OjohmbonX

創作のブログです。

楽をしたいだけ

 ある人の行動とかある社会のルールとかについて,それが正しいのか正しくないのかあるいはどちらでもないのか,といったことを説明する原理は,たとえば自由落下運動がどんな式で記述されるのかとか液晶画面が像を映し出す原理とかを知らなくても「そういうものなんだ」という理解で生きていくのに困らないように,持たなくても生きていけるのだけれど,なにせ自由落下運動や液晶画面などの現象を説明する原理と違って自分が自分の行動を決定するのに使うものだから参照する機会が多いので持っていたほうが便利だし,多くの人にとってすっきりしていること・整理されていること・説明できることが好まれているので,その形や強度は様々あるのだろうけれど,ともかく,多くの人が持っていてもちろん私も持っているのだった.そしてその私の持つ「原理」を誰に頼まれたわけでもないのに私は書きはじめるのだった.*1


 「私の持つ『原理』」と書いたけれど,当然,これは私だけでなく誰にとっても持ち得る「原理」として考えた(考えている)わけで,つまり,「私は,ここに主観的な著作を発表するのであるが,それは,しかし全力をもって客観性へと向かうものなのである.」*2
 ただ,「全力をもって客観性へと向か」って考えても,あることを説明する「原理」は必ずしも一つだけでなく複数考えられるのが自然なので,その中から一番シンプルなものを選ぶことにしている.(「オッカムの剃刀」みたいな.)「一番シンプルなものを選」ぶということは,汎用性の高いものを選ぶことになるだろうし.


・生きてる意味なんてない
 客観的な(確実な事実としての)生きてる意味というのは存在しない,ということで,生きてる意味を個々人が勝手に設定することを否定するものでは,もちろん,ない.
 宇宙全体とか地球とかある生態系とかある人間社会,家族とか会社とか,どのレベル・種類で見るにせよ,システムの要素として人間が(あるいは他の要素が)存在する意味・必要なのかどうかといったことの説明はできるのかもしれないけれど,そうすると,そのシステム自体が存在する意味があるのかどうかということを,それを包含する上位のシステムの要素としてそれを見る……ということを繰り返していくことになって,結局,それ以上包含するシステムがないシステムに行き着くのかどうかが問題になってくるのかもしれないけれど,どの道,今自分が生きている時点では「それ以上包含するシステムがないシステムに行き着く」のだから,ある何か(たとえば人間)が存在する客観的な意味というのはない,つまり,「ある何か」はあってもいいし,なくてもいい.(その前に,あるシステムの要素として人間の存在する意味は無い,と説明できるかもしれない.)
 もし,「それ以上包含するシステムがないシステムに行き着」かないということが証明されたとしても,ある人にとって生きてる意味は具体的に明らかにされないので納得はできないだろうし,そもそも,生きていくのを楽にするための「原理」を考えているのだから,「ある何か(たとえば人間)が存在する客観的な意味というのはない」とするほうがすっきりするし,それで良いように思う.
(とりあえず客観的な意味づけとして思いつくところでシステムの要素として考える,ということをしてみたのだけれど,他に何かあるかもしれない.)


 そんなわけで,「客観的な生きてる意味というのは存在しない」と考えるので,生きてる意味はそれぞれが勝手に決めればよくて(決めなくてもよくて),あらゆる生きてる意味は全てひたすら主観的なものとなる.このことをよく自覚していれば,生きる意味がみつからないという変な理由で自殺したり(生きる意味は個人的で主観的なものなのだから,自分が生きていることに先行しないはず),宗教を(紹介するならともかく)押し付けてきたりすることはないはず.


・何もかも自分のため
 そんなわけで生きる意味(というか目的)を適当に決めるのだけれど,シンプルで,汎用性が高く,誰にとっても持ち得るものとして,気持ちいいこと(快楽・満足・幸福……何でもいいけど)を追求するため,というのが良いのではないか.気持ちいいことは,なにせ気持ちがいいのだからこれを追求するために生きていくことへの異存はあり得ない.(もちろん,ここでの「気持ちがいい」という言葉は,各人にとっての気持ちいいことなので,かなり広い範囲を指している.たとえば性交を禁じて生活している人がいたとしたら,性交を禁じることで得られる満足(たとえば,戒律を守り通していることへの満足)がその人にとっての気持ちいいことであって,性交が一般的に気持ちがいいことかどうかということとは無関係.)
 そうすると,自分の為すあらゆる行為が自分の気持ち良さの追求のため,ということになるはず.


 というようなことを書いていてふと,金井美恵子のエッセイ集『目白雑録(ひびのあれこれ)2』に所収の「灰かぶりキャベツ,その他」のことを思い出した.

