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創作のブログです。

王将のマナー

 餃子の王将ではおばちゃん(ほとんどおばあさん)の店員が、カウンターに座るサラリーマンたちの背中を木の棒で叩いていた。早く食べて出ていけという意味だ。新しい客がなにか注文すると、フロアの女が「淫乱ガーゴイルー!」と厨房に向かって叫ぶ。厨房からは「淫乱ガーゴイルー!」と叫びが返ってくる。そうすると餃子が出てくる。なるほど、餃子のことを「淫乱ガーゴイル」という隠語で呼んでいるようだ。
 餃子は必ず全員に一皿くる。しかしその他、天津飯やラーメン、炒飯、ニラレバの何が出てくるかは完全にランダムだ。出てくるだけありがたいと思え。おばあさんの店員に棒で叩かれたサラリーマンが「いま食べとるやろうが!」と振り向いて怒った。おばあさんの店員は「ぎゃっ」と言ってぽろぽろ泣き出した。かわいそうだ。両脇のサラリーマンが、そのサラリーマンの頭をがっと掴んで、いきなりラーメンの丼にぼちゃっと顔をつっこんだ。しばらくサラリーマンはじたばたして、もがもが言っていたが静かになってぐったりした。死んだのだ。おばあさんの店員は元気を取り戻して、カウンターのサラリーマンたちの背中をまた木の棒で叩き始めた。死んだ客は厨房に引き取られて、餃子の具になる。当たり前だ。そうやって食材になれば、無銭飲食の罪に問われることもないし、遺族も莫大な賠償金を払わされることもなく、うれしい。
 食べ物が出てきたら1分以内に食べきらないとおばあさんがめちゃくちゃ怒ってくる。食べ物が出てきた直後から棒で叩き始めるけど、1分がたつと耳元で「ウオーッ!」っと叫んでくる。怒ってるのだ。店の回転率は客が支えないといけないから。食べ物がまだ届いていない客は、食べている客を応援しないといけない。手拍子をして、冬は広瀬香美の「promise」をみんなで歌う。合間合間で、おばあさんが人間を棒で叩く音と「ウオーッ!」という怒りの声が入る。ゲッダン(ウオーッ)揺れる廻る振れる(ドンッ)切ない気持ち(ドンドンッ) そんな感じだ。
 夏は店内の温度が6000℃を超えるので人間が生きていけない。店の前に募金箱があるため、客は食べたつもりでそこに金を入れて帰る。地球温暖化の影響だ。昔は店内も400℃くらいだったからチューブを歌っていた。


 ここまではカウンター席の話だ。テーブル席はもっと優雅で、叶姉妹や皇族が座っている。「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と店員が呼び交わして出てきた餃子も、ミリ単位でゆっくり食べていく。だいたい半年かかる。だから、住み込みで食べてる。いつも10月くらいにきて、翌年の3月に帰っていく。おばあさんは時々、棒で叩きたそうな目で見てくるが、そういうときはかわりにカウンターのサラリーマンをめちゃくちゃ叩く。スーツもシャツも破れて背中が血だらけになるけれど、餃子の王将に来るのが悪いんだからしょうがない。
 叶姉妹はときどき、パエリヤとかを食べてる。デリバリーを注文して王将に届けさせている。あと全裸のメンズを駒に見立てて、チェスをしたりしている。テレビ出演があるときは、プロジェクションマッピングで、餃子を食べる叶姉妹の映像を壁に映している。最近はテレビも少ないので王将にだいたいいる。
 美容にいいから、炒飯をスムージーにして飲んでる。餃子も、パリコレに出てきた新作じゃないと食べない。カウンターの席のサラリーマンたちは、有史以前からある土から掘り出してきた餃子を食べてる。産業資本主義が進み、格差社会となった、その縮図である。


 そういうわけで、ベビーカーとかを入れるスペースは王将にはないので、家族連れは赤ちゃんを入れたベビーカーを店の外に置いて食べる。赤ちゃんを連れて入っても、おばあさんに棒で叩かれてすぐ死ぬから、意味がない。だけどベビーカーを店の外に置いておくとすぐに赤ちゃんは盗まれて外国に売られてしまう。王将がある地域というのは治安が悪いからだ。川崎駅の店舗などは、店の中におじさんが入ってきて勝手に人の餃子を食べたりしてくる。しかし、盗まれる赤ちゃんが悪い。自分の身は自分で守らないといけない。ちゃんと自分の両足で大地を踏みしめて、入店して、棒で叩かれながらも餃子を食べきる。そういう赤ちゃんでなければ、生きている資格がない。
 ここまで「木の棒」と言っているけれど、おばあさんのコンディションや種類によっては、最初から包丁で客を刺し殺してくる。そういう場合はジャケットの下に雑誌を仕込んでおくとか事前準備が必要だ。


