ケラーを暗殺マシーンに仕立て上げることにした。
「こりぁ才能だぁ。とんっでもねえ才能だぁ。こりぁ」
 サリバン先生はそれから3時間かけ、独特の動きで縄から脱け出した。


 手始めにサリバン先生はヘレン・ケラーを夜の人気のない公園に連れ出した。ハンマーを手渡し、ベンチに一人座るおじさんを指差した。
「あいつぉ殺せぇ。あいつぁ悪のじじいだゃ」
 ヘレン・ケラーはすたすたと近づいていった。ふと顔をあげたおじさんの額に、なめらかにハンマーを降り下ろした。
「ウォーター。」
「いたい! やめて!! これはハンマー!」
 ヘレン・ケラーは2撃目を食らわした。
「ウォーター。」
「ハンマー!」
 何度も殴った。おじさんは意識が朦朧としているようだった。
「ウォーター。」
「はぁい。ウォーターでぇーす」
 おじさんは血まみれになって死んだ。
「よーぅやったでゃ!」
 遠くから見ていたサリバン先生が小躍りしながら走り寄って、おじさんから金目の物を奪い取っていった。サリバン先生の指示に従ってヘレン・ケラーは人を殺め続けた。
「拾ったじゃぁ~。拾ったじゃぁ~」
 サリバン先生が「拾った」という仕込み杖を渡すとヘレン・ケラーは教わりもせずに凄まじい剣技を見せてターゲットを斬っていった。全く融通無碍な剣術で、逆手に握ったり鞘で殴打したりまるで自由だった。その頃にはサリバン先生がどこからか依頼を受け、場所や時間を上手く設定し、ヘレン・ケラーが実行するという役割分担ができていた。
「わっすのマンネジメントがマンネタイズだゃ」
 サリバン先生は稼いだ金をヘレン・ケラーに分け与えなかった。しかし自分で遣うこともなかった。二人は最初と同じままボロ切れのような服を身に付けていた。サリバン先生は金へ多大な執着を見せたが、何かの目的があるというより、金そのものへの欲望に突き動かされているばかりで遣い方を知らなかった。それでも一軒家を買った。周りに家もない郊外の空き家を格安で買った。女二人で住むにはあまりに広い家だった。二人はリビングで寝起きし、他の部屋はサリバン先生が集めてくるゴミに満たされた。


 装飾のない、しかし徹底的に清潔な応接間で、サリバン先生は落ち着かない様子だった。分厚いドアから長身の立派な体躯を備えた老人が現れた。真っ白な髭を豊かにたくわえ、無表情のままサリバン先生とヘレン・ケラーを見下ろした。
「お越しいただき、ありがとう。私がアレクサンダー・グラハム・ベルです」
 電話の発明で著名なベル博士だった。彼は聾教育でも知られた人だった。彼の母と妻が聾者であったことからそうした人々への教育にも熱心だったのだ。ベル博士は「ウォーター。」としか喋ることのない盲聾者の年若い女性がいると噂に聞き、その当人を探しあてて呼んだのだった。
 ベル博士が握手もなしに、机を挟んで二人の向かいに座ってすぐ、サリバン先生はやたらな早口で乞うた。
「しぇんしぇえー。こん子はなぁ、目ぇも見ぇーず。耳も聞こぇーず。かわいそうじゃ。恵んでくだしぇ」
「私は金で施さない」
 あまりにベル博士の断り方がきっぱりしていたから、サリバン先生は混乱して無意味に手を上下させはじめた。
「どってぇ? どってぇ? ほーすぅぃたーら、どってぇ呼んだじぇ?」
「私は彼女に教育を与えたいのだ」
「えーん。こん子わぁ。教えたってウォーターしか喋りょらんじゃ。バカですで。」
「断じてそんなことはない!」
「ひぃーえっ」
 突然、獣の吼えるような腹の底から響く声を上げ、ベル博士は机を分厚い両手のひらで叩いた。サリバン先生はひどくおびえていた。泣き出しそうな子供の顔でベル博士の顔のあたりに視線をうろつかせた。しかしベル博士はサリバン先生を全く見ていなかった。ヘレン・ケラーの無音の闇に閉じ込められたままの顔を見つめていた。
「そんなことはありません。私は一目見て確信しました。この人は極めて聡明です。適切な教育機会さえあれば、大学にさえ進めた人でしょう。しかし今からでも遅くはありません。言葉という光の道を与え、彼女を音の無い暗闇から解放する」
 ベル博士はそこで言葉を区切って黙った。ヘレン・ケラーをじっと見つめたままだった。サリバン先生はおどおどと二人の顔を交互に見比べていた。そのまま沈黙が5分ものあいだ流れた。ベル博士が息を吸う音が立って何かを言いかけた。
「ウォーター。」
 しかし沈黙を破ったのはヘレン・ケラーの方だった。ベル博士は何かを言うのをやめた。また沈黙がたっぷり8分も横たわった。ベル博士はふいに、ソファに立て掛けられたヘレン・ケラーの太い杖に視線を移した。黙ったままそれを見つめていた。サリバン先生はさらに高速で二人を交互に見る作業に没入していた。
 突如ヘレン・ケラーの右手が素早く杖をつかみ、同時に立ち上がり、杖を垂直に目の前に構えた。左手が鞘側を、右手が逆手で柄側を握っていた。サリバン先生にはほとんど、ヘレン・ケラーが刀を抜いて机越しにベル博士を斬殺するイメージが見えていたが、実際にはヘレン・ケラーは構えのまま静止していた。ベル博士は深く腰かけどこか冷ややかにヘレン・ケラーのその姿勢を黙って見つめていた。
「かかかっか帰りますぇーっ」
 サリバン先生はあわてふためいてヘレン・ケラーをなかば押し出すようにして部屋をあとにした。


