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OjohmbonX

創作のブログです。

正義の職業、一生の職場

 数ヶ月ほど前から、バタコは新しい顔を投げるとき指を1センチほど食い込ませるようになった。傷ついた箇所が偏頭痛みたいにずきずきと痛み続けてアンパンマンを悩ませるのだった。
「やめるんだ ばいきんまん!」
 そうした大声を出すと痛みが増す。大きな頭だから指を挿した方が投げやすいのだろうと想像はできても、これでは生活がままならない。アンパンマンはこの窮状を知ってほしいと思った。
「バタコさん 指のあとが いたむんだ」
「知ってるわよ」
 バタコは知っていた。知りながらそうしていた。自分の都合のために他人の苦しみを顧みない女。アンパンマンは別に驚かない。ただそうした性質を知っていたはずなのに、忘れていた自分に失望しただけだった。
 バタコはしばらく不機嫌さをあらわにして過ごし、パン工場のみんなを滅入らせた。パンのこと一番詳しい私が知らないと思ってるなんて、馬鹿にしてるわ、と言いたげな態度だった。
 こんなときアンパンマンは、ジャムおじさんにかすかな期待を抱かずにはいられない。一喝してくれればいい。バタコをしつけてほしい。免れがたくふいに浮かぶそうした期待をアンパンマンはすぐに黙殺する。無駄なのだ。そうした期待を抱くことも、それを無駄と知って落胆する気もちも、無駄だとわかっているからアンパンマンは、何も考えないようにつとめている。
「ちょっとおー。だれー。ボウルをこんなとこに置いて」
 ジャムおじさんに決まっているのに、いちいち誰かとバタコは聞く。
「ボウルはこっちの棚って決まってるのに、ほんとしょうがない」
 「こっちの棚」と今一人で勝手に決めたのはバタコなのに、まるでずっと前から公的な決め事として存在していたかのように言う。こうした心のねじけきった言い草を聞くたびに、アンパンマンはいたたまれなくなる。正義が示されることを祈らずにはいられない。ジャムおじさんがただ一言、「わたしが好きな位置を決める」と言えばいい。「その態度は何だ」と。しかしジャムおじさん
「すまないねえ」と謝るのだった。
「ほんと。私がいないとどうしようもないんだからみんな」
 そう言って棚にボールをしまうバタコの背中をちらっと上目遣いに、うっすらと笑みさえ浮かべながら見たジャムおじさんを、見なかったことにしてアンパンマンは何も考えないようにする。たかがボウルのしまい場所、なんでもないんだ。なんでもない。
「あーん」
 チーズがなく。
「フェーッ!」
 バタコが叫ぶ。
「犬がいるなんて不衛生じゃない!」
「バタコさん チーズは いままでもパン工場に 入れていたじゃないか」
「そんなこと知らないわよ。私はパン工場に犬がいるなんて不潔だって言ってるだけ。私、間違ったこと言ってる?」
 アンパンマンはチーズをつれて外に出た。とても暖かく穏やかな日だった。犬小屋の前でチーズをなでた。手のひらで包むようにチーズの背中をやわらかく押した。とても温かい。チーズはしっぽをぱたぱたさせてアンパンマンの顔をぺろぺろなめた。
「あーん」
「フェーッ!」
 工場の中でバタコが叫んでいる。


「そんなことくらいで文句を言うなんて甘えですよ。私たちは正義のみかたなんですよ?」
「もんくだ なんて」
「文句ですよ。私たちの神聖でまっ白な仕事に泥を塗るようなものですよ」
「でも 指のあとが いたむんだ」
「苦しんでいる人たちを助けるのが私たちの仕事です。その私たちが弱音をはくべきじゃありません。どんなに苦しくても笑顔でみんなを助けて、悪を倒すのが正義のみかたです」
 しょくぱんまんの言う通りだとアンパンマンは思った。正義のみかたが弱音をはいてはいけないと言われてとても傷ついて恥じ入った。一方でそういうことじゃないという気もしたが、うまく説明できる自信がなかったから黙っていた。その納得のいっていないらしいアンパンマンの顔を見てしょくぱんまんは苛立った。
「もういいですよね! 私はパンの配達があるので失礼しますよ」
 アンパンマンしょくぱんまん号を見送ってから、こんな話をしなければよかったと後悔した。誰かに分かってほしいだけだったけど、それが甘えなんだと思った。
 話をするまで分かってもらえると信じきっていたことを不思議に思った。しょくぱんまんはバタコさんと住んでいるわけではないし、自分の顔は自分で焼いている。だから分かってくれなくても当たり前なのに。