 店の奥から淫乱ガーゴイルが出てきた。石の悪魔、ガーゴイル。餃子1皿の隠語が「淫乱ガーゴイル」だと思われていたが、たんに料理の名前だったようだ。淫乱なのに、相手がいなくて切なそうに、狂おしそうに、身をよじらせている。オスのガーゴイルだ。股間から立派な一物が屹立している。
「御覧なさいな美香さん。すごいじゃないの。」
「そうですわね。」
 叶姉妹が喜んでいる。皇族の方々はしずしずと箸をはこんでいる。一番奥にいたサラリーマンがガーゴイルに食われた。この場合、どうなるのだろうか。法的には? 客が料理に食われた場合、支払いはどうなるのか。かといって客が抵抗すれば、それは鳥獣保護法違反で厳しく罰せられる。ただなすすべもなく食われるしかないのだろうか。生活笑百科に取り上げていただき、四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ。
 しかしこの淫乱ガーゴイルの欲望を、いったい誰が満たすのだろうか。おばあさんがガーゴイルの股間の棒を、木の棒でめちゃくちゃに叩き始めた。「ウオーッ!」「ウオーッ!」おばあさんかガーゴイルか、どっちの叫び声かわからない。サラリーマンたちが「promise」をみんなで合唱した。厨房とフロアで店員たちが「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と呼びかけあっている。店内には餃子の焼ける匂い、音。叶姉妹が手を叩いて笑っている。皇族がほぼ静止しているようにしか見えないスピードで餃子を食べている。「ウオーーーッ!!」ガーゴイルとおばあさんが吠えた。ガーゴイルの棒の先端から液がだらだらと漏れ出した。そう。本来ガーゴイルは、西欧の建築における雨樋の装飾であった。その口から雨水を放出するのだ。だからこれは、ある意味で正しい。淫乱ガーゴイルは店の奥へ帰っていった。


 都会の駅近の店舗はおよそこんな雰囲気だが、地方の郊外店舗になるとまた話はがらっと変わる。ブレーキとアクセルを間違えた老人が大量に店につっこんでくるため、郊外型店舗はことごとく壊滅した。今は、より頑丈な、牢獄のようなバーミヤンにかわってしまった。これもまた、時代の流れである。

奇跡の人

 夜の町の曲がり角で小柄な老婆とぶつかりかけた。老婆は
「ウォーター。」
と言った。その抑揚を奇妙に欠いたイントネーションと、文脈にそぐわぬ言葉をいぶかって男がよくよく見れば、老婆ではなくまだ30前後の女だった。ヘレン・ケラーだった。彼女の太い杖がいきなり跳ね上がったかと思うと、中から白刃がひらめいて男は逆袈裟に斬り上げられて絶命した。
「ウォーター。」
 反りのない刀を高速で垂直に鞘へと納めたヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。


 ヘレン・ケラーは要人を年に十数人ほど殺害していた。特定の思想信条によらず依頼が成立すれば構わず殺していた。依頼が成立しさえすればもはや100%暗殺が成功する、暗殺マシーンと恐れられていた。恐れたところでどの道防ぐことはかなわないのだった。
 あるときはプライベートジェットの中にまで平気な顔をして現れた。ターゲットがかすかな違和感を覚えて顔を通路側に出したちょうどそのとき、ハンドガンを握ったままのボディーガードの切り捨てられた腕が目の前を飛んでいった。前方では腕のない死体の、胴に突き立った仕込み杖をヘレン・ケラーがゆっくり引き抜くところだった。動きはあくまで緩慢だというのに、ほとんど冗談のような速さで気づけばもう目の前にいて、ターゲットが何か声を出そうとしたときにはすでに、喉を斬られていた。


「おっら、ケラー! これがウォーターじゃ! ウォーター!!」
 まだ幼く、無音の暗闇に突き落とされて日の浅かったヘレン・ケラーを縄で縛り上げ、バケツに汲んだ水を顔にぶっかけ続けている。それがヘレン・ケラーがサリバン先生と出会った最初だった。
「ケラー!! おっら言え、これがウォーターじゃ!!」
 目も見えず、耳も聞こえない、言葉も喋れないあわれな少女に、サリバン先生はこうして喋らせようと言うのだった。無謀だった。しかし奇跡は起きた。
「ウォーター。」
「でゃはーっ! やればできるじゃ。おみぇーっ!!」
 ヘレン・ケラーは喋った。しかし残念ながらそれ以降「ウォーター。」としか喋らなかった。
「ウォーター。」
 その日の夜中にサリバン先生が目をさますと、枕元にヘレン・ケラーが立っていた。体はベッドに縛り付けられて身動きがとれなかった。鼻と口を覆うように濡れたガーゼが載せられていた。ヘレン・ケラーがサリバン先生の口にじょうろから水をゆっくり滴らせていった。
「もっが! もっが! おいっ、ケラ、ケラーッ、おごご」
「ウォーター。」
 サリバン先生が溺れ死ぬのを覚悟したとき、ふいにヘレン・ケラーが手を止め、ガーゼを顔からはがして捨て、無言で闇の中へ消えていった。サリバン先生はベッドに縛り付けられたまま思った。これは警告なのだと。あんなやり方を私にするなという彼女の警告なのだ。サリバン先生はゲラゲラ笑いだした。ヘレン・ケラーをとんでもないおさせにして稼ごうと考えていたサリバン先生は、このときアイデアを鞍替えした。ヘレン・ケラーを暗殺マシーンに仕立て上げることにした。
「こりぁ才能だぁ。とんっでもねえ才能だぁ。こりぁ」
 サリバン先生はそれから3時間かけ、独特の動きで縄から脱け出した。


