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創作のブログです。

ペアレント-ティーチャー・アソシエーション

 4月になったら、早く4月になってくれたらもう、沢木さんとはただの他人になるんだってことがこんなに待ち遠しくて頭が、おかしくなりそうだ。こんなに会いたいって思うなら二度と、会うことはないって僕でも沢木さんでもない何かがいっそ勝手に決めてくれたらいい。早く楽にしてくれればいいのに。


 立ち止まらなければよかった。
「橋之上先生、今お帰りですか」
 4月なのにあんまり寒くてジャージの、ポケットに手をつっこんで教職員用の玄関を出て駐車場に向かうときにそう、名前を呼ばれたんだった。スーツの上に軽そうな起毛のコートをきれいに羽織ってその上の、大人っぽい顔がうれしそうに笑ってた。嫌いだったんだ。沢木くんのお父さんのことを、嫌いだった。


 みんなうつむいてたぶん全員僕より年上の、大人たちがいつもは子供たちが座ってる教室の席に座っていて時間が、僕だけを残して縮んでみんながそのまんま大人になったみたいだと思った。
「PTAの役員が決まらないと帰れません、どなたかお願いできませんか」
 死にそうなくらいゆっくり過ぎた1時間半の中でおなじことを言った8回目にあの、余裕っぽい顔がうれしそうな目がこっちを見てた。沢木くんの席に座っているからその人が沢木くんの、お父さんだってことはすぐにわかったけどこんなに、苦しい空気なのに笑ったりして僕は馬鹿にされてる気がした。


 もっちゃんは会ったこともない、沢木くんのお父さんの肩をいつも持つ。
「そのお父さんはたぶん、はっしーのこと助けてくれたんだと思うよ」
 会ったこともないくせに。
 もっちゃんは頭がいいし学生のころ、先輩だったって気持ちがまだそのまま残ってて僕らの、ふたりの関係性がかたまったままになってる。僕をどこかベースのところで見下してる。小柄でやわらかい表情でからだも、抱きしめればやわらかいのに僕が、彼氏として頼りないから彼女が、しっかりしちゃうんだろうか。ほんとは年下でも男なんだしもっと、僕に甘えたいとか思ってるんだろうか。


 23歳ですって答えたら視線を、ふっと外して沢木くんのお父さんは今思い出しているって顔で言った。
「23だった頃の自分と比べると、橋之上先生はずっとしっかりしててすごいですよ。自分の職場に先生みたいな人がいてくれたらいいだろうなあって」
 どこに住んでるのかとかそんな、当たりさわりのない話をして教職員用の駐車場までいっしょに歩いて別れた。
「あの、送りましょうか」
「いえ、うちはすぐそこですから。ありがとうございます」
 車に乗りこんでエンジンかけてハンドルを、両手で握ってぐっと腕を突っ張って顔がいっきに熱くなるのを感じた。大人になってから誰かにそんな風にほめられたことなんて、なかった。


 制服の、詰め襟のホックをいつもしめてるほど真面目じゃないし第一ボタンをいつも開けているほど不真面目じゃない、テストの点数は5教科で400点を下らなくて運動もふつうにできる、怒っているところを見たことがないし誰とでもそれなりに話を合わせて楽しそうに笑ってる、目立たないふつうの生徒。そういう沢木くんが西山さんのななめ後ろでおだやかな顔して立ってた。
「先生、校外学習の予定表です」
 西山さんが手書きの予定表を渡してくれて沢木くんは、あくまで自分は副委員だからというような控えめな態度で黙っていた。
 いちど決まりかけた校外学習の行き先を寺内くんたち3人が急に反対してほかの子が、わがままじゃないかって苛立って学活の雰囲気が悪くなりかけたのに、次の回であっさり寺内くんたちは元の行先で納得してすんなり決まった。
 荒れるのがこわかったから本当にほっとした。


 でも、と今までずっと黙ってた一番うしろの席の香坂さんのお母さんが口を開いてみんなが振り向いた。
「でも先生は先生なんですから、受験もあることですし、しっかりしてもらわないと困りますけど」
と言った。お母さんたちはうんうんうなずいて僕は、たまらないくらい怒りで顔が熱くなった。
 そんなこと僕がいちばんわかってる。
 クラス委員にさっき選ばれたばかりの沢木くんのお父さんが僕が、新卒2年目ではじめての学級担任だってことをわざわざ言ってみんなが、笑ってそれで香坂さんのお母さんが釘を刺してきた。なんなんだよこの人わざわざ、自分からPTAの役員になるとかたぶん、めんどくさい人なんだろうなと思ったけれど本当に、嫌な感じしかしなかった。
「ええ、うちの子もまだ高校受験のこと全然考えてないみたいだし、私もよく分からないからすごく不安です。学年主任の先生や学校全体でサポートする体制になってるのか、チェックしないといけないですね」


