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創作のブログです。

堀川くんと俺

 朝5時に2階の窓から隣家の庭を見下ろしたら、10歳くらいの少年がこっちをじっと見上げていた。はっきり俺の目を見ていた。磯野家の子供ではなかった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。
 少年はまだ雨戸も開いていない家の縁の下へもぐりこんだ。15分ほどたってひどく汚れた体で出てきた。そして帰っていった。翌朝も同じだった。その次の日は来なかった。


 予備校の帰りに駅の階段から突き落とされた。
「堀川です」
 あの少年だった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。腰も背中もずきずきと痛んで息もできなかった。
「大丈夫ですか?」
 堀川くんは勝手にタクシーを呼んで俺を押し込め、家まで走らせた。着くなり親父を呼び出して金を払わせ、俺を2階の自室まで運ばせた。そして堀川くんは俺の部屋まで当然のようについてきた。
「ぼく、ワカメちゃんの同級生です。かもめ第三小学校の3年生です」
 堀川くんが親父にそう言うのを聞いた。親父は何度も礼を言っていた。
「甚六さんの部屋からだとワカメちゃんちがよく見えますね」
 しかし堀川くんは窓の外を見ていなかった。部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。歩いている間は頭はしっかり止まっていた。急に立ち止まって、ベッドに横になった俺を見下ろした。頭がぐらぐらゆれていた。無表情だった。
「じゃあ帰ります」
 その日から飼い犬のハチがいなくなった。近所の人も手伝って家族総出で探し回ったが結局見つからなかった。


「おじゃましてます」
と堀川くんは言った。勝手に俺の部屋にあがっていた。オレンジジュースが盆に乗って正座した膝の前に置かれていた。頭がぐらぐらしていた。俺を見上げていた。
「甚六さんはワカメちゃんのうちをよく見ますか」
「堀川くんはワカメちゃんのことが好きなの?」
 堀川くんは急に握りこぶしで床を打った。怒ったのかと思ったが無表情のままだった。やや斜視気味の目が、どこを見ているのかわからなかった。堀川くんはオレンジジュースの残り一口を飲み干して、なめらかに窓を開けてコップを外へ投げた。磯野家の瓦屋根にうち当たってコップが割れた。中からサザエさんとフネさんが慌ただしく縁側に出てきて屋根を見上げた。高い位置から見下ろすと人間というより人形が動いているように見えた。
「甚六さんは恋人がいますか」
 俺はポテトチップスを堀川くんに渡した。堀川くんは袋の口をわずかに開けて空気を逃がしたあと、ぺしゃんこになった袋を床に置き、握った両手で中身を砕き始めた。手の動きとは独立に頭が激しくゆれていた。それから右手を猫のように熱心に舐め始めた。唾液でまんべんなく濡れた手を袋に突っ込んで引き抜いた。手の表面にべっとりついたポテトチップスの粉末をまた丁寧に舐めとっていった。3回繰り返したあと、チップスの袋を折り畳んで短パンの尻ポケットに差し込んだ。
「残りは犬にあげます」


 堀川くんはそれから5日連続で来て、そのあと7日来なかった。
 予備校から帰るともう部屋にいた。家族は、知的好奇心の旺盛な小学生が、俺を兄のように熱心に慕っていると思っているようだった。堀川くんは部屋の中を歩きまわって、様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。人間の価値尺度で測ると、あまりに残酷だったり、不条理だったりするような話ばかりだった。ほとんどおとぎ話か、教訓のように聞こえた。ポテトチップスを買い置いていた。口の中でたっぷり5分もふやかしてから食べたり、形を全て分類してから食べたり、毎回作法が変わっていたが、いつも半分以上を残して持ち帰っていった。
 そして来なくなった。ポテトチップスが溜まっていった。毎朝窓から隣家の庭を眺めたがそこにも姿はなかった。見逃しているのかもしれないと疑って、予備校に通うのをやめて一日窓から見張るようにしたが現れなかった。7日後に玄関チャイムが鳴った。堀川くんはハチを連れていた。首輪とリードが変わっていた。そしてひどく肥っていた。歩いていたのを偶然見つけたという。ハチは旺盛な食欲がもとに戻らず肥り続けていった。
 その日、堀川くんにどんどんポテトチップスを食べさせて肥らせる夢を見た。すごく気に入って、眠る前にベッドの中でそのイメージを思い浮かべるのが習慣になった。


「カツオくんは、日記を書いているの」
「書かないですよ。書いてもいつも三日坊主なんです。ほら、ぼく、ほんとに坊主頭じゃないですか。夏休みの絵日記だって最終日にお父さんに書いてもらうんですよ」
 話しかけるとうれしそうに三倍くらい返してくれるのがカツオくんらしいなあと思った。そうしてひとしきりしゃべってから、どうしてそんなことを聞くのという視線を向けてほんの少し、不安げな顔をする。
「たまたま物置を整理していたら、子供の頃に書いていた日記が見つかってね。今の子も書いているのかなと思って」
「すいませんぼく、書いてないんです。でもワカメは書いてますよ。いつも寝る前にノートに書いて引き出しにしまってます」
 俺は物置の整理なんてしていないし、俺は子供の頃に日記なんて書いていない。
 磯野家から人がみんないなくなることはめったにない。サザエさんが夕飯の買い物に出て、フネさんとタラちゃんの2人になるのが日常での最小人数だ。門から子供部屋のある方へまわる。ここの窓の鍵はいつも開いている。カツオくんが大人の目を盗んで遊びに行くからだ。靴を脱いで音を立てないように部屋へ入る。学習机が2つ、窓を挟んで壁際に並んでいる。どちらがワカメちゃんのかは一目瞭然だ。脇の引き出しの1段目を開けると、もうそこに「にっき」と書かれたノートがあった。ざっと目を通すと、1日に2行ほどの文章で、ここ12ヶ月分の日記だった。それより古い物もないかと別の引き出しを探っていると、未就学児童に特有の、電子音に似た足音が近づいてきた。
 ノートの背をくわえ、廊下に面したふすまに素早く身をよせて、両手でふすまのへりを抑えた。電子音が止んだ。ふすまを開けようとする力が手に伝わってきた。
 タラちゃんは何度もふすまを開けようとした。間歇的に正確なリズムでふすまを開けようとしてくる。幼児とは思えない力で、腕を突っ張って全力で押し返さないと敗けてしまいそうだった。
「おばあちゃーぁん……カツオお兄ちゃんのお部屋があかないですーぅ……」
 電子音が遠ざかる。
 ワカメちゃんの引き出しを全て元に戻し、窓を乗り越え外へ出る。音を立てないように窓を閉めようとするが木枠がきしむ。閉めきった瞬間、奥でふすまが開く音を耳にする。
「そうかい? ふつうに開くようだけれど……」
 フネさんとタラちゃんのいぶかしむ声を、窓の下で、壁に身をよせて聞いた。