「このあと流します映像には、大変残酷な場面が含まれます。ご注意下さい」
と男性アナウンサーが白々しく沈鬱な表情を浮かべて断った。監視カメラの白黒の映像が映された。音はなかった。
 ビルの広いホールだった。隙間からは煙が漏れ、部屋全体に天井のスプリンクラーが水をまいていた。どしゃ降りのなか、右下隅から小柄で背の曲がった白い人影が、よたよたという歩き方で現れた。ホールには20名ほどの銃器で武装したスーツ姿の男が散らばっていた。全員が白い人影に銃を向けていた。一瞬、画面の一部がサチュレーションして白に覆われた。一人が発砲したのだ。次のコマではその発砲した男の両腕がはね飛ばされていた。そして次々に画面の至るところで白く光っていった。白い人影はあいかわらずよたよたと右へ左へ揺れ動いていた。そのたびごとに男たちは血しぶきを上げて倒れていった。たかだか2分ほどのうちに活動可能な男たちは半減した。ついに逃げ出そうとする男が現れた。白い人影から細長く光る線が発したと思うと逃げ出した男に突き刺さり男が倒れた。刀を手放した白い人影はしかし左手に握った鞘で立て続けに三人を打ち倒し、倒れた男から刀を抜き取って再び手にした。
 全員を倒した。どしゃ降りの水が大量の血をさらに床に広げていた。画面の左上隅で振り返ってホールの全体を見つめていた白い人影は、向き直ってホールをあとにした。
 監視カメラの映像が終わり、一人の男のインタビューが始まった。両腕が肘の先から失われていた。
「それは女でした。30歳くらいかと思います」
「彼女は終始目をつぶっているようでした。何も見ていないようでした。しかし我々の銃弾、その弾道をあたかも最初から『知っている』ようでした。避けるというより、あらかじめ体をズラしているという感じでした。どれだけ撃っても当たらないのです」
「とてもゆったりした動きでした。ところが気づいたときにはもう懐に入り込んでいました。何もできませんでした。ただただ、私は自分の腕が下から斬られていくのを見ているだけでした」
「彼女は一瞬ほほえみのような表情を浮かべ、はっきりとはわかりませんが何か、『ウォーター』というような言葉を呟きました。生き残ったのは結局、私一人でした」
 腕のない男は淡々と喋っていた。


 着々と要人の暗殺を重ねていたヘレン・ケラーだったが、一方でベル博士による介入も続いていた。ベル博士は氷のような冷たい表情のまま奇妙な熱心さでヘレン・ケラーへの教育を諦めなかった。サリバン先生は自分たち二人の順調で、ある意味おだやかな生活を乱すような真似をされて不愉快さをむき出しにした。ベル博士はあからさまにサリバン先生がヘレン・ケラーの教育を妨害していると見なしている様子で、応接室への同行を拒絶したが、
「いやぁ、でもぉ、ケラーん気持ちぃ、わかるんわぁ、わっすだーけ。わっすだーけ。じゃからぁ……」
と何か言い訳みたいにだらだら言いながらサリバン先生は、ベル博士が立派な体躯で塞いだドアの隙間から、独特の動きで体をねじ込んで勝手に部屋に入ってくるのだった。
「ウォーター。」
ヘレン・ケラーは言った。
 次第にサリバン先生とベル博士は鋭く対立していった。家の中ではそれまで何か下品に笑っていたサリバン先生が突然思い出したようにベル博士を口汚く罵ったりした。
 サリバン先生とヘレン・ケラーの暮らす家が燃えた。家を満たしていたゴミのおかげでよく燃えた。月に一度のベル博士の訪問のあいだのことだったから、二人は無事だった。失火か放火かは不明だった。しかしサリバン先生は絶叫した。
「ベルのじじぃーっ!! もーぅ殺す!!!」
 暗殺で稼いだ金は床下に無造作に入れてあったから、財産の一切が焼失した。二人とも親類づきあいをまるで持たなかったから頼るあてがなかった。サリバン先生は迷わずベル博士を訪ねた。
「家ぇーが燃えたじぇ。金ぇーもないじぇ」
「それはさぞお困りでしょうな」
 ベル博士はその場で、2万ドルをキャッシュで手渡した。
「わっすぁ、たかりじゃーねのっす!! でゃど、ありがてぃーだゃ。ありがてぃ」
 サリバン先生はベル博士の分厚い手を握って泣いた。掛け値なしに純粋な感謝の涙だった。その後仮住まいのモーテルに戻ってまたベル博士を罵り始めた。ベル博士への感謝と憎悪は、サリバン先生の中では別に矛盾も起こさず共存しているのだった。その後、町中の安アパートを借りて女二人で暮らし始めた。サリバン先生は他の「仕事」も持ち込まず、普通の暮らしを続けていた。2ヶ月ほどが経った。
「さぁて。殺す。」
 サリバン先生はにわかにヘレン・ケラーの服の裾をまくり上げ、背の素肌をさらした。そして猛烈な早さで背中を指でなぞり始めた。それはベル博士の住居兼職場であったベルビルの詳細な見取り図だった。いつもこうしてターゲットの居場所を指示していた。1階から進み14階の見取り図をなぞったところで、背中の一点を皮の厚い人差し指でどんどんと叩いた。ここにターゲットがいる。殺せ。
 少し疲れた様子でサリバン先生は、まだみずみずしく白いヘレン・ケラーの背に、頬をつけ頭の重みをあずけた。サリバン先生はそのとき44歳だったが、まるで60過ぎのように見えた。


 翌日、サリバン先生はいつもどおりに買い物へ出掛け、ヘレン・ケラーは部屋で一人ソファに座っていた。夕方で日も傾きかけていたが電灯をつける必要がなかった。真っ赤な日が部屋に差し込んでヘレン・ケラーの顔に強い陰影を作り出していたが、彼女自身はそれを知らない。アパートの階段を音もなく駈け上がり、二人の部屋の前に武装した男たちが集まっていた。全員が揃いの装備を身に付けよく訓練された無駄の無い動きだった。そのうちの一人が中の様子を伺おうと木製のドアに寄って聴診器を当てた。その男がくぐもった呻き声を強く上げ、聴診器を取り落とした。周りの仲間がいぶかしげに目をやると男の背から血まみれの切っ先が突き出ていた。ドア越しに突き殺されたのだった。にわかに興奮と殺気が男たちの間に立ち込めた。刀がやにわにドアの向こうへ引っ込み、男が崩れ落ちた。
 仲間の遺体をどけ、ドアを蹴破って男たちが侵入した。しかし逆上して慌てて入り込むようなこともなく、あくまで落ち着いて的確な身振りで手前のバスルーム、キッチンと部屋を一つづつクリアしていった。誰もいなかった。廊下を進んで最後の一部屋、リビングのドアを開けた。
 もう日が落ちて薄暗い部屋に、真っ白な服を着た人影が、逆手に仕込み杖を持ち、腰を落としてやわらかく立っていた。
 男たちは銃口を素早く白い人影に向け、一斉にためらうことなく撃ち込んだ。
 サリバン先生が帰宅すると部屋中に男たちの四肢や死体が落ちていた。
「いやぁーっ!」
とサリバン先生は絶叫したが、買い物袋を落とすこともなく取り乱しもせずに
「おっしゃ。もうベル殺そ?」
と言った。
「ウォーター。」