 あかりの、いちばん小さいオレンジ色の電気だけをつけた部屋のベッドの中でもっちゃんのきめの、こまかい肌に口をつけて体を背中から抱きしめて動物の熱をはっきり、感じながら急にはじめてのときを思い出して先輩で、いつも自分より上だと思ってた人がただの、女の人になって僕をただの、男の人って扱って立場が逆転したみたいなへんな感じがしてうれしかったってことを思い出してた。小柄でやわらかい表情でからだも、抱きしめればやわらかくて声が、ほとんど息だけになって熱かった。
 もっちゃんが僕にぜんぶ預けて甘えてくれるみたいに僕が、誰かにぜんぶ預けて甘えられたらどんな気分なんだろう僕を、ぜんぶ肯定してくれたらどんな、満たされ方になるんだろうと思ったときに沢木さんの顔を思い出してた。


 ソファなんてないからベッドの端にあさく腰かけてた沢木さんと目が、台所でインスタントコーヒーをいれながら部屋の方に振りかえった瞬間にあって沢木さんはすかさず、にっこり笑った。その笑顔が沢木くんとそっくりだったのが親子だから当たり前なのになんか、びっくりした。
「橋之上くんとこ、部屋ちゃんと片付けててすごいな」
と沢木さんは言ったけれど沢木さんが来るから片付けて掃除しただけだ。
「橋之上くんの部屋にいると自分が大学生だった頃、友だちの家に遊びにいってた気分を思い出して、急に時間が巻き戻ったような変な感じがするな」
と笑ってほんとにくつろいでくれてるみたいだった。
 沢木さんは自分の老いについて話をしていて見た目が、わりと若い気がするからあんまり考えたことがなかったけれど41歳で僕より、20歳ちかく年上なんだなってことをぼんやり考えてた。


 はじめての保護者会の翌朝に目が覚めると全身びっしょり汗かいててそっか、僕あれすごく緊張してたんだなと思った。自分より全員年上の保護者の前に立って、でも自分は先生なんだからって気を張ってたんだ。結局クラス委員になった沢木くんのお父さんとこれから1年も付き合っていくのかと思うとしんどいと思った。自分から仕切りたがるタイプの人、しかも人を平気で人前で馬鹿にしてくるような人。
 学年主任や他の先生は僕を助けてくれない。なんでも相談してねって言っても何をどう相談してもいいかわかんないしみんなすごく忙しそうにしてる。もっちゃんはアドバイスをくれるけれどなんか自分がバカみたいに思えてくるのが気が重くてあまり仕事の話はしない。親はすぐ、だから学校の先生なんてやめとけって言ったのにと非難してくるからぜんぜん、仕事の話なんてできない。
 なる前から僕だって何も知らなかったわけじゃない。
 学校の先生になる、それも中学校の先生になるってことが大変だなんて、ネットでもさんざん書き尽くされてる、親にも友人にも言われ尽くされてる。そんなことわかってたけど、それでも僕は、どうしてもなりたかったんだよ。学校の、中学校の先生になりたかったんだ。でも、辛かった。


 「橋之上先生」って声をかけられて顔を上げたらすぐそこの、職員室のドアからひょいっと沢木くんのお父さんが顔をのぞかせてた。今気づきましたみたいな態度を僕はとって、でもその日の朝からずっと放課後に今日はPTAの日だって意識しつづけててもう、授業が終わって職員室でなにも手につかない。
 隔週の、PTAの会の終わりにいつも絶対に沢木くんのお父さんはわざわざ職員室に寄ってきてくれる。近くの教室で30分くらいおしゃべりするだけ。ほとんど毎回僕が一方的にしゃべってるなって終わるたびに思うんだけど沢木くんのお父さんは、楽しそうに聞いてくれる。学校の話でも普段の生活の話でも彼女の話でもなんでも、いろいろ質問してきて僕のことをほんとに知りたいって感じで。
 そうやって特定の保護者と話しこんでるってことを3年の、ほかのクラスの先生や学年主任の先生は何にも言ってこないけど別の、学年の先生でよく思ってない人がいるらしいって人づてに聞いた。