 手始めにサリバン先生はヘレン・ケラーを夜の人気のない公園に連れ出した。ハンマーを手渡し、ベンチに一人座るおじさんを指差した。
「あいつぉ殺せぇ。あいつぁ悪のじじいだゃ」
 ヘレン・ケラーはすたすたと近づいていった。ふと顔をあげたおじさんの額に、なめらかにハンマーを降り下ろした。
「ウォーター。」
「いたい! やめて!! これはハンマー!」
 ヘレン・ケラーは2撃目を食らわした。
「ウォーター。」
「ハンマー!」
 何度も殴った。おじさんは意識が朦朧としているようだった。
「ウォーター。」
「はぁい。ウォーターでぇーす」
 おじさんは血まみれになって死んだ。
「よーぅやったでゃ!」
 遠くから見ていたサリバン先生が小躍りしながら走り寄って、おじさんから金目の物を奪い取っていった。サリバン先生の指示に従ってヘレン・ケラーは人を殺め続けた。
「拾ったじゃぁ~。拾ったじゃぁ~」
 サリバン先生が「拾った」という仕込み杖を渡すとヘレン・ケラーは教わりもせずに凄まじい剣技を見せてターゲットを斬っていった。全く融通無碍な剣術で、逆手に握ったり鞘で殴打したりまるで自由だった。その頃にはサリバン先生がどこからか依頼を受け、場所や時間を上手く設定し、ヘレン・ケラーが実行するという役割分担ができていた。
「わっすのマンネジメントがマンネタイズだゃ」
 サリバン先生は稼いだ金をヘレン・ケラーに分け与えなかった。しかし自分で遣うこともなかった。二人は最初と同じままボロ切れのような服を身に付けていた。サリバン先生は金へ多大な執着を見せたが、何かの目的があるというより、金そのものへの欲望に突き動かされているばかりで遣い方を知らなかった。それでも一軒家を買った。周りに家もない郊外の空き家を格安で買った。女二人で住むにはあまりに広い家だった。二人はリビングで寝起きし、他の部屋はサリバン先生が集めてくるゴミに満たされた。


 装飾のない、しかし徹底的に清潔な応接間で、サリバン先生は落ち着かない様子だった。分厚いドアから長身の立派な体躯を備えた老人が現れた。真っ白な髭を豊かにたくわえ、無表情のままサリバン先生とヘレン・ケラーを見下ろした。
「お越しいただき、ありがとう。私がアレクサンダー・グラハム・ベルです」
 電話の発明で著名なベル博士だった。彼は聾教育でも知られた人だった。彼の母と妻が聾者であったことからそうした人々への教育にも熱心だったのだ。ベル博士は「ウォーター。」としか喋ることのない盲聾者の年若い女性がいると噂に聞き、その当人を探しあてて呼んだのだった。
 ベル博士が握手もなしに、机を挟んで二人の向かいに座ってすぐ、サリバン先生はやたらな早口で乞うた。
「しぇんしぇえー。こん子はなぁ、目ぇも見ぇーず。耳も聞こぇーず。かわいそうじゃ。恵んでくだしぇ」
「私は金で施さない」
 あまりにベル博士の断り方がきっぱりしていたから、サリバン先生は混乱して無意味に手を上下させはじめた。
「どってぇ? どってぇ? ほーすぅぃたーら、どってぇ呼んだじぇ?」
「私は彼女に教育を与えたいのだ」
「えーん。こん子わぁ。教えたってウォーターしか喋りょらんじゃ。バカですで。」
「断じてそんなことはない!」
「ひぃーえっ」
 突然、獣の吼えるような腹の底から響く声を上げ、ベル博士は机を分厚い両手のひらで叩いた。サリバン先生はひどくおびえていた。泣き出しそうな子供の顔でベル博士の顔のあたりに視線をうろつかせた。しかしベル博士はサリバン先生を全く見ていなかった。ヘレン・ケラーの無音の闇に閉じ込められたままの顔を見つめていた。
「そんなことはありません。私は一目見て確信しました。この人は極めて聡明です。適切な教育機会さえあれば、大学にさえ進めた人でしょう。しかし今からでも遅くはありません。言葉という光の道を与え、彼女を音の無い暗闇から解放する」
 ベル博士はそこで言葉を区切って黙った。ヘレン・ケラーをじっと見つめたままだった。サリバン先生はおどおどと二人の顔を交互に見比べていた。そのまま沈黙が5分ものあいだ流れた。ベル博士が息を吸う音が立って何かを言いかけた。
「ウォーター。」
 しかし沈黙を破ったのはヘレン・ケラーの方だった。ベル博士は何かを言うのをやめた。また沈黙がたっぷり8分も横たわった。ベル博士はふいに、ソファに立て掛けられたヘレン・ケラーの太い杖に視線を移した。黙ったままそれを見つめていた。サリバン先生はさらに高速で二人を交互に見る作業に没入していた。
 突如ヘレン・ケラーの右手が素早く杖をつかみ、同時に立ち上がり、杖を垂直に目の前に構えた。左手が鞘側を、右手が逆手で柄側を握っていた。サリバン先生にはほとんど、ヘレン・ケラーが刀を抜いて机越しにベル博士を斬殺するイメージが見えていたが、実際にはヘレン・ケラーは構えのまま静止していた。ベル博士は深く腰かけどこか冷ややかにヘレン・ケラーのその姿勢を黙って見つめていた。
「かかかっか帰りますぇーっ」
 サリバン先生はあわてふためいてヘレン・ケラーをなかば押し出すようにして部屋をあとにした。