 ベル博士は14台のモニターが並んだ壁面を、ソファに座って見つめていた。1階から8階までラベリングされたモニターにはただ床に死屍累々が築かれ、動くものの一つもない画面が流れていた。そして今、9階で超絶的な速度で武装した兵士らを斬殺していくヘレン・ケラーの映像が流れていた。ベル博士はヘレン・ケラーの動きにじっと視線を注ぎ続けていた。
 ヘレン・ケラーはベルビルの14階にたどり着いた。ひとつの扉に手を当てた。サリバン先生が背中に描いた地図の、ここがターゲットのいるとされた部屋だった。しかしヘレン・ケラーはふいに手を離すと、踵を返して向かい側の部屋の扉を押し開けた。二人が何度も通ったあの応接室だった。中にはベル博士が一人いた。
「驚いた。さすがだ。あの部屋には、ガスが……あなたを楽に逝かせるために、ガスが仕込んであったのだが……」
 言葉とは裏腹に驚いた様子もなくベル博士は言った。応接室はソファやテーブルが全て片付けられ広々としていた。
「あなたは……哀れだ。しかし、それだからといって、あなたの罪が免ぜられるわけではない」
 ベル博士は壁に立て掛けてあった刀を手に取って抜いた。幅広の重厚な打刀だった。それをぴたりと正眼に構えた。隙の無い構えだった。ベル博士は正確にイメージしていた。融通無碍に見えるヘレン・ケラーの剣術だったが、そこには一定の型のようなものがあった。ただそれが既存の剣術とかけ離れていたために一見法則性がないように映るだけだった。ベル博士は13階分のおびただしい私兵の犠牲を払ってその型を見極めた。一撃目だ。一撃目さえ防ぎきれば必勝。どちらが先に打ち込むかの我慢比べだ、と思った。
 我慢比べを覚悟したベル博士の認識とはうらはらに、ヘレン・ケラーはあっさりゆらゆらした足取りで素早く間合いを詰めてきた。そのままノーモーションで横薙ぎの斬撃を逆手から無造作に繰り出した。ベル博士はそれを完璧なタイミングで受けきった。勝ったと思った。ベル博士は溢れんばかりの慈愛に満ちた瞳をヘレン・ケラーに一瞬向けた。そして攻撃へと転じようとした刹那、ヘレン・ケラーは猛烈な力で払い落としながら、そのまま刀から手を離した。まるで想定していなかった、この場面で自ら刀を捨てる行為にベル博士が驚愕する間もなく、ヘレン・ケラーは別の手に握った拳銃の口をベル博士の顎下に当て撃ち抜いた。ベル博士は即座に絶命して床に無惨に崩れ落ちた。ヘレン・ケラーは銃を捨てた。それは私兵の標準装備品だった。拾った仕込み杖を鞘に戻した。


「ひっひっふー。ひっひっふー」
 サリバン先生は息を切らして走っていた。人気の絶えた夜の町を、両手と背中に自分一人分ほどもある荷物をめいっぱい抱えて走っていた。角を曲がったところで突然視界にあらわれた人影を前にして急停止した。薄汚れたぼろきれをまとった小柄な女だった。ヘレン・ケラーだった。
「なんじゃああーっ。おめぇー生きとっただぁーっ!?」
 その場でいきなりサリバン先生は荷物を全部どっさり取り落とした。
「おみぇーはもう、人間じゃねえだ!!」
「あんた、ベルに取り入って裏切ったようだが……」
「しぇーーーッ!!!」
 サリバン先生はすみやかに尿をシャーッと漏らした。
「おみぇ、おみぇ、しゃべれんだかぁああ?? み、み、みみみも聞こえてぃーる」
 ぐうっとヘレン・ケラーの両まぶたが開いた。静かに獰猛な、青い光を湛えた双眸があらわになった。わずかな間、両目がそれぞれ独立に少し振れていたが、やがて静止しサリバン先生の顔を見据えた。サリバン先生は自分でも気づかないうちに後ずさっていた。ヘレン・ケラーはじっと顔を見据えたままそれを追い詰めていった。店のシャッターに背中をぶつけ、サリバン先生はその場にへたりこんだ。
「おっ、おみぇ、見えてただか……」
「そうだよ?」
 サリバン先生はもう大声を出す気力も失って喋っていない間も酸素の足りない金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「なんで、なんでなんで、今まで、隠してた」
「見ねえし聞かねえ方が、見えるし聞こえるんだよ。人の心ってもんがさ」
 高速で刀身が鞘を走り抜け、切っ先がサリバン先生の両眼からただちに、永遠に光を奪い去った。自身の眼を斬られたとサリバン先生が認識した時点ですでにヘレン・ケラーは納刀していた。サリバン先生は顔を両手で覆った。その間から血が溢れ出ている。
「あああ、熱ぃーい。水を、水」
「ウォーター。」
 ヘレン・ケラーが身体を半回転させると同時に再び白刃が閃いて消えた。歩道脇の鉄の消化栓が真っ二つに切断され大量の水が噴き上がり、二人の上へどしゃ降りに降った。
「わかるか? サリバン先生。これがウォーター。ウォーターだ」
 サリバン先生は片手で血まみれの顔を覆い、もう一方の手でなにかを求めるように落ちる水の中をむなしく探っていた。
「自分で盲になってみれば、あんたもわかるさ」
 ヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。

Wiiのお墓

 ひょっとして、Wiiがこわれたら、WiiUを買ってもらえるかもしれない、そのアイデアをはっきり意識した瞬間に、こういちは身震いというものを生まれてはじめて感じた。ものすごく頭と顔があつくなって全身の筋肉が、いてもたってもいられないというように二三度ふるえたあと、力があまり入らなくなってぐったりした。
 でも、そんなことって、そんなことって、あっていいわけないよね。
 物を大切にしないといけないと、ずっと幼いころから刷り込まれてきた価値観がそのアイデアにまず抵抗した。小学二年生の頭のなかで、今まで大人たちに言われたり、怒られてダメだと悟ったりして覚えた価値観の数々が、まるで体系づけられていないまま、沸騰したお湯の水面みたいにつぎつぎに自己主張をはじめた。そうして両親ともがいない家のなかで、うろうろ歩き回ってひたすらあれこれ考えた結果が、とりあえず高岡くんの家にもう一度行ってみようというものだった。