「オレは大好きだよ!」
 アンパンマンは今度はずっと慎重に、非難にも文句にも弱音にも聞こえないように、バタコをどう思っているかカレーパンマンにたずねた。返ってきたのは、いかにバタコが有能で、傑出したすばらしい人物で、どれほど自分が彼女を尊敬しているかという表明だった。
「オレのマントに穴があいたときバタコさんすぐに縫ってくれたんだよ。もうどこに穴があったのかぜんぜんわからない! 前よりも飛びやすくなった気もするくらい。裁縫もじょうずで、パンも焼けて、アンパンマンの顔を投げるのだってあんなに上手い! ほんとにすごい人だよね」
「そう だね」
 改めて言われればその通りだとアンパンマンは思った。バタコさんはあんなに何でもできる。それなのにあんなちょっとしたことでバタコさんを悪く思っていたなんて自分がどうかしていたんだと思って恥ずかしくなった。パン工場の外から見ればバタコさんはやっぱりすごい人に違いない。
 それでも、どうしてもアンパンマンは思い出さずにいられない。バタコと二人きりでカレーパンマンがカレーを補充してもらっている光景。正座したバタコの太ももに頭をのせて、仰向けに寝たカレーパンマン。その口にバタコがカレーを注ごうとする。カレーパンマンは期待を丸出しにして犬みたいに短くきれぎれの粗い息を吐いて、近づいてくるカレーから視線をそらせずに目を見開いている。どろどろのカレーが注がれる。
「ンンーッ!」
 カレーパンマンの腰が浮き、手足が突っ張り、それから全身が痙攣する。バタコは暇な方の手をのばして、本当にただの暇つぶしみたいにカレーパンマンの腹をなでる。タイツのようにぴったりして滑らかな素材でつつまれた腹を指先でくすぐるようになでている。カレーパンマンは痙攣している。
 カレーを注ぎ終わるとバタコはさっさと立ち去った。カレーパンマンはその拍子に頭を床に打ちつけるがまるで気にする余裕もないみたいに脱力して床に寝ている。息があがって気怠そうに、口の周りの涎やカレーを手でぬぐって放心している。
 カレーパンマンがバタコをほめているのはあのことと何か関係があるのかもしれないとアンパンマンは少し思ったものの、それでもバタコが有能だということに間違いはないと思った。こうやってパン工場じゃないところで、バタコを直接見ていないところで、頭の中で思い出していると悪いことなんて一つもないように思えた。あんなに暗い気分になっていた理由がもうわからなくなっていた。しょくぱんまんカレーパンマンと話してよかったとアンパンマンは思った。