 両親も妹も出かけて一人だった。昼寝から目覚めたら夕方になっていた。堀川くんが部屋を歩きまわっていた。他人の家に断りもなく入るなんて言語道断だと思った。
「だめじゃないか、不法侵入だぞ! 子供だからって絶対に許されない!」
 記憶にないくらいの大声を出した。大きな声を出してみたら、怒っているという実感が増した。となりの波平さんもこんな気持ちなんだろうな。この際、平手で頬を思い切り張りたおしてみようと思った。堀川くんは部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。
「だまれごくつぶし!」
 歩きまわりながら、俺より大声をだした。それから様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。
「ワカメちゃんの日記を盗んだんだけど、読む?」
 ベッドの端に座って堀川くんは膝の上に置いたノートをぱらぱらとめくっていった。俺はその隣で堀川くんの手元を覗いていた。堀川くんは頭が激しく揺れ、いったいそれで物が読めるのだろうかと思った。堀川くんはときどきページを指でさした。日曜日の箇所だった。いつも日曜日は空欄だった。
「その日記には堀川くんのことはどこにも載ってないよ」
 覗き込むように横顔を見つめたけれど、堀川くんは無表情のままだった。気にしているのは、いつも空欄の日曜日だけだった。読み終わって返されたから、ワカメちゃんの日記はそのままゴミ箱に捨てた。部屋が暗くなってきていた。電灯のスイッチを入れようとしたら
「まだ、待ってもらえませんか」
と堀川くんは言った。頭が揺れていなかった。二人でベッドの端にとなりあって腰かけていた。あっという間に部屋が暗くなった。起きているのに部屋が暗いままでいるのは変だった。子供のころから付き合いがあるのに知らない顔を見せられた気がした。色がなくなって、カーテンをひいていない窓から入る外の光を元手にして、ものの輪郭が残っているだけだった。堀川くんは、黙っているし、歩きまわってもいないし、頭もゆれていない。
 堀川くんが立って窓を開けた。
「聞こえますか。これ、一家団欒の声」
 今夜は波平さんもマスオさんも帰りが早かったみたいだ。にぎやかな声が適度に減衰して俺の部屋に流れ込んできた。夜7時くらいだろう。二人で窓辺に立って、磯野家を見下ろしていた。
 堀川くんは尻ポケットからスイッチを取り出した。
「甚六さんにだけ。ちゃんと見ててください」
 堀川くんは一瞬、犬みたいな呼吸をした。磯野家を指差した。つられて指の先を視線が追った。
 何が起こったのかわからなかった。巨大な地震が真下で起こったと咄嗟に思った。音と衝撃の区別がつかなかった。磯野家の縁の下から土煙が噴き出すのを一瞬見た。けれどすぐに土煙が激しく立ち上って視界を遮るのと同時に、体がはじき飛ばされて床に尻餅をついた。目の前の堀川くんが遅れてふらふらと倒れこんできた。胸でその背中を受け止めた。子供の体温が熱くて、動物だと思った。
「立たせて。ねえ、いっしょに見て」
 堀川くんの両肩をささえて立ち上がり、窓の外を見た。磯野家がそのまま低くなっていた。形を全く保ったまま、縁の下の高さだけ「落ちて」いた。
「あぁ~」
 堀川くんは制御できないほどの興奮に襲われていた。なすすべもないふうに俺に体重をあずけてきた。みぞおちに堀川くんの頭が押し付けられた。体に力が入らないようだった。あえぐように言った。
「家の……ぜんぶの柱っ、床下の……バランスがね、難しくて、……上の重さが違うから全然……でも、見たでしょっ! かんぺきに、同時に落ちるところ……」
 腕の中で、堀川くんが俺を見上げた。ようやく子供らしい顔をしていた。
「あのさあ、ほめてよ、甚六さん……大人でしょ」
 街灯の光があごの下、喉元、首、その肌に白々と当たっていた。なめらかすぎると思った。子供の肌がつまっていると思った。手のひらで撫でていった。包み込むというよりもう、絞め殺すような手つきになっていた。堀川くんは細かく痙攣していた。
「ポテトチップスがね、たくさんあるんだ」
 力が入らないままの堀川くんをベッドの上に運んだ。後ろから抱き止める形でポテトチップスを口に運んでいった。堀川くんはおとなしく、ふつうに食べていった。このまま永遠に食べさせつづけたいと思った。
 磯野家は引っ越していった。急に時間が流れ始めた。