「どうせスプラトゥーンやりたいだけでしょ」
「そういうわけじゃないけど」
 こういちはもともと高岡くんと特別仲がいいわけではなかった。嫌っていたわけでもなかったけれど、ちょうど今のような、人の弱味をぴったりついてくるような物言いがつらくて無意識に距離を置いていた。
「じゃあ今日くる?」
 高岡くんはそれで別に拒絶するわけでもなく、こういちが遊びにくるのは構わないらしかった。
 先週の金曜の昼休みに、納見くんが高岡くんの家に遊びにいくという相談をしていた。それを谷中くんが耳にしてぼくも行っていい? と行くことになって、すぐそば、教室のいちばん後ろのじぶんの席でそんなやり取りを聞いていたこういちは、ちょっといいなあと思った。だけどこうした場面で自分から言い出すのが恥ずかしくてだまっていたけれど、わりと仲の良かった谷中くんが、こういちくんも行こうよと誘ってくれたのだった。
「ほんとはうち来たかったのに恥ずかしいから言えなかったんでしょ」と高岡くんは言って、こういちはカッとなって
「別にちがうし!」と大声を出してけんかになりかけたけれど、当の高岡くんがあっさり
「ふーん? でもこういちくんもうち遊びに来てよ。その方がおもしろいし」と事も無げに言ったのでこういちは呆気にとられて
「うん」と返事をしていた。


「あっ汁がなくなった」
「インクだってば」
「汁が」
「汁ってなに」とこういちと高岡くんは二人で汁、汁と言い合ってけらけら笑い出す。
「あーもう汁でないじゃん」
「だからそこの青いとこにもぐって補充するんだって」
「やばいやばい」
「もぐるんだってばあ!」
「あっ、あーっ! 死んだ」
 それでまたけらけら笑いあっていた。ときどきけんかになりかけたりもしたけれど、尾を引くようなこともなく、マリオカートも遊んで夕方になった。こういちはベランダの向こうの夕焼け空を見ながら
「マンションっていいよね」と言った。
「えー。家のなかに階段があるほうがぜったいいいし」と高岡くんが言うので、こういちはそう言われるとそうかもしれないと思った。落ちると死ぬからベランダには子供だけで出たらダメだからと高岡くんが言った。帰り道に、WiiUはやっぱりすごく面白かったし、どうしてもほしいと、こういちはあらためて思った。


「だからサンタさんにお願いしようって言ったじゃない」とお母さんは言った。こういちはもう一度お母さんにWiiUのすばらしさを、控えめに、そして精一杯説得的に語ったのだったが無駄骨に終わった。お母さんはつい数日前におたがい納得したはずの結論を、急にむし返されて困惑しているようだった。お父さんに相談しても同じだった。
 やはり、とこういちは確信した。やはりWiiがあるからだ。Wiiがあるからがまんしなさいといわれるから、Wiiがなくなればいいんだ。
 これはぜったいにバレたらダメだから、夜にやらないといけないと思って興奮したままベッドに入って、目だけを閉じて機会をうかがっていたけれど、お母さんといっしょに寝ているのに、バレないように抜け出すなんてすごく難しいと気づいて、それでもお母さんの寝息をたしかめて、体をちょっとずつ動かして、なんとか方法がないか、二時間くらいそうやって格闘しつづけていたと思っていたけれど、実際には三十分弱くらいで、絶望したままもうぜんぜん眠れないと思っていたのがいつのまにか眠っていて朝になった。土曜日でお母さんに起こされることなく、眠りからいつのまにか目が覚めて、ちょっとのあいだ自分でも起きていることに気づかないほどだった。お母さんはもうベッドにいなかった。起き出してみるとお父さんもいなかった。家にはこういち一人きりだった。一階におりてリビングにはいるとテーブルの上にお母さんがつくったサンドイッチが置いてあった。もぐもぐ口を動かしたあと、Wiiでちょっと遊んだら、もう十時だった。なんとなく飽きて、電源を切って、ソファの上に寝そべってぼんやりしていた。


 テレビの声も、お父さんやお母さんの声もしないのが、すこし不安な気持ちにさせた。外は天気がよくて部屋のなかは明るかった。こういちは急にソファから跳ね起きて、でもあとはゆっくり、はだしでフローリングをぺたぺたと歩いて、玄関の靴ばこのいちばん下、お父さんの工具箱から小学二年生の手にはすこし余る大きさの金づちを手に取った。
 こういちはもうめちゃくちゃにWiiを金づちで叩いた。一発目のまえだけ、生まれてはじめて見た海に圧倒されでもした子みたいな顔をして、ふりかぶったままうろたえていたけれど、二発目からは、なにかを打ち消すように、なかったことにするように一心不乱に叩いてもう、何発叩いたかもわからなくなった。心臓があんまりにもつよく動いて、こういちは自分でもしらないうちに、あっあっと上ずった声であえいでいた。気づかないうちに金づちを手から離して、すがりつくようにテーブルの脚を抱きかかえて座っていた。体を動かしたせいで早くなっていたとおもっていた鼓動が、動くのをやめたあともいつまでも静まらずにいた。


 五分後にゆっくり立ち上がったこういちは、そこからリモコンで動かされているみたいにてきぱきと、金づちを工具箱にもどし、庭に面したサッシを開けはなった。レースのカーテンが空気をはらんでふくらむのを、両うでを大きく広げておさえこんで、脇へおしやった。Wiiはあんなに叩いたのに形をそのままとどめていた。けれどあちこちプラスチックが割れて、ディスクはもう入らなさそうだった。こういちはなめらかな足取りで二階へ上がってベッドにもぐりこんだ。シーツはひんやりしていた。そのまま丸まって目をつむった。写真くらいはっきり、あのこわれたWiiのすがたをまぶたの裏にうかべて、なにも考えずにじっとそれを見つめて、七月の暑さに二時間しずかに耐えた。お母さんが帰ってきた音を聞いた。


「どろぼうがやった……」と小声でつぶやいた子供の声に、軽い疑いから、えっ、とお母さんは声を上げた。こういちは幽霊のように生気のない顔でぼんやり立っていた。お母さんはそれからすぐに気をとりなおして、
「そうなんだ」と言った。「悪いどろぼうさんだね」
 お母さんの同意を見て、せきを切ったようにこういちは、どろぼうがいかにWiiを破壊したかをせっせと語った。顔は紅潮していた。お母さんはうんうんと熱心に話を聞いた。十分ほども話が行きつ戻りつしながら語ったあと、こういちはもどかしそうに本題に入った。
Wiiがこわれてるから、WiiUを買ったほうがいいと思うけど……」
 お母さんは
「そうなんだ」と言っただけだった。
 こういちはもう一度、
WiiUをね、買わないといけないと思うんだよね」と繰り返した。
「そうね。サンタさんにお願いしないといけないね」
「えっ。サンタさんって夏にもくるの?」
 こういちはびっくりした。混乱していた。Wiiは今、この日にこわれてるんだから、今すぐ、WiiUは買ってもらわないといけない。だけどお母さんはサンタさんにお願いしろという。っていうことは、サンタさんが今すぐ来てくれるっていうことなの? そんな論理から発せられた質問は、しかし、お母さんにあっけなく否定されたのだった。
「サンタさんはクリスマスにしか来ないから、それまで待たないといけないね」
 クリスマスなんて!
 今は7月じゃんか!
 そんなの待てるわけがない!
 こういちは、親が今WiiUを買ってくれないのはへんだ、という話をめちゃくちゃに言い立てた。お母さんはうんうんとうなずきながらその話をひととおり聞いて、それから説明した。
「でもお母さんもお父さんもWiiUは欲しくなくて、WiiUが欲しいのはこういちなんだから、お母さんやお父さんがWiiUを買うのは変で、それはこういちがサンタさんにお願いするか、来年の五月の誕生日まで待つかしないとダメだよ」
 お母さんの説明をきいたら、こういちはその通りだと思った。その通りだと思ったけれど、なんでこんなことになっちゃったのかがわからなかった。もうどうしようもなくなって、どこにぶつけたらいいのかわからないけど、悔しい気持ちだけが際限なく湧いてくるから、ぐーっと歯を食いしばったまま声をこらえて泣き始めた。
Wiiは、どろぼうさんに叩かれて、すごく痛かっただろうね。かわいそうだね」
とお母さんがおだやかに言ったとたん、こういちはわんわん泣き始めた。お母さんが抱きよせようとするのを振り払って、リビングのすみに行って、壁を向いて、かってに泣いていた。