「このあと流します映像には、大変残酷な場面が含まれます。ご注意下さい」
と男性アナウンサーが白々しく沈鬱な表情を浮かべて断った。監視カメラの白黒の映像が映された。音はなかった。
 ビルの広いホールだった。隙間からは煙が漏れ、部屋全体に天井のスプリンクラーが水をまいていた。どしゃ降りのなか、右下隅から小柄で背の曲がった白い人影が、よたよたという歩き方で現れた。ホールには20名ほどの銃器で武装したスーツ姿の男が散らばっていた。全員が白い人影に銃を向けていた。一瞬、画面の一部がサチュレーションして白に覆われた。一人が発砲したのだ。次のコマではその発砲した男の両腕がはね飛ばされていた。そして次々に画面の至るところで白く光っていった。白い人影はあいかわらずよたよたと右へ左へ揺れ動いていた。そのたびごとに男たちは血しぶきを上げて倒れていった。たかだか2分ほどのうちに活動可能な男たちは半減した。ついに逃げ出そうとする男が現れた。白い人影から細長く光る線が発したと思うと逃げ出した男に突き刺さり男が倒れた。刀を手放した白い人影はしかし左手に握った鞘で立て続けに三人を打ち倒し、倒れた男から刀を抜き取って再び手にした。
 全員を倒した。どしゃ降りの水が大量の血をさらに床に広げていた。画面の左上隅で振り返ってホールの全体を見つめていた白い人影は、向き直ってホールをあとにした。
 監視カメラの映像が終わり、一人の男のインタビューが始まった。両腕が肘の先から失われていた。
「それは女でした。30歳くらいかと思います」
「彼女は終始目をつぶっているようでした。何も見ていないようでした。しかし我々の銃弾、その弾道をあたかも最初から『知っている』ようでした。避けるというより、あらかじめ体をズラしているという感じでした。どれだけ撃っても当たらないのです」
「とてもゆったりした動きでした。ところが気づいたときにはもう懐に入り込んでいました。何もできませんでした。ただただ、私は自分の腕が下から斬られていくのを見ているだけでした」
「彼女は一瞬ほほえみのような表情を浮かべ、はっきりとはわかりませんが何か、『ウォーター』というような言葉を呟きました。生き残ったのは結局、私一人でした」
 腕のない男は淡々と喋っていた。