テレビのニュースを見ていたら,浅間が噴火して群馬県の今年は大豊作だったキャベツが灰を被って売り物にならなくなったのを,高崎市のデパートで一個百円(だったか? それとも五十円? 通常では二百円で売っているそうだ,キャベツは)で売って,生産農家を支援していると言っている.キャベツを買った奥さんがインタヴューに答えて,外側の皮を取れば灰で汚れていないし,少しでも,被害にあった農家の人たちを支援できればねえ,と語るのにムッとなる.ババア,と言いたい.安いから買ったと言えばいいだけのところを,被害にあった農家を少しでも支援する,というのならば,五百円か千円は出すだんべえ,と,私が群馬の農家のオヤジなら思うし,群馬の都市部のオヤジと農家のばあさん風に言えば,五百円か千円は出すんじゃねえのかい,である.

 金井美恵子が「ババア,と言いたい」「キャベツを買った奥さん」は「自分の為すあらゆる行為が自分の気持ち良さの追求のため」とは思っていないのだろう.
 こう考えていれば,お前らのためにやってやってんだぞ,とは考えられず,お前らのためにやってやってるのは自分の満足のため,なのだから偉そうな態度を示したり偉そうなことを言ったりすることも減って,人に嫌われることも少なくなるから実践的にも得のような気がする.


・自分がされて嫌なことを人にしてはいけません
 「自分の為すあらゆる行為が自分の気持ち良さの追求のため,ということになるはず」と書いたお前は,じゃあ,腹の立つ奴を殴ったりするのか,なんて言う人がいるのかもしれないけれど,もちろんそんなことはしない.というのも私は人に殴られたくないから.私が誰かを殴るのを認めることは,私が誰かに殴られるのを認めることだから.
 他人から全く独立に生活しているわけではないのだから,気持ちいいことを追求する際に他人の気持ちいいことと自分のそれとが背反する場合,他人の気持ちいいことが自分にとっての嫌なこととなる場合が,生じることがよくある.他人にされるのは嫌なことを,他人が自分に対してすることはもとより自分が他人にすることも,気持ちいいことを追求した結果,禁ずることになる.
 自分がされたくないからしない,となると例えば,育児を放棄してもいいのか(自分はすでに大人なので育児を放棄されるということはない),余命が少ないなどの理由で死ぬことを厭わない人が殺人をしても良いのかというと,多くの人が繋がってできている社会として許容できない,というようにとりあえず理解している.(ちょっとこの辺が私としてあやしい.)
 そういう制約を承認してもなお得るところの方がはるかに大きいから他人と付き合っているんだ,ということなんだと思う.
 

 客観的な生きる意味なんてない,と考えるところから自然にこう考え進めることになったんだけど,当然,親の考え方だったり読んだ本だったりの影響を受けているわけで,中でも特に影響が大きいんじゃないかなあというのは深沢七郎の『人間滅亡的人生案内』.これは「話の特集」という雑誌で連載されていた人生相談を纏めたもので,深沢七郎が「人間滅亡教」という考え方に従って回答している.どの回答も割と似通っているのだけれど,それは悪いことではなくて,それだけ「人間滅亡教」の汎用性が高くて強固だということなんだろう.
 ちょっとぱらぱらめくってみて目に付いたところを引用.

生きていることは悲しいことだと思う必要はありません.生きていることは楽しいことだと思う必要もありません.ただ,ぼーっと生まれて来たのだから,ぼーっと生きていればいいのです.

貴君の不平らしく考えているなかにはツマラナイこともあります.「友達になっても,いつかは裏切られ,あざ笑われると思う.」なんと不必要なことを考えることでしょう.友達などというものはそれでいいのです.友達というものは花のようなものです.例えば,幼稚園のときの友達,小学校のときの友達,中学,高校,大学の友達,それは,春には春の花が咲き,夏には夏の花が咲くのと同じです.そのとき,そのときの時季,状態で友達はそこにあるから眺めたり,飾り物にするのです.友達はいつかは裏切るものではなく自分自身が選んだり,捨てたりするものです.友達などというものはそのときどきに自分のために存在するのだからそんなものに負担を感じたり,たよりにしようと思うのは悪いことだと思います.


 とりあえず今のところこう考えている,というだけで,もっと簡単でわかりやすくて都合のいい「原理」があればこだわりなく乗り換えるつもり.ただ,上に書いたものも今自分で考えている限りではそんなに不都合はないんじゃないかと思うけれど.

*1:こういうことを突然,臆面もなく書いてしまうのは色々あってちょっとどうかしている状態だから.

*2:ユーゼン・ミンコフスキー著(村上仁訳)『精神分裂病』の「序論」にある文章らしいが,私はそれを読んでいない.大西巨人『迷宮』からの孫引き.