 正直、女子生徒との距離の取り方がよくわからなくなる時があってみょうに、距離をつめてくるときがあって困る、そんな話をほんとに赤裸々に言えて、あとで家に帰って自分でびっくりした。前はぜんぶ自分でなんとかするのが当たり前と思ってたのに。それで実際、話してみたらおばちゃん先生が前の学校であった男先生と女生徒との関係の話をしてくれてすごく参考になったし気持ちが楽になった。
 夏休みに入るちょっと前に学年主任の大野先生が、3年の担任全員で毎週会議をしようって言い始めた。生徒同士の関係や状況や受験のこともあるし、お互い情報を共有してやっていこうってことだった。チームでやれば一人でやるよりずっと大きな力が出せるって。
 学年イベントの仕事もほかの先生が手伝ってくれたり、逆に自分に余裕があれば手伝ったり、いらない仕事は省略したりしてすごく楽になった。


「えっと、今度飲みに行きませんか」
「おっ、いいですね。……でも、先生と保護者で個人的に食事というのはやはり、まずくないですか」
「そう、ですよね……」
「じゃあ、先生と保護者じゃなくて、ただの友人ってことにしましょっか」
「えっ」
「なので……『橋之上先生』じゃなくて『橋之上くん』だね」
「あ、えーと……『沢木くんのお父さん』じゃなくて、沢木さん」
「そうそう!」
 そう言って沢木さんがいたずらっぽく笑って僕は、その日から二人のときは『橋之上くん』って呼ばれるようになって食事は、ちゃんと割り勘にした。


 久しぶりに外でご飯を食べたっていうのにもっちゃんは、何かすごく疲れてるみたいな顔をしていて嫌な感じだった。
 この前LINEで長々と文句を言ってきた。週末に来ないなら早く連絡しろ、こっちの予定をぎりぎりまであけてなきゃいけないじゃない、週末はうちに来るのが既定路線みたいになってるのに急にやめられるとしんどいと言われても、別にもともとそういう約束をしてたわけじゃないし、どうしてそんなことで怒るのか正直よくわかんないけど謝って、久しぶりに外でご飯を食べたっていうのにもっちゃんは、何かすごく疲れてるみたいな顔をしていて嫌な感じだった。
 夜遅くのファミレスはすいてた。
「そういえば『沢木くんのお父さん』じゃなくて、『沢木さん』って呼ぶようになったんだね」
ともっちゃんはすごくしんどそうに言った。
 生理って自分で体験したことがないからよくわからないけどホルモンバランスが、崩れるっていうし感情が落ち着かないのかもしれない。


 いちど決まりかけた秋の文化大会にやる合唱曲を三輪さんたち3人が急に反対してほかの子が、わがままじゃないかって苛立って学活の雰囲気が悪くなりかけたのに、次の回であっさり三輪さんたちは元の曲で納得してすんなり決まった。
 後期も学級委員になった西山さんと、副委員の野崎さん、音楽係の佐々木さんの女子3人が決まった曲の、楽譜をコピーしに放課後の職員室にやってきてそのまま、僕もいっしょに教室でコピーを綴じる作業を手伝った。
「曲、無事に決まってよかったね」
 僕がそう言ったら西山さんが「沢木くんがね」って意外な名前を出したから僕はやましいことを、親にでも隠してる子供みたいにびくっとしてしまった。
 沢木くんが三輪さんたち一人ずつに声をかけて、ちゃんと不満もなく納得してもらったんだって校外学習のときも、寺内くんたち一人ずつに声をかけてくれたんだって教えてくれて西山さんは、なんか、自分の犬の頭がいいことを自慢するみたいな顔をしてた。


 学年主任の大野先生は50手前のベテランでこの前管理職の試験も受かったっていうからそのうち教頭先生になるんだろうな。
 定例とかで学年のサポートしてくれたり管理職って、こういうことなのかなと初めてイメージが持てた気がしたけど大野先生は「沢木くんのお父さんね」って意外な名前を出したから僕はやましいことを、親にでも隠してる子供みたいにびくっとしてしまった。
 自分より年下なんだけどやっぱり、大企業で若くして課長になる人って違うんだなと思った、PTA活動でもほとんど反感も買わずにどんどんいらない仕事をやめて負担を軽くしていってるしこの定例だって、保護者のみんなが経験の浅い橋之上先生のこと心配してるし橋之上先生のがんばりをサポートしてあげてほしいって沢木くんのお父さんに、それとなく言われて始めたんだよね。