十九、二十歳

 こんな夜中に掃除してる。クイックルワイパーでフローリングの床をざっと拭いて、ガラスのローテーブルの上はウェットティッシュで拭いたあと乾いたティッシュで跡にならないよう水分を拭き取った。
「ごめん。急なんだけど今から泊めてもらえないかな。」
「いいよ。」
「実はもう一人友達もいるんだけど、、、終電のがしちゃって、、、」
「うちベッド以外は布団一組しかないけど」
「えっと、それでも大丈夫だけど、、、だめ?」
「いや、そっちがいいならいいけど」
「ありがとう」
「来る時間わかったら教えて。だいたいでいいから」
 ローテーブルをどかして布団をクローゼットの上から引っ張り出して敷いた。もう〇時半だった。平日はいつもなら十一時には寝てる。
 落ち着かなくて部屋の中をうろうろしてしまう。あれから一時間たったのにトラからLINEの返事がこない。その「友達」との話に夢中で気づかないんだろうか。トイレのペーパーホルダーの上に少しホコリがたまっているのが気になってここも掃除した。もとから部屋を汚くしてるわけじゃない。別に掃除をしなきゃいけないってこともない。でもいちばんいいところを見せたいってどうしても思ってしまうのは結局なんか、見栄なんだろうな。
 そう。見栄だ。泊まりにくるって言われたのが嬉しくて即答して、でも友達が一緒だと聞いたときに嫌だなと思ったのに、断らずに寛容な人間のフリしたのだって、見栄でしかない。
 チャイムがなって急いでドアを開けたら茶髪でふわふわのパーマになってるトラの頭を見て、一年以上も会ってなかったんだなと思った。その後ろに「友達」がいて二人とも大きなギターケースをしょって、なんだかごちゃごちゃしていた。
「あの、俺明日、七時前には家でなくちゃいけないし、六時に起きるんで、早めにシャワー使ってもらっていいですか」
「早っ」
「明日仕事なんで」
「バイト?」
「いや、普通に会社で働いてますけど」
「えっ。でも峰口と同い年のいとこなんですよね? えっ」
「高卒で就職してるんで」
「あー……そうなんだー……」
 この想像力の欠けた「友達」にも、来る前に説明のひとつもしてないトラにも、イライラした。早くシャワーしろって言ったのに荷物も下ろさずコートも脱がず無遠慮に人の部屋を見回してくるこの初対面の「友達」にも、いつまで経ってもお互いの名前すら紹介しないトラにも、ますますイライラした。
「いや俺、シャワーいいっすよ。もう遅いし」
「そうじゃなくて、整髪料も枕につくし……」
「あーと、ああ、そうゆうこと」
 そうやってイライラを抑えられずに、もろ態度に出してる自分にも腹が立つ。
「は? あの人なんか怒ってんの?」
「いやいや、そんなんじゃないと思うよ」
 風呂場を案内して離れる間際に「友達」がそう言うのを聞いて叫び出しそうになった。
「リョータごめんね。急に、こんな遅く、明日も早いのに。えっとサークルで今日飲み会があって、」
 そのまま説明を続けそうなトラを遮った。
「いや。いいから。俺さき寝るから、あのお友達は下で寝てもらって、トラはベッドこっち半分使っていいし」
「うん。ありがとね」
 全然寝付けない。なんでこんな風になっちゃったんだろ。一人暮らしはじめてそういえばトラに泊まってほしいなと思ってたんだった。ゲームとかしたりして夜遅くまで遊んだり話したりして、そういう子供じみた楽しみ期待してたんだってこと思い出したのに、なんだこれ。
 壁にほとんど密着させてた顔を離して仰向けになって目を開いたら視界の端に、所在無さそうに部屋の真ん中で突っ立ってるトラの後頭部があった。
「髪染めたんだ?」
「えっ」
 ベッドの端を指して席を勧めた。こんな風にトラが自分に気を遣ってるのを見るくらいなら、泊まるのなんて断れば良かった。
「あー髪ね。うん、どうかなーと思って」
「結構似合ってると思うけど」
「リョータも、いっぺんやったら似合うんじゃない」
「いや、そういう職場じゃないし」
「あー、……そっか」
 そうじゃない。そういう気まずい雰囲気にしたいわけじゃないんだけど。トラがシャワーに行って、部屋で「サークルの友達」と二人になったから寝たふりしてたらそのまま眠ってた。シャワーから上がったトラがベッドに入り込んでくる動きで目を覚まして、自分が眠っていたことに気づいた。もう部屋は暗かった。「サークルの友達」はもう寝息を立ててた。ほんのちょっと酒の臭いがして、そうだ、学年いっしょだけどもうトラは二十歳なんだよなと思った。
 シングルベッドが狭すぎて、もちろん仰向けうつぶせは無理だし、二人で背中合わせに寝てるけど掛け布団の幅が足りなくて寒いし、寝返りも打てないし、他人と寝るとかそれこそ小中学生のころトラとふざけて同じ布団で寝たりしてたの以来だし、もうぜんぜん眠れない。体感で午前二時、家を出るまで四時間きってる。