「そろそろフェスの季節じゃない?」
 バタコの宣言にアンパンマンジャムおじさんは戦慄した。そしてすぐに諦めて暗い気分になった。フェスとは「バタコ 春のパンまつり」である。バタコ本人はそれをフェスと呼ぶが、自分以外がフェスと呼ぶと途端に機嫌が悪くなるからみんな「バタコ 春のパンまつり」と正確に呼ぶ。
 パンまつりに入るとバタコは生き生きとして力がみなぎってくる。そうしてアンパンマンの顔を大量に製造するのである。実際に製造するのはジャムおじさんであって、バタコは顔を投げる方に専従している。パンまつりの期間中は最低日に5度は新しい顔を投げることにしているから、ジャムおじさんは夜通し働くことになる。
 一方で顔を交換させられるアンパンマンも地獄である。交換の直後は元気100倍になる。気分も高揚し、万能感に支配される。しかし元気100倍は身体への負担もそれなりにかけているらしく、その後はしばらく強い倦怠感に襲われ、半日もしてようやく落ち着きを取り戻す。パンまつりの間はそうした落ち着きへ至る前に顔を交換させられ、高揚と倦怠を強制的に往復させられ、次第に疲弊していく。
 パンまつりの終了はバタコの気分にかかっている。およそ2週間つづくが、10日ほどで終わるときも20日経っても終わらないときもある。およそ2週間と考えて無い指を指折り数えて終わりを待ちわびていると、14日目を過ぎた日から終わりの見え無さへの耐え難い絶望にさいなまれることをアンパンマンジャムおじさんも分かっているから、日を数えることはしない。ただ一日一日を耐えていくばかりだった。
 けれど今回ははるかにつらいパンまつりだった。元気100倍と同時に指の跡も100倍痛むのだった。「バタコ 秋のパンまつり」のときはまだ指を食い込ませはしなかった。その上、数多く投げるうちに顔の扱いがぞんざいになってきている。鼻をつかんで持ち上げた拍子に、鼻が取れてしまった顔をそのまま交換しようとした。
「やめるんだ バタコさん!」
 大きな声を出すと頭がひどく痛む。
「やめないわよ。新しい顔を町のみんなに食べてもらいたいでしょ。それとも古びた顔を食べさせてアンパンマンは平気なの?」
「もちろん あたらしい顔のほうが いいとおもうけど」
「でしょーっ?」
 バタコは鼻の取れた顔を思い切り投げつけた。もう指をほとんど全部つっこんで。
「元気100倍!」
 この世界から即座に消えたいと願うほどの痛みがアンパンマンを襲った。
 ベッドに入っても痛みは消えない。身体がひどく疲れているのに眠れない日が続いている。夜中もジャムおじさんのパンづくりの音は続く。そのまま耳を傾け続ける。ジャムおじさんが厨房を出る音が聞こえる。仮眠に入るのだ。アンパンマンは起き出して厨房に入る。明かりが消されていても大きな窓から入る月明かりで案外明るい。明日用の顔のひとつを持ち上げる。つややかで傷ひとつ無い。それを持ってパン工場を音を立てないように出て裏の森へ入っていった。ずいぶん歩いて少しひらけたところで立ち止まる。切り株の上に新しい顔を起き、それを両手で固定し、そこに自分の頭を合わせて動きを確認する。自分で顔を交換した経験はなかった。もしも失敗してどちらの顔も外れてしまったらどうなるのか彼自身もわからなかった。死ぬのかもしれないと思ったが、それならそれでいいと思った。こんな苦しみがなくなるならもうどちらでもいいと、思い切り顔を新しい顔にぶつけた。
 目を二、三度しばたいて足元を見ると古い顔が転がっていた。鼻が無く、後頭部に穴のあいた顔だった。アンパンマンは留保なしの元気100倍で古い顔を森の奥に向かって投げた。
「さあお食べ ぼくのもういらないかお 森のどうぶつたち!」


 からだがほのかに温かく、ゆっくり目が覚めていく。なにかとても大きな幸せに包まれて意識がすこしずつはっきりしてくる。こんな朝はひさしぶりだなとアンパンマンはうれしくなって、もうすこしベッドの中で過ごしていようと思った。
アンパンマン
 驚いて声の方へ振り向くとドアのそばにバタコが立っていた。そのまま黙って部屋を出て行ったから、あわててアンパンマンも着替えて厨房へ向かった。
「なによ」
 バタコは捨てたはずの古い顔を抱えていた。森の動物たちに食い荒らされてぼろぼろになっていた。アンパンマンが何か言いかけるのをバタコは待たなかった。
「なによ〜」
 バタコは叩きつけるようにしてアンパンマンの顔を交換した。途端に全身が重くてだるくなる。力がでない。つらい。
「顔を替えるのは、私でしょ」
 崩れるようにひざまずく。何とか顔を上げて、バタコとジャムおじさんを見上げる。棚には新しいぴかぴかの顔がいくつも並んでアンパンマンを見下ろしている。
「パトロールに行きなさいよ」
 こんな顔で行けるわけない。すがるような目でジャムおじさんを見る。
「さ、いってらっしゃい」
 いつものやさしいジャムおじさんの声だった。目はぼくを見ていない。
「いって きます」
 アンパンマンは煙突をぬけて、空をとぶ。このままどこかへ飛んでいきたい。でも新しい顔にかえ続けないと生きていけない。あの人たちがいないと生きていけない。体がばらばらになりそうでも、ぐんぐん速さを増していく。風が顔にあたる。パンがかわいていく。干からびていく口でアンパンマンは口ずさむ。
「あいと ゆうきだけが 友だちさ」
 その声は風に消されて誰の耳にも届かない。