 Wiiはすごく痛かったんだろうなと思ったら、とんでもないことをしてしまったと思った。罪悪感にうちのめされて、今までもずっと心臓はどきどきしたままだったけど、くわえて胸までくるしくなった。それでもお母さんがつくったオムライスを無理やり口のなかに入れて食べきった。お昼ごはんを食べ終わっても、床に足がつかないいすに座ってうつむいていた。
 ずいぶん経ってから、つらそうにうつむいてぺたぺた歩いて台所の下の収納をあけて、大きなごみ袋を取りだした子供を見て、お母さんは声をかけようとしてなんとなくかけそびれた。
 こういちはWiiを、こまかい破片もていねいに拾いあつめて全部、ごみ袋のなかに入れた。サンダルをはいて庭におりて、ちょうどぴったり手に合う、小さなスコップで穴をほりはじめた。日がもう、すこし傾きはじめていた。いつのまにかお父さんが帰っていて、なにも言わずに穴をほるのを手伝ってくれた。


 Wiiのふくろを穴にいれて、上から土をかぶせて、「Wiiのおはか」と書いたダンボールの板をたてた。すっかり夕方になっていた。お父さんがおはかに手を合わせて目をつむったので、こういちもそうした。お母さんも後ろでそうしてた。
 目をつむりながら、こういちは、一ヶ月くらいがたったような気がしていた。実際にはたかだか四十八時間のできごとだった。

熊ノ原

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 ああ、蒸すわね。50の男にはちょっとつらいかも。植物の息がこの森の空気を満たして、ああ、蒸すわあ。今日もお目当ての原っぱは見つからなかった。だけどそれっていつものことだから私、気にしない。足場は良くないけれど、関係ないの。この45年の積み重ねの上では関係ないのよ。ソールを通してしっかり凹凸を足の裏がつかまえているのを感じる。そして完全にからだをコントロールできているっていう実感がある。からだのあらゆる要素がみんなきちんと組織されている、地面や重力と、私のからだがなめらかに調和している。からだだけじゃない、右手に握った小太刀の剣先、刃の面がわずかな狂いもなくあるべき角度と位置ですべり込んでいく。この感覚をいつでも得られるようになったのはほんの5年ほど前から。そんな感覚があるってことに気づいたのは20歳くらいのとき。ときどき一瞬、びっくりするほどしっくりくるって感じに気づいて、それが少しずつ持続するようになって、集中すればきちんと維持できるようになったのが45歳、そこまでくるのに25年かかったわけ。ようやく最近、意識を向けていなくてもからだがしっくりくる状態を保てるようになったわ。

2

 父が私に叩き込んだ20の型をまがりなりにも間違えずにできるようになったのが10歳だった。18の時にはもう父が指導をやめた。その頃には型のたいせつさみたいなこと私自身がすっかり得心していたから型の稽古をおろそかにすることなく続けてきた。それから25歳から30歳にかけてひとつひとつの型の意味がわかってきた。筋力を強化するための動作、肉体を操作する意識を高めるための動作、実戦での相手の動きを想定した動作、刀を効率的に運用するための動作、そんな様々な意味が組み合わさり、あるいは重ね合わさって、ひとつの型を形成している。それがだんだんはっきり見えてきて、そうしたら一気に景色が違って見えた。バラバラに存在してた型のひとつひとつが、きちんと自分の位置を見つけておさまっていった。もっと大きな流れというか目的が見えて、視界がすっきりした。それまで決まった型をより上手にできたらうれしいってことしかなかった。それはピアノの練習をしてる子が、先生に決められた曲をとにかく弾けるようになってうれしいっていうようなことに過ぎなかったのかも。けれど、もっと今自分が何をしているのかがしっくり腑に落ちて、それまでずっと「これでいい」と思っていた動きも全然違うことがわかったりした。身につけた型をひとつひとつ、まるっきり更新する作業に入った。
 32歳のときになにか衝動にかられてレポートを書いた。だれに報告するってわけでもないから、自分へのレポートね。会社員だからそれなりに書類を書くことはあったけど、もともとまとまった物を書くなんて習慣なかったのに不思議ね。あらためて書こうとすると頭のなかで考えていたよりずっと足りないってことがわかったよね。あと逆に、頭のなかではもっと色々考えてたのに、ずっと減っちゃうのね。そっか、書くってことは、ある形に嵌め込んじゃうってことなんだ。だから色々捨てたり、新しく入れ込んだりしなくちゃいけないんだってわかった。そうやって型のことがもっとよくわかるようになって、ふしぎなことが起こったの。
 型が溶けて混ざりあっていったのよ。いえ、やろうと思えばもちろん、ちゃんと型に忠実にできるのよ。でもそうじゃなくて、その時の動きのなかで、流れの積み重ねとその瞬間の状況や環境から、次に「そうすべき」動きがわかっちゃうの。そうするとその自然っていうのか、秩序っていうのか、そっちに従わなきゃいけないって気がどうしてもする。もともと型のあいだの「つなぎ」の動きというものはあったけど、それじゃない。型にふくまれる細かな動作ひとつひとつが、もっと分子みたいにばらばらになって、その瞬間、瞬間で再構成されていくって感じ。そのときにはもう、私自身は型のことを意識してない。どうするのが一番いいんだろうってことだけを感じてる。圧倒的な自由がこのからだを満たしてきた。型を徹底的に叩き込むことで、むしろ自由に到達するんだわって思った。組み合わせ爆発っていうのかしら。ひょっとしたらジャズの即興ってこういうのかもしれないのね。
 こういうことだったの、って思った。この名前もない、父から受け継いだ剣法って、こういうことだったんだって。父は私が29のときに65で死んだ。あなたが見てた剣技も、こういうものだったのってこと、聞きそびれちゃった。