 急に自分のダッフルコートが子供っぽく思えてきたのはリョータが、スーツにネクタイにしゅっとしたトレンチ着てていつもは、もっとラフっていうかビジネスカジュアルって感じだけど今日は外注先に行く用事があるからって言ったから朝、駅までいっしょかと思ったけど俺、下りの列車ちょっとギリだからごめん先急ぐねって俺と横田を残してさっさと行っちゃった。朝六時台の、歩いてる人も車もまだまばらな、住宅街を白い息吐きながら歩くなんて、久しぶりで変な感じがした。
 あの人さあ高卒で就職ってヤバくない工場とか、建設現場とかで働いてるのって横田が聞くからうーんと、コウミツって会社らしいんだけどって言ったらえーっ大手じゃんすげえコンシューマー向け製品じゃないから普通の人あんま知らないけど計測器で大手だよって横田が急にコンシューマーとか言い出して腹が立ってきてめちゃくちゃ、リョータって頭いいんだよって言ったらなんで、大学行かなかったんだろって横田が言うから二年前のこと思い出してた。もうこれ以上学校で勉強したくないし、社会でやってみたいって言ったけど母さんも、おばあちゃんもおじさんおばさんも、父さんも、自分が養子だから遠慮したんだって今でも思ってて、俺はでもよくわからない、リョータに直接聞いたこともないし。俺が進学してリョータが就職してから前みたいにあんまり会ってないし。
 就職するって言い始めたとき大人ら全員すごく怒ってるみたいに大学に絶対行けって言ったけどリョータは、困ったみたいな顔して遠慮してるとかほんとにそんなんじゃないんだけどなって全然折れずにほんとに就職した。大人らにしたら罪悪感の裏がえしで怒ってる。母さんにしてみたらリョータは、実の息子なのに、そうじゃない俺だけ進学させて悪い母親って思ってるし、父さんは本当ならリョータを引き取って息子になってたかもしれない子供なわけで、自分の息子だけえこひいきしたみたいな形になってるし、おじさんおばさんは自分達がわがまま言って引き取った子供なのに大学に行かせられなかったってメンツが立たないし、みんなリョータに復讐されたって感じしてた。そういう空気もあって俺もなんとなくリョータのこと敬遠してたみたいなとこもあるかも。やっぱ頭よかったリョータが就職して、頭わるい俺が進学したって変な感じするし。
 あのあとリョータから連絡きてめし行ってリョータが、会社のこととかいろいろ話してくれてそれ聞いてたらほんとに仕事が充実してる感じだから別に、リョータはほんとに進学したくなかっただけかもしれないと思ってリョータは、もう働いてるのに自分がこんななんとなく大学通ってレポートとかサークルが忙しいみたいなこと言ってるのなんなんだろみたいな気がした。こっちから誘ったんだしそれに、今月はボーナス入ったしって言ってリョータがめし代を払った。


 置いてあったPS3でトラと桃鉄をやってた。ボンビーがついて邪魔されると
「あー」
と言ってくすくす笑う。もともと大声で話したり大笑いしたりするタイプじゃなかった。せっかく集めた物件とかカードとか勝手に捨てられたりすると、ちょっと本気でイラッとしてしまう自分とは大違いだなと思った。なんでこんな穏やかでいられるんだろ? 画面を見つめて特急カードを使うかどうか迷ってるトラを、斜め後ろから見てた。スウェットの襟から伸びたうなじと短く刈り上げた襟足の、案外しっかりした首筋を見ながら、そうそう、細い割にけっこう筋肉しっかりしてんだよなと思った。ふわふわしたパーマの茶髪がちょうどトラの性格と似合ってると思った。
 就職するときにもうほとんどゲームなんかやらなくなってたから家に置いてきた。年末から元日まで久屋の方の家にいて、元日から二日は峰口の方の家にいる予定にしたら、トラも同じ日程で合わせることになった。去年は結局、大晦日と元日だけ帰ってすぐ会社の借り上げ寮に戻ったんだった。まだ就職して一年も経ってなかったし、進学せずに就職したことでまだ何となく家というか親たちも変な感じだった気がして居づらかったけど、今年は父さんも母さんもばあちゃんも、どことなく帰ってきてほしいような雰囲気だったから。どうせ寮にいても一人だし暇だし。
「俺エレキギターの音ってちゃんと聞いたことなかったわ」
「そうなんだ。これ、この前の追い出しライブでやったやつ」
 トラの演奏は思ってたよりずっと上手かった。桃鉄にも飽きて、トラがギターを出して弾いてた。アンプにつなげずに小さな音だったけれど、キュイキュイ鳴ってけっこう気持ちいい音なんだなと思った。
 高校から始めたって聞いてたけど、四年くらい前に自分とこの高校の学祭で見た同級生のライブなんて、なんだこれってくらい下手くそだったからトラもそんなもんだと勝手に思ってた。
「あーもうぜんぜん覚えてないや。ライブ終わっちゃうとすぐ次の曲の練習しないといけないから忘れちゃうんだよね」
 もともと全然知らない曲だったから気にならなかった。トラの中で出てきたフレーズをあてもなく弾いてるみたいだった。
「ここがねー。このリフがちょうかっこいいんだよ。めちゃくちゃかっこよくてライブで本人が弾いてるの見ちゃうともう泣けるくらいかっこいいんだけど、難しくて、ほんと自分とか全然だなっていやんなるよ」
 謙遜しているというより本気でそう思ってるみたいにそう言ったけど、素人の自分が見るとすごく上手かった。トラの、長くてやや骨ばった指がすばやくコードを押さえてくのを見てた。
「その弦がキュイキュイ鳴るのかっこいいな」と言ったらトラは、んふふーみたいな笑い方して、
「俺も好き」と嬉しそうに言った。
「年明けにね、またライブがあるから冬休み中も練習しないと。俺だけできないとみんなにも迷惑かけちゃうし」
 色んなバンドの曲をやると言って床に散らかしたスコアを手に取って見てみたけどどれ一つとして名前を知らなかった。トラの言う「みんな」っていうのがどんな人たちなのかも全然知らない。この前うちに泊まっていった「サークルの友達」なのかどうかも知らない。
「そうやって色んなバンドのコピーとかやるじゃん。で、そのフレーズ、リフ? とかどんどん覚えてったり、コード進行とか覚えてったりするじゃん。たくさんバンドのライブに行ってかっこいいなとか思ったりするでしょ。そしたらさ、こうしたらもっといいかもとか、こういうのが聞きたいなとか思ってきて、自然と自分でも曲作ってみたいとかってこと、ないの?」
「んーそういうのはあんまないかなあ。好きなバンドの好きな曲を演奏できて楽しいって感じで。サークル自体もオリジナルはやらないとこだし」