 着々と要人の暗殺を重ねていたヘレン・ケラーだったが、一方でベル博士による介入も続いていた。ベル博士は氷のような冷たい表情のまま奇妙な熱心さでヘレン・ケラーへの教育を諦めなかった。サリバン先生は自分たち二人の順調で、ある意味おだやかな生活を乱すような真似をされて不愉快さをむき出しにした。ベル博士はあからさまにサリバン先生がヘレン・ケラーの教育を妨害していると見なしている様子で、応接室への同行を拒絶したが、
「いやぁ、でもぉ、ケラーん気持ちぃ、わかるんわぁ、わっすだーけ。わっすだーけ。じゃからぁ……」
と何か言い訳みたいにだらだら言いながらサリバン先生は、ベル博士が立派な体躯で塞いだドアの隙間から、独特の動きで体をねじ込んで勝手に部屋に入ってくるのだった。
「ウォーター。」
ヘレン・ケラーは言った。
 次第にサリバン先生とベル博士は鋭く対立していった。家の中ではそれまで何か下品に笑っていたサリバン先生が突然思い出したようにベル博士を口汚く罵ったりした。
 サリバン先生とヘレン・ケラーの暮らす家が燃えた。家を満たしていたゴミのおかげでよく燃えた。月に一度のベル博士の訪問のあいだのことだったから、二人は無事だった。失火か放火かは不明だった。しかしサリバン先生は絶叫した。
「ベルのじじぃーっ!! もーぅ殺す!!!」
 暗殺で稼いだ金は床下に無造作に入れてあったから、財産の一切が焼失した。二人とも親類づきあいをまるで持たなかったから頼るあてがなかった。サリバン先生は迷わずベル博士を訪ねた。
「家ぇーが燃えたじぇ。金ぇーもないじぇ」
「それはさぞお困りでしょうな」
 ベル博士はその場で、2万ドルをキャッシュで手渡した。
「わっすぁ、たかりじゃーねのっす!! でゃど、ありがてぃーだゃ。ありがてぃ」
 サリバン先生はベル博士の分厚い手を握って泣いた。掛け値なしに純粋な感謝の涙だった。その後仮住まいのモーテルに戻ってまたベル博士を罵り始めた。ベル博士への感謝と憎悪は、サリバン先生の中では別に矛盾も起こさず共存しているのだった。その後、町中の安アパートを借りて女二人で暮らし始めた。サリバン先生は他の「仕事」も持ち込まず、普通の暮らしを続けていた。2ヶ月ほどが経った。
「さぁて。殺す。」
 サリバン先生はにわかにヘレン・ケラーの服の裾をまくり上げ、背の素肌をさらした。そして猛烈な早さで背中を指でなぞり始めた。それはベル博士の住居兼職場であったベルビルの詳細な見取り図だった。いつもこうしてターゲットの居場所を指示していた。1階から進み14階の見取り図をなぞったところで、背中の一点を皮の厚い人差し指でどんどんと叩いた。ここにターゲットがいる。殺せ。
 少し疲れた様子でサリバン先生は、まだみずみずしく白いヘレン・ケラーの背に、頬をつけ頭の重みをあずけた。サリバン先生はそのとき44歳だったが、まるで60過ぎのように見えた。


 翌日、サリバン先生はいつもどおりに買い物へ出掛け、ヘレン・ケラーは部屋で一人ソファに座っていた。夕方で日も傾きかけていたが電灯をつける必要がなかった。真っ赤な日が部屋に差し込んでヘレン・ケラーの顔に強い陰影を作り出していたが、彼女自身はそれを知らない。アパートの階段を音もなく駈け上がり、二人の部屋の前に武装した男たちが集まっていた。全員が揃いの装備を身に付けよく訓練された無駄の無い動きだった。そのうちの一人が中の様子を伺おうと木製のドアに寄って聴診器を当てた。その男がくぐもった呻き声を強く上げ、聴診器を取り落とした。周りの仲間がいぶかしげに目をやると男の背から血まみれの切っ先が突き出ていた。ドア越しに突き殺されたのだった。にわかに興奮と殺気が男たちの間に立ち込めた。刀がやにわにドアの向こうへ引っ込み、男が崩れ落ちた。
 仲間の遺体をどけ、ドアを蹴破って男たちが侵入した。しかし逆上して慌てて入り込むようなこともなく、あくまで落ち着いて的確な身振りで手前のバスルーム、キッチンと部屋を一つづつクリアしていった。誰もいなかった。廊下を進んで最後の一部屋、リビングのドアを開けた。
 もう日が落ちて薄暗い部屋に、真っ白な服を着た人影が、逆手に仕込み杖を持ち、腰を落としてやわらかく立っていた。
 男たちは銃口を素早く白い人影に向け、一斉にためらうことなく撃ち込んだ。
 サリバン先生が帰宅すると部屋中に男たちの四肢や死体が落ちていた。
「いやぁーっ!」
とサリバン先生は絶叫したが、買い物袋を落とすこともなく取り乱しもせずに
「おっしゃ。もうベル殺そ?」
と言った。
「ウォーター。」


 ベル博士は14台のモニターが並んだ壁面を、ソファに座って見つめていた。1階から8階までラベリングされたモニターにはただ床に死屍累々が築かれ、動くものの一つもない画面が流れていた。そして今、9階で超絶的な速度で武装した兵士らを斬殺していくヘレン・ケラーの映像が流れていた。ベル博士はヘレン・ケラーの動きにじっと視線を注ぎ続けていた。
 ヘレン・ケラーはベルビルの14階にたどり着いた。ひとつの扉に手を当てた。サリバン先生が背中に描いた地図の、ここがターゲットのいるとされた部屋だった。しかしヘレン・ケラーはふいに手を離すと、踵を返して向かい側の部屋の扉を押し開けた。二人が何度も通ったあの応接室だった。中にはベル博士が一人いた。
「驚いた。さすがだ。あの部屋には、ガスが……あなたを楽に逝かせるために、ガスが仕込んであったのだが……」
 言葉とは裏腹に驚いた様子もなくベル博士は言った。応接室はソファやテーブルが全て片付けられ広々としていた。
「あなたは……哀れだ。しかし、それだからといって、あなたの罪が免ぜられるわけではない」
 ベル博士は壁に立て掛けてあった刀を手に取って抜いた。幅広の重厚な打刀だった。それをぴたりと正眼に構えた。隙の無い構えだった。ベル博士は正確にイメージしていた。融通無碍に見えるヘレン・ケラーの剣術だったが、そこには一定の型のようなものがあった。ただそれが既存の剣術とかけ離れていたために一見法則性がないように映るだけだった。ベル博士は13階分のおびただしい私兵の犠牲を払ってその型を見極めた。一撃目だ。一撃目さえ防ぎきれば必勝。どちらが先に打ち込むかの我慢比べだ、と思った。
 我慢比べを覚悟したベル博士の認識とはうらはらに、ヘレン・ケラーはあっさりゆらゆらした足取りで素早く間合いを詰めてきた。そのままノーモーションで横薙ぎの斬撃を逆手から無造作に繰り出した。ベル博士はそれを完璧なタイミングで受けきった。勝ったと思った。ベル博士は溢れんばかりの慈愛に満ちた瞳をヘレン・ケラーに一瞬向けた。そして攻撃へと転じようとした刹那、ヘレン・ケラーは猛烈な力で払い落としながら、そのまま刀から手を離した。まるで想定していなかった、この場面で自ら刀を捨てる行為にベル博士が驚愕する間もなく、ヘレン・ケラーは別の手に握った拳銃の口をベル博士の顎下に当て撃ち抜いた。ベル博士は即座に絶命して床に無惨に崩れ落ちた。ヘレン・ケラーは銃を捨てた。それは私兵の標準装備品だった。拾った仕込み杖を鞘に戻した。