3

 木漏れ日を刃が反射させてきらきら光る。小太刀を遣うということは、必然的に体術も含むことを意味するわけ。取り回しがきく分、間合いが短いから四肢を使った攻撃と防御も小太刀の間合いの範疇に入ってくるのよ。もちろん20の型も体術の要素をたくさん含んでる。
 それで間合いが短いと言っても、たぶん一般に人が体得的にイメージする間合いよりも20%ほど伸びるのよね。この距離離れていれば安全、って思ってももうそこは私の間合いだってこと。それは一般の人が普段感じている「一つの動作でこれくらい届く」っていう距離は、からだの使い方を最大限まで効率化していない距離だから。関節がどこまで動いて、筋肉がどう縮んだり伸びたりして、重力がどこにどれくらい働いて、っていう細かな一つ一つを知らない、そうした一つ一つをまとめ上げることを知らない。からだの効率を本当に高めていけば20%くらい有効径が広くなる。実は私自身はもう、ずっとこのからだの感覚に慣れてしまっているから、みんながどう感じているのか感覚的に想像するのが難しい。だけど日常のなにかのタイミング、駅のコンコースで斜めにやってくる人を避けたりするようなときに相手がびっくりした顔をして、そっか、こんな風に動いちゃうと相手の想像の外側なんだなって思うときがあるのよ。だから普段はあえて一番いいような動き方はしないようにしてる。
 子供がまだ中学生だったときに、お父さんを捕まえられる? って遊んだことがあった。小学生みたいにキャッキャしなくなっちゃったかなって思ってたけど、まだスイッチが入ればはしゃぐくらいには子供だったんだよ。それで最大限効率的な動き方で逃げていたら、はじめは不思議な顔をして、だんだん表情に恐怖が混じり始めていった。たぶん祐太から見たら私、急に視界から消えたり、現れたり、いつの間にか後ろに回っていたり突然からだを掴まれたりして、わけがわからずに怖かったのかもしれない。この一人息子には剣法を教えていない。だって平成だよ? 強制して引き継がせるような時代じゃないもん。

4

 小一時間ほど動いて午後1時、車まで戻る、きた道をそのまま帰るだけ。いつも違う道を行っている。それで森の中の道のないところを通ってくるから、小太刀が鉈がわりにもなって便利ってわけ。峰を肩に乗せて、時折枝や草を払っていく。刃渡り55センチメートルで柄は木造り。父から20歳で受け継いだときに柄を拵え直した。私の手のかたちに合わせてやわらかな凹凸があり、表面にはローレットに似た綾目の細かな溝が刻まれたその柄は、私の手によく馴染んでる。
 気楽な散策だよ。ときどき立ち止まって木を見上げたり地面を見下ろしてる。もともと植物にも昆虫にも詳しくなかったけれど、気になって少しずつ調べたりしてるうちに詳しくなっちゃった。日曜日になると毎週来てる。みっちゃんや祐太を連れてきたことはなかった。みっちゃんは結婚する前からアウトドアとかは嫌いだったし。でもそういうことじゃなくて、何となく私が妻や子供を連れてきたくなかったってことかも。それはたぶん、私が祐太にこの剣を伝えないって決めたことと同じところからくる気持ち。
 この森は祖母から父へ、そして私へ引き継がれてきた。この小太刀や技と同じだ。ここはずっと昔から森だったわけじゃない。もとは採石場でハゲ山だったって聞いてる。古い写真も見たことがあるけれど、本当に木なんてまるで生えていなかった。それを祖母が植林をしてここまでの森に育てたらしい。どういう経緯で採石場が祖母の私有地になったのかはわからない。そもそもここは祖母の生まれ故郷でも何でもない土地だった。父も知らなかったようだ。ただ祖母はなにか手広くお商売をしていたそうだ。私が4歳のときに死んだから直接の記憶はほとんどない。けれど一度だけ祖母が、歩き始めたばかりの私を連れて木の苗を植えたと聞いた。
 今ほど環境問題への意識もほとんどなかった時代に、一体どういうつもりで植林を始めたのかもわからない。何もわからない。けれど本当に森を作ったのだ。

5

 祖母は植林の労働力を確保するため、町へ出て行った村の若者たちを金の力で呼び戻した。それに飽き足らず、どこの者とも知れない、ちょうど今の私と同じくらいの、50代あたりの男たちも大量に集めてきた。さながら昼は採石場を再開したような人出だった。夜になると若者たちは村の自家へ帰り、50代の男たちは作業場の近くに建てられた巨大な倉庫に寝泊まりしていた。時折何台ものリヤカーが食料を積んでやってきた。年取った男たちは誰も彼も痩せて生気が感じられなかった。いつも緩慢に動き、顔の区別がつかなかった。そのうち若者と年寄りの間でいさかいが起こるようになった。理由は実に些末なことだった。苗木の置き場のルールを守らなかったとか、作業の連携が上手くいかないとか、一つ一つは単に対策を取って解決すれば済むだけの話だった。ただ若者たちにとって年寄りどもは得体が知れなかったから攻撃的になっているだけだった。自分達の村、テリトリーに闖入して、その上馴染もうともせず来歴も語らない。相手への安心感を持ち得ないでいれば、相手のやることなすことに敵意をあえて見出だしてしまう。しかし年寄りは若者に責められてもはっきりしない言い訳を何か口の中でもぐもぐ言うばかりで、若者たちをますます苛立たせた。
 理由にならないような理由でついに若者たちの怒りが閾値を越えてあふれ出し、暴力となって表出した。年寄りたちは一方的に殴られるばかりだったが、一人の年寄りが最初から決められた作業を遂行したというような動きで、一人の若者をスコップでスムーズに殴り殺した。若者たちははじめ呆気にとられて仲間の死体を見つめたが、ようやく殺されたのだと理解してますます猛り狂った。おびえた年寄りたちは倉庫に逃げ込んだ。若者たちはあの年寄りを出せと倉庫を壊す勢いで詰め寄った。
 そんな光景をどこかからずっと見ていたはずの祖母がすぐとなりにいることに、若者がふいに気づいて度肝を抜かれた。当時28歳の祖母は私の父を身ごもっていた。身重の雇い主が、いつの間にかとなりで、何気なく抜き身の刀を手に提げて立っているのに気づいて若者たちは、文句を言うのも忘れて息を呑んだ。木の柄の小太刀だった。激情に駆られてわけもわからず祖母につかみかかろうとした若者もあったが、つかむより前に、当人も周囲の者も気づかないうちに祖母の脇をすり抜けて転倒していた。若い女の監督者は、妊娠8ヶ月の腹を苦にもせずさっさと倉庫の中へ入っていった。倉庫の内も外も静まり返っていた。しかし中から少しずつ悲鳴が近づいてきた。祖母は一人の年寄りの男の耳をつかんで引きずって、表に出てきた。
「この男かい?」
 若者たちは誰も何も答えられなかった。年寄りたちの顔の区別がつかなかったからだ。けれど祖母は答えを待たなかった。いきなり小太刀が閃いたかと思うと男の耳はもう切断されていた。
 男の絶叫だけが、岩をむき出しにしたままの山肌に反射して二度聞こえた。声帯を持たないウサギの鳴き声に似た、キャーッという音だった。
 若者たちは無言のままお互いに隣の乱れた呼吸と喉の動く音を聞きあった。倉庫の暗い入り口の奥には諦めに似た年寄りたちの生ぬるい息がひっそりとこもる気配があった。男は耳の切り口を押さえてしくしく泣いていた。祖母は耳をその男の手に握らせて、刀身を手拭いでぬぐっていた。
 とまれかくまれ、その騒動はそれで終いだった。死んだ若者のことは金で片付けられたようだった。