 がんばりを先生はちゃんと見てるよってこと、伝えてあげることが生徒のモチベーションになるって定例でとなりの、おばちゃん先生に言われて沢木くんに、校外学習や文化大会のこと見えないところですごく色々してくれて成功したし西山さんも感謝してたし先生も、とても助かってるんだって伝えた。
 沢木くんはいつもの、はにかんだみたいな笑顔じゃなくて友達に、見せるみたいなぴかぴかの笑顔でほんとにうれしそうにしてやっぱり言って、よかったなと思った瞬間に
「僕まえ父に、言われたんです」
って沢木さんの話が急に出て僕の、顔に驚いた様子が出てないか不安になったけれど沢木くんは、うれしそうなまま話をつづけた。
 父が橋之上先生は初めての学級担任で絶対大変だけど僕は、中学校3年目でもうプロの生徒(?)なんだから先生の、仕事が楽になるように工夫したりするチャレンジだって、してみていいと思うよって言われて、学校の話を父がよく聞きたがるから色々話してたらアドバイス色々くれてやってみたんですけどそれで、ほんとに先生が助かってるんだって聞いてうれしいっていうかえっと、父のことは尊敬は、してるって言えばしてますけどなんか、なんでも熱心なところがうっとうしいときはたまにあります(笑)


 急に沢木くんの席のお父さんが手を挙げてほかの、保護者たちがぎょっとして注目した。
「PTAの仕事の内容が具体的によくわからないので、教えてもらえると助かるのですが」
 うまく答えられなかった。保護者になめられたらいけない時期なのに恥をかかされたと思った。結局役員経験のあったお母さんがかわりに答えた。
「隔週水曜夜に集まるのがメインなんですね……それなら……私、やってみようかと思います」
 でしゃばりなだけじゃないか。最初からやりたいならそう言えばいいのに。クラス委員が決まって一気に他の役員も決まっていった。
「初めての学級担任ということですし、私たちでサポートできるところはしていきたいですね。……だって。ね。こんなかわいい顔した先生が、困ってたらみんな、助けたくなるじゃないですか?」
 お母さんたちが嬉しそうに声を上げて笑った。ものすごく腹が立って顔が熱くなった。
「でも先生は先生なんだから、受験もあることですし、しっかりしてもらわないと困りますけど」と香坂さんのお母さんが言った。
「ええ、うちの子もまだ高校受験のこと全然考えてないみたいだし、私もよく分からないからすごく不安です。学年主任の先生や学校全体でサポートする体制になってるのか、チェックしないといけないですね」
 もっちゃんは会ったこともない、沢木くんのお父さんの肩をいつも持つ。
「そのお父さんはたぶん、はっしーのこと助けてくれたんだと思うよ」
 会ったばかりの相手にそんなの変じゃんか。
「わかんないけど、もともと人の満足を考えるタイプなんじゃないかな」


 隙間に入り込まれちゃったんだ。僕の何もかもを沢木さんがあっという間に支えていった。
 ちがうちがう僕は、沢木さんの特別なんかじゃない自分の、子供の環境を良くしたくてあの人は僕を支えてくれただけなんだとかさいしょから、そういう風に人を管理するのが好きな人なだけなんだとかどれだけ否定したって、うちに遊びにきて笑ってくれたのが、一緒に飲みにいって「橋之上くん」って呼んでうれしそうに僕の肩に置いたあの手のことが、何回だって思い出されてそうだよ僕は、沢木さんの特別なんだよってどこまでも矛盾していく。
 また会ったらきっと証拠を、沢木さんのうえにいくつも発見して安心したり不安になったりをくり返す。そんなの意味ないってわかっていてただ苦しい。
 4月になったら、早く4月になってくれたらもう、沢木さんとはただの他人になるんだってことがこんなに待ち遠しくて頭が、おかしくなりそうだ。こんなに会いたいって思うなら二度と、会うことはないって僕でも沢木さんでもない何かがいっそ、勝手に決めてくれたらいい。早く楽にしてくれればいいのに。

堀川くんと俺

 朝5時に2階の窓から隣家の庭を見下ろしたら、10歳くらいの少年がこっちをじっと見上げていた。はっきり俺の目を見ていた。磯野家の子供ではなかった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。
 少年はまだ雨戸も開いていない家の縁の下へもぐりこんだ。15分ほどたってひどく汚れた体で出てきた。そして帰っていった。翌朝も同じだった。その次の日は来なかった。