 めちゃくちゃ腹一杯で階段のぼって俺の部屋むかう途中で上から、リョータが振り返って「多すぎだろ」って言ったから二人して、ゲラゲラ笑ったのはもう年末からずっと久屋の方でも、めちゃくちゃ豪華なめしだったのにこっちの家も、めちゃくちゃ豪華なめしが出てきてぜんぜん、食べきれない量が出てきたから。そりゃそうだよだって、久屋のおばさんにとっても母さんにとってもリョータは自分の子供なわけだしぜんぜん、リョータもふだん会社の寮にいて帰ってこないし去年も大晦日と元日しかいなくてすぐ寮に戻ったし。「あり得ないでしょあんな量」ってうれしそうな顔で言うからほっとしたってとこあってやっぱ、大人たちみんな大学行けって言ってたの無視して就職したからなんか、ぎくしゃくしてたのかと思ってたし。
 元旦だし年始の挨拶ってことで今朝は、父さんも母さんも久屋の方にきて昼過ぎにリョータも一緒に車でこっちの家に帰ってきたその、車の中で峰口のお父さんなんかテンション高くなかった? ってリョータに言われてそういえばそうだったかもしれない。なんか今日父さんの車乗ってたらはじめて、峰口のお父さんが運転する車乗ったとき変な感じしたの急に思い出したってことリョータが話してた。こっちはだいぶ早く離婚してて自分の遺伝上の父親って知らないから父親の、車に乗るって経験なかったしそれでって。そういえばリョータあの日帰り妙に静かだったもんね、それまでは初対面なのにめちゃめちゃ俺としゃべってたのにって言ったらリョータはぜんぜん覚えてないって言った。
 小五のときはじめて俺と会ったときのことぜんぜん、覚えてないってリョータが言うからおかしくて笑ってた。俺の方はめちゃくちゃ緊張しててだって、これから母親になるかもって人と兄弟になるかもって人に会うとか言われて緊張しない方が変だと思うのに親たちが、ドリンク取りに行って二人きりになってちょう気まずいじゃんって思ったらいきなりそいつがねえそっち行っていーい? って。自分のとなりに来たと思ったら急にDS出してゲームとかするのって聞いてきてこれ、やったことあるって言い出したのがテトリスで急にやりはじめたと思ったらこっち渡してきて遊ばせてもらったってこと。ぜんぜんリョータは覚えてないけどテトリスにはまってたのは覚えてるとか言うからおかしくてめちゃめちゃ笑ってた。「トラのことはなんか最初っから友達だったって記憶しかないんだよ。」そのあと、峰口君って呼ぶのもさあ、だってたぶんこの後俺も『峰口君』になるわけじゃん、そしたら虎彦君? だっけ? って呼ぶの? でも呼びづらいしトラでもいーい? 俺のことは『亮太さん』でいいよ、とか言い出してそれずるくない? って俺が笑ったらリョータも笑ってそれからリョータ、トラって呼ぶようになったんだったってこと思い出して、笑ってたけどそれもリョータはたぶん、忘れてる。
 結局リョータは兄弟に、ならずにおじさんとおばさんの養子になったからいとこになったけどその頃の大人たちとのやり取りの方ばっかりリョータは覚えててそれで、俺とは最初っから友達ってことになってるみたいだって。子供の自分よりおじさんおばさんや母さんの方が緊張しててもちろんいつだってお母さんにも会えるしもし嫌になったら峰口さんちの方へ移ってもいいのだしおばさんもおじさんも子供もいないしお母さんが亮太のお父さんと離婚してこっちに戻ってきてから亮太と一緒に暮らしたこと自分の子みたいで本当にうれしかったしもし、このまま一緒にってすごく顔こわばらせておばさんが言ってたのとか、峰口のお父さんが虎彦と、全く同じくらいに君のことは自分の子供だと思ってるからこれからは、亮太君じゃなくて亮太って呼ぶよって言ってくれたときもなんか緊張しててリョータは、学校変わるのも名字変わるのもちょっといやだなと思ってそのときオッケーしたけどでも、そのあとも時々もし、あのとき峰口の子になってれば俺と兄弟になってたんだよなとか同い年の、兄弟ってことは双子になるのかなとかでも、そのまま完全に他人のままだったってこともあったんだよなとか思ってたってこと俺の、ベッドの上でごろごろしながら話しててリョータのそういうのはじめて聞いたなと思った。
 こうやって両親が二組いるっていうの悪くないなって今だと思うよでも、めちゃめちゃ飯が出てくるけどってリョータが言った。二人でけらけら笑ったけど俺にとっては両親とおじさんおばさんでしかないんだよなと思った。午前二時だった。