6

 その一件から一月ほどが経つと、年寄りのうちの何人かが日が暮れると倉庫へ戻らず若者と一緒に村へ降りてくるようになった。それで若者の家に泊まり、家族と歓談することもなく、若者と性交した。専ら若者が年寄りを道具のように扱って口や肛門で一方的に欲望を満たした。若者の中にはもう妻帯している者もいたが、どういうわけか年寄りを使うのをやめなかった。妻をはじめ若者の家族は文句も言えずに耐えていた。休日にはそのまま若者の家で過ごす年寄りも現れた。年寄りはどこまでも図々しく飯や酒を静かにせびるようになった。そして年寄りたちは、植林の仕事が終わったあともその家に居ついた。本人たちは「森を守っているのだ」とうそぶいた。
 そうした事態は自然に発生したわけではない。祖母の差し金だったという。年寄りを養う費用を削減する経営者としての目的からか、無益な好奇心を満たす個人としての目的からか、全く不明だった。けれどその差し金はトップダウンでなかったのは確かだった。若者・年寄り双方のリーダー格に話をつけたというようなことではなく、下の者、従属的で消極的で仲間外れにされたような者たちへわずかな言葉をおりおりかけて、いつの間にか若者と年寄りの無惨な性交を多重に引き起こしていった。
 そんな若者の子供だった人たちが今も何人か村に残っているそうだ。私は会ったことがない。父が会って話を聞いたことがあったといつか話した。家の中に他人がいる。時々意味もなくふらりと、まだ若い木が生えているだけの山へ行くばかりで働きもしない老人が家庭にのさばっている。自分の母親がその老人を憎々しげに見つめながら黙って食事を出している。父親が土間でその老人を犯している。子供だった彼は何をしているのかわからなかった。わからないままイメージだけを生々しく抱え込んで、少年になって知識として得た性交の存在が、あのイメージと突然結び付いたとき、彼は嘔吐した。嘔吐の生理的な苦しみの中にあって彼に訪れたのは、幼いころ風邪で吐く彼の背をさすってくれた母親のあの手の感触ではなく、老人と父親を憎々しげに見つめていた母親のあの目の鈍い光だった。彼は高校に上がるため家を出て、高校を出るとそのまま町で就職した。どうしようもなく女性と性交することができなかった。所帯を持つことなく、母親の介護を機に村へ戻った。父親は既に死んでいたが、老人はまだ生きていたという。かつて寝室として使われていた奥の間の柱に、枯れ木のようなからだをもたせかけて、ひねもす座っていた。
「そろそろ森を見たい」
と老人が空の頭蓋骨にひびいたような声で希望したのを聞いて彼は、それを担いで森を訪れた。彼はそのときが森を訪ねたはじめてだと思っていたが、森に入った瞬間、まだ幼児だった彼が、今かついでいるものにおぶわれてこの森に来たことがあると思った。「良い森だ」と一言だけ言ってそれは納得した様子で、彼はそれを適当な木の幹にもたせかけて置いてきた。
「あれはもう死んだか?」
「死んだ」
と母親に問われた彼が答えると、寝たきりの母親は二、三度深くうなずいて翌朝に死んだ。それで彼は一人でその家に暮らしていた。彼はどこも同じだと言う。この村はどこの家も同じなのだと父に言った。
 父は自身の母のつくった森がどういうものか、今の私と同じくらい、50歳になったころふと思いをめぐらせた。それで一人で村を訪ねたという。その村の男が一通り話し終えると父と男のあいだに無言の時間が横たわって、ただお茶を飲んでいた。
「あの森を作った女こそ、元凶です」
 そう男は言った。父はそれには何も答えなかった。湯飲みが空になったから、男が台所に立ってつぎに行った。戻ってくると盆の上に長い刺身包丁が乗っていた。男は父の前に茶を置き、自分の側に置き、それから刺身包丁を手にして父の喉をめがけてまっすぐに突いた。父は単純に避けた。興奮した様子もないまま、極めて自然にそうした事態が推移した。男は乗っている茶をこぼさないように気をつけながら、机を部屋のすみによけ、部屋の真ん中を広くしてから、あらためて父の前で刺身包丁を構えた。父は鞄から白鞘の小太刀を出して抜いた。
「あなたのお母上が持っていたというのが、それですか」
「その通りです」
「例えばその刀で私を殺して、森に捨ててくるというのは、どうでしょうか」
「お断りします」
 男は落胆したようにも見えたが、ほとんど表情も様子も変わりなかった。低い天井の、仏間を兼ねた応接間の畳の上で二人は足を素早く運び、引いては詰め、寄っては退く、けれどどちらも打ち込むには至らないまま間合いをはかり合っていたのが、距離の正確に合う位置にはまって静止した。実に美しい構えだったと父は評した。名のある流派で学んだとも思われない、しかし無駄な力の入るところのない構えを男は見せた。安易に攻め入れば十分に守って、生じた隙をつかれそうに思われた。そうは言ったところで、所詮素人が刺身包丁を構えただけのこと、男が長い静止に耐えかねて動いた瞬間に構えが崩れ、父はやすやすと男の懐へ侵入ししたたかに柄尻でみぞおちを打った。畳の上で痛みにもだえ苦しむ男を尻目に父は退去した。
 自分が女を抱くこともできず村に閉じ込められたのは、老人のせいだ、森のせいだ、森を作った女、お前の母親のせいだと言うが、
「だったらお前も使えばいいだろうと思った」
と父が言った。使うというのは、その老人の尻を性欲の捌け口にしろという意味だった。私にはどういうつもりで父がそんなことを言ったのかわからなかった。

