OjohmbonX

創作のブログです。

夏の夜の夢

 真夜中と明け方のちょうど中間に、喉元から突き上げるようにして苦しく目覚めて、ほんの今まで体験していた夢もまだ生々しく、放っておけば手放せるものを、そうはできずにマテラッツィは、ひたすら今見た光景を繰り返し繰り返し振り返っているのだった。
 彼がピッチの上で、彼の脇を擦り抜けていってしまいそうなジダンのユニフォームをつかんで引くと、振り返ったジダンの目は座っている。ジダンはいきなり頭を振り下ろすようにして、同時に踏み込みつつ、彼の胸にそのスキンヘッドを叩き込もうとする。それを何とか、マタドールのやり方でかわして、はっと顔を上げると、何人ものジダンが自分を取り囲んでいるのだ。そして次々に胸や腹を目指して頭突きを繰り出してくる。ジダンが身を沈めたかと思うと、押し込んだバネが弾けるみたいに、頭突きを腹に突き刺そうとする。何とか避けるが、きりがなく次々にジダンの頭が襲いかかる。突然脇腹に燃えるような痛みを感じて見るとジダンの頭が刺さっている。身体が箱になって叩かれたような音が響いて背中にも頭突かれ、腹にも頭突かれ、何人ものジダンが突き刺さり、痛みに絶叫すると、スタジアムを満たす観客が地響きみたいに笑うのだ。これが、ワールドカップ。このスタジアムの何万の観衆の向こうでさらに、顔も見えない世界中の男や女が笑っている。
 そういう悪夢をマテラッツィは見るのだった。毎晩ではないが、忘れたころに、忘れないように、見るのだった。あれから5年たったというのにまだ。
「ジネディーヌ……」
思わずファーストネームを口にすると、ベッドの端にジダンがいつの間にか腰掛けているのだった。黙って腰掛けているなと思っていると、そのままころんと、マテラッツィの脇に丸まって寝転んだ。何げなくその頭を、ちょうど猫を飼うみたいに、何でもないことみたいに、禿げ頭を撫でていると、だんだんマテラッツィも眠気を誘われて、ジダンと並んで横たわった。うっすら目を開けていると、そこは教会だった。大きな聖堂に、大きなルーベンスの絵がかかっている。
「そうだ、ぼくはルーベンスを見たかったんだ……」
 けれどもう目を開けていられない。まぶたがあまりに重い。禿げ頭を撫でている。その頭に向かって囁くように、ほとんど無意識のようにつぶやく。
「ぼくはもう疲れたよ、ジネディーヌ……」
 ジネディーヌの背中越し、やや離れた位置に、自分たちと同じような格好で一人の少年と一匹の犬が横たわっているのを見た。
「パトラッシュ、疲れたろう。ぼくも疲れたんだ。なんだか、とても、眠いんだ……」
 少年がつぶやくと、眩いばかりの光が彼らに降り注ぎ、耳鳴りのような、遠くで鐘が鳴っているような音が響きを響かせ、天上から小さな男の子の、一糸まとわぬ天使たちがゆっくり舞い降りて、彼らを天へと連れていった。光は消え、元の冬の寒さ、夜の暗さ、ほのかな雪明かりの中に二人は沈んだ。
 マテラッツィは人々のすすり泣く声を聞いた。この世界を包み込んで外側にある何か安全なところで少年の不幸を見てすすり泣く人々の声を聞いた。
 光は再び降り注いだ。今度はマテラッツィジダンの二人に降り注いだ。溢れるほどの光の中でマテラッツィが目を凝らすと、天上からは羽の生えた、全裸の美しいジダンたちが舞い降りてきた。何人もの羽の生えたジダンたちが二人を取り巻き、天へと連れていこうとした。やめてくれ! やめてくれ! ジダン! マテラッツィの叫びは笑い声にかき消された。ジダンたちの笑い声ではない。これは外側で見ている人々の嘲笑だった。まるで彼の叫びを無視して二人は天へと上ってゆく。光はますます強く、音さえも、触覚さえも奪って白く飽和して、
 目が覚めると明け方になっていた。


 マテラッツィの部屋の窓は東の海に面して、窓の真ん中を日が昇る季節だった。開け放った窓から吹き込む乾いた暑い夏の風は肌をさらってどこかへ流れ去っていく。ベッドに横臥するとちょうど窓枠と水平線が一致する。水平線から日が昇る時間だった。ぼんやりと眺めていると、日が昇るのを見ているはずなのに、日は黒く隠されている。たしかに光は回り込んで部屋を明るく変えているというのに、肝心の太陽は隠されている。徐々に昇っていく太陽を隠し続けた陰、そのシルエットはジダンだった。ここは7階だというのに、窓枠にしがみついて太陽と共にゆっくり昇ってきたのだった。
 日蝕だと思った。これはたった一人自分のためだけに捧げられた日蝕なのだ。身を起こしかけながらマテラッツィは胸から突き上げるような、ほとんど痛みに近い喜びに苦しんだ。
 完全に日の出を果たしたジダンは窓枠を乗り越え、窓枠に腰掛けた。そして黙って座っている。また勝手に現れて黙って座っている。
 マテラッツィは喜びをかき消して暗さに沈んだ。これは、夢だ。
「いいや、現実だ。私だ」
 ジダンが声を発して否定した。驚きながら、だまされてはいけない、だれかがどうせ自分たちを見て、また笑っているんだろう。
「ここには私達しかいない。この世界に向こう側は無い」
 そんなはずはないだろうこれは、罠だと思った。しかしジダンは言う。
「私がただ一人のジネディーヌ・ジダンだ」
 たがが外れて、水が溢れ、マテラッツィはベッドから零れるように降り、ジダンに駆け寄った。ゴールの歓喜を分かち合う、あのピッチの上での疾走と抱擁の懐かしさを甦らせてマテラッツィは、ジダンに飛びつこうとしたが、ジダンは、えっ、ていう顔をした。それで、避けた。避けられて窓から飛び出したマテラッツィは、えっ、ていう顔をした。空中で顔を振り向けるとジダンは怒ったような顔をして
「そんな頭突きで私を倒せると思うな。そうはいかんざき」
と言った。誤解だ、復讐じゃない、全てを許す抱擁は達成されず、マテラッツィは落ちながら、分かり合えないまま終わる絶望に囚われかけている。だがあきらめるなマテラッツィ。がんばれマテラッツィ。ホイッスルはまだ吹かれていない。だってそうだろう。日本のクボヅカは9階から落ちても大丈夫だった。お前は7階だ。だからがんばれ。これは現実だ。