 歯磨きしながらもう一本の歯ブラシを見てた。もともと俺が着てたジャージはトラ専用みたいになってるし、コーヒー入れるマグカップも使い分けが定着してきたし、俺のiTunesはトラがせっせとCDを持ってきては入れていったバンドの曲を今も流してる。
 そろそろ遅いから、と思って部屋をのぞいたタイミングでトラがちょうど音楽を消した。目があったトラがにやっと笑って親指を立ててきた。
 土曜の夜に合鍵で勝手に入ってくる。日曜に部屋でだらだら過ごして夜に外で飯食ってそのまま帰ってく。完全にパターンになってる。
「これ俺のホームステイ」
「なんかそれ意味ちがくない?」
「じゃあなんだろ。疎開?」
「もっとちがくない?」
「まあとにかくリョータんちが一番落ちつくってこと。あと大学から近いし」
 トラはギター練習したり俺のパソコンで学校の課題やったりLINEとかツイッターとかしたりテレビみたりして、俺はベッドで寝転がってネット見たり漫画や本読んだりして、それぞれ勝手に過ごしてるのが半分で、もう半分は冬のボーナスで買ったPS4とStar Warsバトルフロントで遊んでる。最初のころはトラもやってたけど「むずい」と言って俺がプレイしてる横で見てる。たまに気が向いてちょっと借りてプレイしてる。トラはベッドに横になって布団にくるまって画面の推移に合わせて間投詞と効果音をずっとしゃべってる。「うおっ」とか「どーん」とか勝手に言ってる。俺がベッドでネット見てて面白いの見つけて呼ぶと上から「どーん」とか言って子供みたいにのしかかって肩越しにスマホを覗いてくる。
 なんか別にそれだけなんだけど、俺の生活がすげえうるおってるって感じがする。大学行かずに就職してから高校の友達とも全然会ってないし、職場には同世代もいないし、高卒の同期もほとんどいないし、よく考えたら友達づきあいがなくなってた。こうやって家に一緒にいて楽しいやつがなんとなくいるってだけでこんないい感じなんだなってことはじめて知った。
「そういえばトラって彼女とかいないの。学校とかサークルとか……」
「いたけど別れちゃった。一年の秋に先輩から告られて付き合ってたけど夏ごろフラれちゃった。なんか私のことほんとは好きじゃないでしょって言ってその人浮気してた。ってかリョータは? 高校のころからのとか会社の人とか」
「いないよ! 仕事でもほとんど女の人いないし、いてももう自分の母親くらいのおばさん……なんかね、職場の人がさ、『おばさんじゃない、おねえさんって言わなきゃだめ』って言ってくるんだよね」
 2月になって「ごめん俺あんま金なくて」ってトラがマフラーをくれた。トラから誕生日プレゼントもらうなんて中学生以来だなと思った。
「ってかついにリョータも二十歳だねー。今度どっか飲みいこうよ」
 あっ俺トラの誕生日なんもしてないって一瞬焦ったけど、去年の十一月なんてまだトラと疎遠だったんだよなと思って、半年もたってないのに自分の生活にこんな風に友達っていうか家族みたいのがいてすごく楽しいっていうの、全然想像もしてなかった。


 リョータが自己紹介して女の子たちが、顔見合わせて「は?」みたいな表情したときリョータの顔をつい、見ちゃったけど見なきゃよかったってあんな風に、ひきつった笑顔してなんか言おうとしてなんにも、言えずにいるずっと俺なんかより頭よくてしっかりしてる人がそんな状態になる瞬間を見て一生、忘れるってことないと思った。それであっちのメンバー集めた女の子が俺の、顔見てなんで、大学生つれてこないんだよって目をしたの、リョータもぜったい知ってる。
 君らコウミツって知らないかもしんないけどすげえメーカーなんだってリョータさんさあ、高卒で入るとかすげえエリートなんだってボーナスもあるし俺らより、ぜんぜん。横田がそう言ってフォローしてそのあと合コンの、あいだほとんど女の子たち無視して横田はリョータに仕事のこととか趣味とか聞きまくっててリョータは、さすがに合コンなのに女の子としゃべろうとしないってこと最初は気にしてたけど途中からもう横田としゃべることにしたらしくて俺と、渡辺が向こう四人の相手してたけど二人はもう、完全に怒っちゃってて一人はぜんぜん気にしない感じでバンド好きの子で声が大きくてめちゃめちゃよく笑う子でそのときぜんぜんしゃべってなかった横田と一ヶ月後に付き合うことになって一人は、俺がリョータんとこ毎週泊まってるって話したらそのこといろいろ聞きたがって話したらキャーキャーゆって喜んでくれた。
 なんか俺のせいでごめん変な空気なったっぽいってリョータが言ってなんて答えていいかわかんなかったから黙っててまた、合コンとかの話があったから何回か誘ったけどこなかったから誘わなくなった。仕事で元請けの人から俺のことこの前、しっかりしてるって問題とかあってもすぐ連絡くれるしうらやましいって言われたって課長が、あとで教えてくれてやっぱ、そういうこと社外の人に認めてもらえるとかってこと嬉しいっていう話を急にリョータが言って母さんにそのこと伝えたら母さんは、ドン引きするくらい喜んでてなんか、ちょっと、自分が責められてるみたいな感じがした。
 母さんはリョータがそういう仕事のことを自分から、ぜんぜん言ってくれないからもし、他にもあれば教えてくれっていうけど別に俺は、リョータと母さんの連絡帳じゃないし。
 仕事のことで自慢したのは合コンで女子に、ばかにされたみたいな感じになったことともしかすると、関係あるのかもしれない。