「ひっひっふー。ひっひっふー」
 サリバン先生は息を切らして走っていた。人気の絶えた夜の町を、両手と背中に自分一人分ほどもある荷物をめいっぱい抱えて走っていた。角を曲がったところで突然視界にあらわれた人影を前にして急停止した。薄汚れたぼろきれをまとった小柄な女だった。ヘレン・ケラーだった。
「なんじゃああーっ。おめぇー生きとっただぁーっ!?」
 その場でいきなりサリバン先生は荷物を全部どっさり取り落とした。
「おみぇーはもう、人間じゃねえだ!!」
「あんた、ベルに取り入って裏切ったようだが……」
「しぇーーーッ!!!」
 サリバン先生はすみやかに尿をシャーッと漏らした。
「おみぇ、おみぇ、しゃべれんだかぁああ?? み、み、みみみも聞こえてぃーる」
 ぐうっとヘレン・ケラーの両まぶたが開いた。静かに獰猛な、青い光を湛えた双眸があらわになった。わずかな間、両目がそれぞれ独立に少し振れていたが、やがて静止しサリバン先生の顔を見据えた。サリバン先生は自分でも気づかないうちに後ずさっていた。ヘレン・ケラーはじっと顔を見据えたままそれを追い詰めていった。店のシャッターに背中をぶつけ、サリバン先生はその場にへたりこんだ。
「おっ、おみぇ、見えてただか……」
「そうだよ?」
 サリバン先生はもう大声を出す気力も失って喋っていない間も酸素の足りない金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「なんで、なんでなんで、今まで、隠してた」
「見ねえし聞かねえ方が、見えるし聞こえるんだよ。人の心ってもんがさ」
 高速で刀身が鞘を走り抜け、切っ先がサリバン先生の両眼からただちに、永遠に光を奪い去った。自身の眼を斬られたとサリバン先生が認識した時点ですでにヘレン・ケラーは納刀していた。サリバン先生は顔を両手で覆った。その間から血が溢れ出ている。
「あああ、熱ぃーい。水を、水」
「ウォーター。」
 ヘレン・ケラーが身体を半回転させると同時に再び白刃が閃いて消えた。歩道脇の鉄の消化栓が真っ二つに切断され大量の水が噴き上がり、二人の上へどしゃ降りに降った。
「わかるか? サリバン先生。これがウォーター。ウォーターだ」
 サリバン先生は片手で血まみれの顔を覆い、もう一方の手でなにかを求めるように落ちる水の中をむなしく探っていた。
「自分で盲になってみれば、あんたもわかるさ」
 ヘレン・ケラーは、盲人らしくその「杖」で固いアスファルトをせわしなく叩きながら暗闇へ歩み去った。

Wiiのお墓

 ひょっとして、Wiiがこわれたら、WiiUを買ってもらえるかもしれない、そのアイデアをはっきり意識した瞬間に、こういちは身震いというものを生まれてはじめて感じた。ものすごく頭と顔があつくなって全身の筋肉が、いてもたってもいられないというように二三度ふるえたあと、力があまり入らなくなってぐったりした。
 でも、そんなことって、そんなことって、あっていいわけないよね。
 物を大切にしないといけないと、ずっと幼いころから刷り込まれてきた価値観がそのアイデアにまず抵抗した。小学二年生の頭のなかで、今まで大人たちに言われたり、怒られてダメだと悟ったりして覚えた価値観の数々が、まるで体系づけられていないまま、沸騰したお湯の水面みたいにつぎつぎに自己主張をはじめた。そうして両親ともがいない家のなかで、うろうろ歩き回ってひたすらあれこれ考えた結果が、とりあえず高岡くんの家にもう一度行ってみようというものだった。