 予備校の帰りに駅の階段から突き落とされた。
「堀川です」
 あの少年だった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。腰も背中もずきずきと痛んで息もできなかった。
「大丈夫ですか?」
 堀川くんは勝手にタクシーを呼んで俺を押し込め、家まで走らせた。着くなり親父を呼び出して金を払わせ、俺を2階の自室まで運ばせた。そして堀川くんは俺の部屋まで当然のようについてきた。
「ぼく、ワカメちゃんの同級生です。かもめ第三小学校の3年生です」
 堀川くんが親父にそう言うのを聞いた。親父は何度も礼を言っていた。
「甚六さんの部屋からだとワカメちゃんちがよく見えますね」
 しかし堀川くんは窓の外を見ていなかった。部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。歩いている間は頭はしっかり止まっていた。急に立ち止まって、ベッドに横になった俺を見下ろした。頭がぐらぐらゆれていた。無表情だった。
「じゃあ帰ります」
 その日から飼い犬のハチがいなくなった。近所の人も手伝って家族総出で探し回ったが結局見つからなかった。


「おじゃましてます」
と堀川くんは言った。勝手に俺の部屋にあがっていた。オレンジジュースが盆に乗って正座した膝の前に置かれていた。頭がぐらぐらしていた。俺を見上げていた。
「甚六さんはワカメちゃんのうちをよく見ますか」
「堀川くんはワカメちゃんのことが好きなの?」
 堀川くんは急に握りこぶしで床を打った。怒ったのかと思ったが無表情のままだった。やや斜視気味の目が、どこを見ているのかわからなかった。堀川くんはオレンジジュースの残り一口を飲み干して、なめらかに窓を開けてコップを外へ投げた。磯野家の瓦屋根にうち当たってコップが割れた。中からサザエさんとフネさんが慌ただしく縁側に出てきて屋根を見上げた。高い位置から見下ろすと人間というより人形が動いているように見えた。
「甚六さんは恋人がいますか」
 俺はポテトチップスを堀川くんに渡した。堀川くんは袋の口をわずかに開けて空気を逃がしたあと、ぺしゃんこになった袋を床に置き、握った両手で中身を砕き始めた。手の動きとは独立に頭が激しくゆれていた。それから右手を猫のように熱心に舐め始めた。唾液でまんべんなく濡れた手を袋に突っ込んで引き抜いた。手の表面にべっとりついたポテトチップスの粉末をまた丁寧に舐めとっていった。3回繰り返したあと、チップスの袋を折り畳んで短パンの尻ポケットに差し込んだ。
「残りは犬にあげます」


 堀川くんはそれから5日連続で来て、そのあと7日来なかった。
 予備校から帰るともう部屋にいた。家族は、知的好奇心の旺盛な小学生が、俺を兄のように熱心に慕っていると思っているようだった。堀川くんは部屋の中を歩きまわって、様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。人間の価値尺度で測ると、あまりに残酷だったり、不条理だったりするような話ばかりだった。ほとんどおとぎ話か、教訓のように聞こえた。ポテトチップスを買い置いていた。口の中でたっぷり5分もふやかしてから食べたり、形を全て分類してから食べたり、毎回作法が変わっていたが、いつも半分以上を残して持ち帰っていった。
 そして来なくなった。ポテトチップスが溜まっていった。毎朝窓から隣家の庭を眺めたがそこにも姿はなかった。見逃しているのかもしれないと疑って、予備校に通うのをやめて一日窓から見張るようにしたが現れなかった。7日後に玄関チャイムが鳴った。堀川くんはハチを連れていた。首輪とリードが変わっていた。そしてひどく肥っていた。歩いていたのを偶然見つけたという。ハチは旺盛な食欲がもとに戻らず肥り続けていった。
 その日、堀川くんにどんどんポテトチップスを食べさせて肥らせる夢を見た。すごく気に入って、眠る前にベッドの中でそのイメージを思い浮かべるのが習慣になった。