7

 急に私ぴんときちゃった。行きは気づかなかったのに同じ道でも帰りは景色が違うから脇に道があるのに気づいた。ほとんど道だってわかんないかも。草も生い茂ってる。でもそこだけ植物の生え方が違ってそれが細く長く続いてる。むかし道だったところなんだ。いつもならこのままもう帰る時間だけど、今を逃したら二度と見つからないかもってその道に入って進んだらふっと森が開けて、やだ、ここ、あの原っぱじゃない、って……
 父から聞いて再構成された記憶なの。3歳でようやく歩き始めた私の手をひいて祖母がここへ連れてきた。この原っぱをずっと探してた。でも真剣に探してたわけじゃない。本気で信じてたわけじゃない。そんな原っぱなんてもう森に埋もれてると思ってた。でも毎週通いながらいつか会えるといいなって漠然と思って毎回べつの道を歩いた。そうしたら、やだ、あるじゃない? 今でも歩けばそれなりに大変なこんなところ、どうやっておばあさんと子供で来たのかしら。この原っぱの真ん中に私たちはクスノキを植えた。50年弱でもう根本からお空へふぁーって伸びてこんなに緑みどりして。かなしいくらいにきれい。私根本まで寄って見上げて緑の隙間から白い空の光が強く差し込んでる、うろこみたいな木肌にふれて、手のひらをぎゅっと押し付けたらいきなりおばあちゃんのこと脳がぎゅーって思い出したの! 洋平、この森はね、もうあんたの森なんだから、お願いね、ってふるえる声で私に話しかけた祖母は、その次の年に死んでしまった。私ぜんぜん覚えてたじゃん。
 どれくらいだろ。10分くらい? ただ立ち尽くして木に触れていたら人の視線をとつぜん感じて鋭く振り返った。
 あら。熊ちゃん。
 聡明さをたたえた目で穏やかに立っていた。こんなところにいるはずがない。でもそこに熊ちゃんがいるのは現実だった。飼いきれなくなってペットを放したのかしら。熊のペットなんて法律で禁止されてないのかしら? 助走もなしにいきなりトップスピードに乗せて駆け寄り鋭い爪で私に襲いかかった。私はかろうじて小太刀で受けつつ身をかわした。横に飛びしさったけれど熊ちゃんは第二撃を放ちもはや避けきれずに左の二の腕の肉をわずかに抉られた。なお間合いを開け、それでも体勢を整えて構え直すと、三たび襲いかかろうとしていた熊ちゃんは攻撃を途中でやめ、いつでも駆け出せる姿勢で止まった。それは私の間合いのぎりぎり外だった。なんなのこの熊! 一体これは熊なのだろうか。人としか思われない。たしかに知性を宿していると思った。
 そうしてからだのあちこちの肉を削られながら、なんとか致命傷を負わずに済んでるのはこの剣術の特徴にあるのかもしれない。小回りのきく小太刀と四肢による防御の中で活路を見出だす性格によってどうにか防いでいる。対人稽古を積まず、型を主体に体得してきたこともあるいは救いになっているのかもしれない。かえって人の動きを覚えて予測していれば、人よりはるかに早く広い熊の動きを見誤っていたかもしれない。人の動作を基にした予測に頼るところが少なく、現にあるこの熊の動きを見て今、動けている。防戦一方だったのが次第にその早さと軌道に慣れていった。しょせんは熊って感じ。動きが単純なのよ。攻撃を防いだら、その後の一瞬の隙を、熊の小手を狙うことへひたすら費やした。一度あたりの手傷は浅くても、同じ箇所に加え続けていけばいい。点滴石をも穿つ、浅い連撃熊ちゃん倒すってわけ。やだ、私、見いだしちゃったじゃん活路? と思った瞬間、腕の傷がひどくなった熊がいきなり噛みついてきた。忘れてた。熊って爪だけじゃなくて牙もすごいんだね。私もうこれ死ぬかもしれないねと思った。いくらなんでも熊と戦って勝つなんて、変じゃん。とっさに左腕を口に差し入れて、同時に喉元を刀で浅く突いた。驚いた熊は口を離して腕をなんとか噛みちぎられずに済んだ。前方に飛び抜けざまに熊の首の側面を斬った。私は体勢を崩して着地を失敗した。着地のことなど考慮して飛ぶ余裕などなかった。地面を転がりながら熊が倒れる姿をきれぎれに見た。跳ね起きて刀を構えたが左腕は上がらなかった。ちぎれてはいないというだけで二度と使い物にはならないようだったが、それを目視で確認する隙を見せることもできず熊に視線を注いで構えを維持した。
 熊ちゃんは、死んだ、っていうことを確信するまで結局10分か30分かそのまま小太刀を構えて、ようやく力を抜こうとしたけれど、からだがうまく動かなかった。血がめぐりはじめて、からだがほぐれていくのを感じると同時に、全身が猛烈な痛みと疲労に襲われた。だけどこんなところで倒れて私が死んだらなんのために熊ちゃんは死んだのよ? ここで私がちゃんと生き延びなきゃ、熊ちゃんに申し訳ないって思ってよちよち帰り始めた。

8

 もう夕方だった。木漏れ日もよわよわしくて森のなかは薄暗かった。沢があった。水を見たらもういてもたってもいられないくらい喉が渇いてしゃがもうとしたら膝がちゃんと曲がらなくって、足元も滑って前のめりに倒れた。とっさに左腕に力を入れようとして、でももう機能してなくて、顔から倒れそうになったからあわてて右手をつこうとしたときに、小太刀が落ちて、その切っ先がちょうど胸元にあるのに気づいたけどもうどうしようもなく、そのまま刀が、柄尻を岩で支えて胸に深く刺さっていくのを見てた。しょうがないわねえと思った。せっかく熊ちゃんを倒したっていうのに、こんなとこで私ったら意味もなく死ぬんだって。
 あの原っぱのことを私、「熊ノ原」って名付けるわ。安直だって笑うかしら? でもこだわってる時間がさ、もうないのよね。笑うっていったい誰が? あの原っぱがそう名付けられたことなんて誰も知らないのに。誰にも知られないまま、誰かの胸の中だけで名付けられてその誰かが死んでいくとき、その名前というものはどうなるのかしら。ただ消えて何もなかったことになるのかしらね。でも確かに今私がここで名付けたのよ。そういう事実がまぎれもなくある、あったってこと、私だけが知っているのだけれど。