 なにこのアイコン、と思った。フェス行ったときの友達三人の写真っぽいけど真ん中じゃなくて右端がトラで、これじゃアカウントの主だってわかんないじゃん。ライブ楽しみーとか授業だるーとか意味のないつぶやきが少しと、友達とのやり取りがたくさんで、その友達はほとんど鍵つきアカウントだからどんなやり取りしてるのかはあまりわからない。どんな関係かもわからないけど、かなり仲良くしてるっぽい女の子はいるみたいだ。フェースブックはほんとにときどき写真が更新されるくらいだ。
 あれ、今週は来ないのかってことが続いてこの一ヶ月は一回しかトラは来ていない。来ないなら来ないって連絡がほしい、こっちの予定だって立たないし。それで次の土曜は来るのかってラインしたら既読のままぜんぜん返事がない。
「えーと、こっちも予定たたないから連絡ほしいんだけど、、、」
 ずーっとトラのタイムラインをさかのぼって先週、先々週のそのころトラがなにしてたのか見て、トラの友達で鍵つきじゃない人がトラの写ってる飲み会の写真をアップしてるのを見つけて、ああ、そっちを優先したのかと思って、なにやってんだろこれ。俺。なんだこれ。なんでこんな、人のこと女々しく気にしたりしてバカみたいだ。もう嫌だ。結婚したい。結婚して子供できてふつうの家族つくってSNSですげえ充実してますみたいな写真載せたい。
「今週は行けたら行こうかな」
 ギター持ってくのめんどいからってトラがうちに置いてった練習用のやつ眺めながら邪魔だなと思った。だって来ないんなら単に俺の部屋が狭くなるだけで俺が損じゃんか。ごめんこれ持ってかえってほしいんだけどって言われてえっと、ここ置かせてもらえるとリョータんちきたとき練習できてすごく助かるんだけどだめかなっていうか、トラだって来ないじゃん最近なんか、だんだん俺の部屋っていうよりトラと共同の部屋みたいになってきてるけどこれはちょっと、違うんじゃないかってってリョータが、不機嫌っぽかったからこの前の合コンのことまだ怒ってるのかなと思ってとにかく、ごめんっていった。
「なにが?」
「なにがって、リョータがなんか不機嫌だから謝ってるんだけど……」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど」
 そういうつもりじゃない。ぜんぜん違う。なんでこうなっちゃうんだろう。せっかく久しぶりに遊びに来てくれたんだから楽しくやろうと思ってたのにこうなる。でも、ずるくないか? 不公平じゃないか? こっちばっかりあれこれ気にしたり便宜はかってるのに相手が何とも思ってないとか。
「でもそんなの、リョータが勝手にそう思ってるだけじゃんか」
 勝手にっていうかもともと、トラがうち来るっていうから予定あけたり、なるべく過ごしやすくしたりしてるんだろこれ。そんでこっちも予定立てたいから連絡してって言ってるのに連絡はくれないし、
「だって俺だってほかの友達との都合もあるからそんな前々から決めらんないよ」
 だからさあ、それだとこっちは来るか来ないかわかんないから予定開けといてさ、当日になったらそっちは友達とライブとか行ってるわけでしょ、なにそれ
「そんなのストーカーじゃん」
 リョータがきつく目をつむってしばらく苦しそうに、黙ったあと「そうかもね」って言った。どうしてこんなこと言っちゃったんだろって自分で思ったけどもうどうしようもなくて黙ってたらリョータが、もうほんとしんどいんだよいや、自分の方の問題だってわかってるけど、なんかもうトラのことばっかり考えてるみたいになっちゃってほんとしんどいしともかく、もう会うの当たり前って状態やめて前みたいに戻さないとだめだ。こういうこと話しながらこれ、トラの方は何とも思ってないんだよなとか思うと自分がみじめな気がしてしんどかった。うちに遊びに来るのは月一くらいにすること、来る予定は少なくとも一週間前には決めること、合鍵は返してもらってギターも持って帰ること、そんな提案をした。
「うん」
とうつむいて神妙そうな顔でトラが了承した。二十三時だった。そんな顔をしてほしいわけじゃない。もう一度ちゃんと友人としての距離を取り直そうってだけの話だからもっと、普通に事務的に返事してほしかったのに。
「えーと、で、……今夜泊まる?」
「いや、今日は帰る」
 でももう結構遅いし、泊まってっても別にいいよ、うん、でも、今日は帰るね。そっか。
 紐を結ぶのが面倒な靴を玄関で、履いているしゃがんだトラの頭を部屋着のリョータが見下ろしていた。その頭越しに体と腕を伸ばしてリョータは玄関の、鍵を開けてやったのに気づかずにトラが立ち上がりかけて体が、触れそうになった。リョータが怯えたように身を引いたから二人のからだも服も触れることなく避けていった。
「じゃあ、また」ってドアを開けたらもう、春の夜で生ぬるい、空気が部屋に流れ込んできた。

王将のマナー

 餃子の王将ではおばちゃん(ほとんどおばあさん)の店員が、カウンターに座るサラリーマンたちの背中を木の棒で叩いていた。早く食べて出ていけという意味だ。新しい客がなにか注文すると、フロアの女が「淫乱ガーゴイルー!」と厨房に向かって叫ぶ。厨房からは「淫乱ガーゴイルー!」と叫びが返ってくる。そうすると餃子が出てくる。なるほど、餃子のことを「淫乱ガーゴイル」という隠語で呼んでいるようだ。
 餃子は必ず全員に一皿くる。しかしその他、天津飯やラーメン、炒飯、ニラレバの何が出てくるかは完全にランダムだ。出てくるだけありがたいと思え。おばあさんの店員に棒で叩かれたサラリーマンが「いま食べとるやろうが!」と振り向いて怒った。おばあさんの店員は「ぎゃっ」と言ってぽろぽろ泣き出した。かわいそうだ。両脇のサラリーマンが、そのサラリーマンの頭をがっと掴んで、いきなりラーメンの丼にぼちゃっと顔をつっこんだ。しばらくサラリーマンはじたばたして、もがもが言っていたが静かになってぐったりした。死んだのだ。おばあさんの店員は元気を取り戻して、カウンターのサラリーマンたちの背中をまた木の棒で叩き始めた。死んだ客は厨房に引き取られて、餃子の具になる。当たり前だ。そうやって食材になれば、無銭飲食の罪に問われることもないし、遺族も莫大な賠償金を払わされることもなく、うれしい。
 食べ物が出てきたら1分以内に食べきらないとおばあさんがめちゃくちゃ怒ってくる。食べ物が出てきた直後から棒で叩き始めるけど、1分がたつと耳元で「ウオーッ!」っと叫んでくる。怒ってるのだ。店の回転率は客が支えないといけないから。食べ物がまだ届いていない客は、食べている客を応援しないといけない。手拍子をして、冬は広瀬香美の「promise」をみんなで歌う。合間合間で、おばあさんが人間を棒で叩く音と「ウオーッ!」という怒りの声が入る。ゲッダン(ウオーッ)揺れる廻る振れる(ドンッ)切ない気持ち(ドンドンッ) そんな感じだ。
 夏は店内の温度が6000℃を超えるので人間が生きていけない。店の前に募金箱があるため、客は食べたつもりでそこに金を入れて帰る。地球温暖化の影響だ。昔は店内も400℃くらいだったからチューブを歌っていた。