「どうせスプラトゥーンやりたいだけでしょ」
「そういうわけじゃないけど」
 こういちはもともと高岡くんと特別仲がいいわけではなかった。嫌っていたわけでもなかったけれど、ちょうど今のような、人の弱味をぴったりついてくるような物言いがつらくて無意識に距離を置いていた。
「じゃあ今日くる?」
 高岡くんはそれで別に拒絶するわけでもなく、こういちが遊びにくるのは構わないらしかった。
 先週の金曜の昼休みに、納見くんが高岡くんの家に遊びにいくという相談をしていた。それを谷中くんが耳にしてぼくも行っていい? と行くことになって、すぐそば、教室のいちばん後ろのじぶんの席でそんなやり取りを聞いていたこういちは、ちょっといいなあと思った。だけどこうした場面で自分から言い出すのが恥ずかしくてだまっていたけれど、わりと仲の良かった谷中くんが、こういちくんも行こうよと誘ってくれたのだった。
「ほんとはうち来たかったのに恥ずかしいから言えなかったんでしょ」と高岡くんは言って、こういちはカッとなって
「別にちがうし!」と大声を出してけんかになりかけたけれど、当の高岡くんがあっさり
「ふーん? でもこういちくんもうち遊びに来てよ。その方がおもしろいし」と事も無げに言ったのでこういちは呆気にとられて
「うん」と返事をしていた。


「あっ汁がなくなった」
「インクだってば」
「汁が」
「汁ってなに」とこういちと高岡くんは二人で汁、汁と言い合ってけらけら笑い出す。
「あーもう汁でないじゃん」
「だからそこの青いとこにもぐって補充するんだって」
「やばいやばい」
「もぐるんだってばあ!」
「あっ、あーっ! 死んだ」
 それでまたけらけら笑いあっていた。ときどきけんかになりかけたりもしたけれど、尾を引くようなこともなく、マリオカートも遊んで夕方になった。こういちはベランダの向こうの夕焼け空を見ながら
「マンションっていいよね」と言った。
「えー。家のなかに階段があるほうがぜったいいいし」と高岡くんが言うので、こういちはそう言われるとそうかもしれないと思った。落ちると死ぬからベランダには子供だけで出たらダメだからと高岡くんが言った。帰り道に、WiiUはやっぱりすごく面白かったし、どうしてもほしいと、こういちはあらためて思った。


「だからサンタさんにお願いしようって言ったじゃない」とお母さんは言った。こういちはもう一度お母さんにWiiUのすばらしさを、控えめに、そして精一杯説得的に語ったのだったが無駄骨に終わった。お母さんはつい数日前におたがい納得したはずの結論を、急にむし返されて困惑しているようだった。お父さんに相談しても同じだった。
 やはり、とこういちは確信した。やはりWiiがあるからだ。Wiiがあるからがまんしなさいといわれるから、Wiiがなくなればいいんだ。
 これはぜったいにバレたらダメだから、夜にやらないといけないと思って興奮したままベッドに入って、目だけを閉じて機会をうかがっていたけれど、お母さんといっしょに寝ているのに、バレないように抜け出すなんてすごく難しいと気づいて、それでもお母さんの寝息をたしかめて、体をちょっとずつ動かして、なんとか方法がないか、二時間くらいそうやって格闘しつづけていたと思っていたけれど、実際には三十分弱くらいで、絶望したままもうぜんぜん眠れないと思っていたのがいつのまにか眠っていて朝になった。土曜日でお母さんに起こされることなく、眠りからいつのまにか目が覚めて、ちょっとのあいだ自分でも起きていることに気づかないほどだった。お母さんはもうベッドにいなかった。起き出してみるとお父さんもいなかった。家にはこういち一人きりだった。一階におりてリビングにはいるとテーブルの上にお母さんがつくったサンドイッチが置いてあった。もぐもぐ口を動かしたあと、Wiiでちょっと遊んだら、もう十時だった。なんとなく飽きて、電源を切って、ソファの上に寝そべってぼんやりしていた。


 テレビの声も、お父さんやお母さんの声もしないのが、すこし不安な気持ちにさせた。外は天気がよくて部屋のなかは明るかった。こういちは急にソファから跳ね起きて、でもあとはゆっくり、はだしでフローリングをぺたぺたと歩いて、玄関の靴ばこのいちばん下、お父さんの工具箱から小学二年生の手にはすこし余る大きさの金づちを手に取った。
 こういちはもうめちゃくちゃにWiiを金づちで叩いた。一発目のまえだけ、生まれてはじめて見た海に圧倒されでもした子みたいな顔をして、ふりかぶったままうろたえていたけれど、二発目からは、なにかを打ち消すように、なかったことにするように一心不乱に叩いてもう、何発叩いたかもわからなくなった。心臓があんまりにもつよく動いて、こういちは自分でもしらないうちに、あっあっと上ずった声であえいでいた。気づかないうちに金づちを手から離して、すがりつくようにテーブルの脚を抱きかかえて座っていた。体を動かしたせいで早くなっていたとおもっていた鼓動が、動くのをやめたあともいつまでも静まらずにいた。