 ここまではカウンター席の話だ。テーブル席はもっと優雅で、叶姉妹や皇族が座っている。「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と店員が呼び交わして出てきた餃子も、ミリ単位でゆっくり食べていく。だいたい半年かかる。だから、住み込みで食べてる。いつも10月くらいにきて、翌年の3月に帰っていく。おばあさんは時々、棒で叩きたそうな目で見てくるが、そういうときはかわりにカウンターのサラリーマンをめちゃくちゃ叩く。スーツもシャツも破れて背中が血だらけになるけれど、餃子の王将に来るのが悪いんだからしょうがない。
 叶姉妹はときどき、パエリヤとかを食べてる。デリバリーを注文して王将に届けさせている。あと全裸のメンズを駒に見立てて、チェスをしたりしている。テレビ出演があるときは、プロジェクションマッピングで、餃子を食べる叶姉妹の映像を壁に映している。最近はテレビも少ないので王将にだいたいいる。
 美容にいいから、炒飯をスムージーにして飲んでる。餃子も、パリコレに出てきた新作じゃないと食べない。カウンターの席のサラリーマンたちは、有史以前からある土から掘り出してきた餃子を食べてる。産業資本主義が進み、格差社会となった、その縮図である。


 そういうわけで、ベビーカーとかを入れるスペースは王将にはないので、家族連れは赤ちゃんを入れたベビーカーを店の外に置いて食べる。赤ちゃんを連れて入っても、おばあさんに棒で叩かれてすぐ死ぬから、意味がない。だけどベビーカーを店の外に置いておくとすぐに赤ちゃんは盗まれて外国に売られてしまう。王将がある地域というのは治安が悪いからだ。川崎駅の店舗などは、店の中におじさんが入ってきて勝手に人の餃子を食べたりしてくる。しかし、盗まれる赤ちゃんが悪い。自分の身は自分で守らないといけない。ちゃんと自分の両足で大地を踏みしめて、入店して、棒で叩かれながらも餃子を食べきる。そういう赤ちゃんでなければ、生きている資格がない。
 ここまで「木の棒」と言っているけれど、おばあさんのコンディションや種類によっては、最初から包丁で客を刺し殺してくる。そういう場合はジャケットの下に雑誌を仕込んでおくとか事前準備が必要だ。


 店の奥から淫乱ガーゴイルが出てきた。石の悪魔、ガーゴイル。餃子1皿の隠語が「淫乱ガーゴイル」だと思われていたが、たんに料理の名前だったようだ。淫乱なのに、相手がいなくて切なそうに、狂おしそうに、身をよじらせている。オスのガーゴイルだ。股間から立派な一物が屹立している。
「御覧なさいな美香さん。すごいじゃないの。」
「そうですわね。」
 叶姉妹が喜んでいる。皇族の方々はしずしずと箸をはこんでいる。一番奥にいたサラリーマンがガーゴイルに食われた。この場合、どうなるのだろうか。法的には? 客が料理に食われた場合、支払いはどうなるのか。かといって客が抵抗すれば、それは鳥獣保護法違反で厳しく罰せられる。ただなすすべもなく食われるしかないのだろうか。生活笑百科に取り上げていただき、四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ。
 しかしこの淫乱ガーゴイルの欲望を、いったい誰が満たすのだろうか。おばあさんがガーゴイルの股間の棒を、木の棒でめちゃくちゃに叩き始めた。「ウオーッ!」「ウオーッ!」おばあさんかガーゴイルか、どっちの叫び声かわからない。サラリーマンたちが「promise」をみんなで合唱した。厨房とフロアで店員たちが「淫乱ガーゴイルー!」「淫乱ガーゴイルー!」と呼びかけあっている。店内には餃子の焼ける匂い、音。叶姉妹が手を叩いて笑っている。皇族がほぼ静止しているようにしか見えないスピードで餃子を食べている。「ウオーーーッ!!」ガーゴイルとおばあさんが吠えた。ガーゴイルの棒の先端から液がだらだらと漏れ出した。そう。本来ガーゴイルは、西欧の建築における雨樋の装飾であった。その口から雨水を放出するのだ。だからこれは、ある意味で正しい。淫乱ガーゴイルは店の奥へ帰っていった。


 都会の駅近の店舗はおよそこんな雰囲気だが、地方の郊外店舗になるとまた話はがらっと変わる。ブレーキとアクセルを間違えた老人が大量に店につっこんでくるため、郊外型店舗はことごとく壊滅した。今は、より頑丈な、牢獄のようなバーミヤンにかわってしまった。これもまた、時代の流れである。