 五分後にゆっくり立ち上がったこういちは、そこからリモコンで動かされているみたいにてきぱきと、金づちを工具箱にもどし、庭に面したサッシを開けはなった。レースのカーテンが空気をはらんでふくらむのを、両うでを大きく広げておさえこんで、脇へおしやった。Wiiはあんなに叩いたのに形をそのままとどめていた。けれどあちこちプラスチックが割れて、ディスクはもう入らなさそうだった。こういちはなめらかな足取りで二階へ上がってベッドにもぐりこんだ。シーツはひんやりしていた。そのまま丸まって目をつむった。写真くらいはっきり、あのこわれたWiiのすがたをまぶたの裏にうかべて、なにも考えずにじっとそれを見つめて、七月の暑さに二時間しずかに耐えた。お母さんが帰ってきた音を聞いた。


「どろぼうがやった……」と小声でつぶやいた子供の声に、軽い疑いから、えっ、とお母さんは声を上げた。こういちは幽霊のように生気のない顔でぼんやり立っていた。お母さんはそれからすぐに気をとりなおして、
「そうなんだ」と言った。「悪いどろぼうさんだね」
 お母さんの同意を見て、せきを切ったようにこういちは、どろぼうがいかにWiiを破壊したかをせっせと語った。顔は紅潮していた。お母さんはうんうんと熱心に話を聞いた。十分ほども話が行きつ戻りつしながら語ったあと、こういちはもどかしそうに本題に入った。
Wiiがこわれてるから、WiiUを買ったほうがいいと思うけど……」
 お母さんは
「そうなんだ」と言っただけだった。
 こういちはもう一度、
WiiUをね、買わないといけないと思うんだよね」と繰り返した。
「そうね。サンタさんにお願いしないといけないね」
「えっ。サンタさんって夏にもくるの?」
 こういちはびっくりした。混乱していた。Wiiは今、この日にこわれてるんだから、今すぐ、WiiUは買ってもらわないといけない。だけどお母さんはサンタさんにお願いしろという。っていうことは、サンタさんが今すぐ来てくれるっていうことなの? そんな論理から発せられた質問は、しかし、お母さんにあっけなく否定されたのだった。
「サンタさんはクリスマスにしか来ないから、それまで待たないといけないね」
 クリスマスなんて!
 今は7月じゃんか!
 そんなの待てるわけがない!
 こういちは、親が今WiiUを買ってくれないのはへんだ、という話をめちゃくちゃに言い立てた。お母さんはうんうんとうなずきながらその話をひととおり聞いて、それから説明した。
「でもお母さんもお父さんもWiiUは欲しくなくて、WiiUが欲しいのはこういちなんだから、お母さんやお父さんがWiiUを買うのは変で、それはこういちがサンタさんにお願いするか、来年の五月の誕生日まで待つかしないとダメだよ」
 お母さんの説明をきいたら、こういちはその通りだと思った。その通りだと思ったけれど、なんでこんなことになっちゃったのかがわからなかった。もうどうしようもなくなって、どこにぶつけたらいいのかわからないけど、悔しい気持ちだけが際限なく湧いてくるから、ぐーっと歯を食いしばったまま声をこらえて泣き始めた。
Wiiは、どろぼうさんに叩かれて、すごく痛かっただろうね。かわいそうだね」
とお母さんがおだやかに言ったとたん、こういちはわんわん泣き始めた。お母さんが抱きよせようとするのを振り払って、リビングのすみに行って、壁を向いて、かってに泣いていた。


 Wiiはすごく痛かったんだろうなと思ったら、とんでもないことをしてしまったと思った。罪悪感にうちのめされて、今までもずっと心臓はどきどきしたままだったけど、くわえて胸までくるしくなった。それでもお母さんがつくったオムライスを無理やり口のなかに入れて食べきった。お昼ごはんを食べ終わっても、床に足がつかないいすに座ってうつむいていた。
 ずいぶん経ってから、つらそうにうつむいてぺたぺた歩いて台所の下の収納をあけて、大きなごみ袋を取りだした子供を見て、お母さんは声をかけようとしてなんとなくかけそびれた。
 こういちはWiiを、こまかい破片もていねいに拾いあつめて全部、ごみ袋のなかに入れた。サンダルをはいて庭におりて、ちょうどぴったり手に合う、小さなスコップで穴をほりはじめた。日がもう、すこし傾きはじめていた。いつのまにかお父さんが帰っていて、なにも言わずに穴をほるのを手伝ってくれた。


 Wiiのふくろを穴にいれて、上から土をかぶせて、「Wiiのおはか」と書いたダンボールの板をたてた。すっかり夕方になっていた。お父さんがおはかに手を合わせて目をつむったので、こういちもそうした。お母さんも後ろでそうしてた。
 目をつむりながら、こういちは、一ヶ月くらいがたったような気がしていた。実際にはたかだか四十八時間のできごとだった。