「カツオくんは、日記を書いているの」
「書かないですよ。書いてもいつも三日坊主なんです。ほら、ぼく、ほんとに坊主頭じゃないですか。夏休みの絵日記だって最終日にお父さんに書いてもらうんですよ」
 話しかけるとうれしそうに三倍くらい返してくれるのがカツオくんらしいなあと思った。そうしてひとしきりしゃべってから、どうしてそんなことを聞くのという視線を向けてほんの少し、不安げな顔をする。
「たまたま物置を整理していたら、子供の頃に書いていた日記が見つかってね。今の子も書いているのかなと思って」
「すいませんぼく、書いてないんです。でもワカメは書いてますよ。いつも寝る前にノートに書いて引き出しにしまってます」
 俺は物置の整理なんてしていないし、俺は子供の頃に日記なんて書いていない。
 磯野家から人がみんないなくなることはめったにない。サザエさんが夕飯の買い物に出て、フネさんとタラちゃんの2人になるのが日常での最小人数だ。門から子供部屋のある方へまわる。ここの窓の鍵はいつも開いている。カツオくんが大人の目を盗んで遊びに行くからだ。靴を脱いで音を立てないように部屋へ入る。学習机が2つ、窓を挟んで壁際に並んでいる。どちらがワカメちゃんのかは一目瞭然だ。脇の引き出しの1段目を開けると、もうそこに「にっき」と書かれたノートがあった。ざっと目を通すと、1日に2行ほどの文章で、ここ12ヶ月分の日記だった。それより古い物もないかと別の引き出しを探っていると、未就学児童に特有の、電子音に似た足音が近づいてきた。
 ノートの背をくわえ、廊下に面したふすまに素早く身をよせて、両手でふすまのへりを抑えた。電子音が止んだ。ふすまを開けようとする力が手に伝わってきた。
 タラちゃんは何度もふすまを開けようとした。間歇的に正確なリズムでふすまを開けようとしてくる。幼児とは思えない力で、腕を突っ張って全力で押し返さないと敗けてしまいそうだった。
「おばあちゃーぁん……カツオお兄ちゃんのお部屋があかないですーぅ……」
 電子音が遠ざかる。
 ワカメちゃんの引き出しを全て元に戻し、窓を乗り越え外へ出る。音を立てないように窓を閉めようとするが木枠がきしむ。閉めきった瞬間、奥でふすまが開く音を耳にする。
「そうかい? ふつうに開くようだけれど……」
 フネさんとタラちゃんのいぶかしむ声を、窓の下で、壁に身をよせて聞いた。


 両親も妹も出かけて一人だった。昼寝から目覚めたら夕方になっていた。堀川くんが部屋を歩きまわっていた。他人の家に断りもなく入るなんて言語道断だと思った。
「だめじゃないか、不法侵入だぞ! 子供だからって絶対に許されない!」
 記憶にないくらいの大声を出した。大きな声を出してみたら、怒っているという実感が増した。となりの波平さんもこんな気持ちなんだろうな。この際、平手で頬を思い切り張りたおしてみようと思った。堀川くんは部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。
「だまれごくつぶし!」
 歩きまわりながら、俺より大声をだした。それから様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。
「ワカメちゃんの日記を盗んだんだけど、読む?」
 ベッドの端に座って堀川くんは膝の上に置いたノートをぱらぱらとめくっていった。俺はその隣で堀川くんの手元を覗いていた。堀川くんは頭が激しく揺れ、いったいそれで物が読めるのだろうかと思った。堀川くんはときどきページを指でさした。日曜日の箇所だった。いつも日曜日は空欄だった。
「その日記には堀川くんのことはどこにも載ってないよ」
 覗き込むように横顔を見つめたけれど、堀川くんは無表情のままだった。気にしているのは、いつも空欄の日曜日だけだった。読み終わって返されたから、ワカメちゃんの日記はそのままゴミ箱に捨てた。部屋が暗くなってきていた。電灯のスイッチを入れようとしたら
「まだ、待ってもらえませんか」
と堀川くんは言った。頭が揺れていなかった。二人でベッドの端にとなりあって腰かけていた。あっという間に部屋が暗くなった。起きているのに部屋が暗いままでいるのは変だった。子供のころから付き合いがあるのに知らない顔を見せられた気がした。色がなくなって、カーテンをひいていない窓から入る外の光を元手にして、ものの輪郭が残っているだけだった。堀川くんは、黙っているし、歩きまわってもいないし、頭もゆれていない。
 堀川くんが立って窓を開けた。
「聞こえますか。これ、一家団欒の声」
 今夜は波平さんもマスオさんも帰りが早かったみたいだ。にぎやかな声が適度に減衰して俺の部屋に流れ込んできた。夜7時くらいだろう。二人で窓辺に立って、磯野家を見下ろしていた。
 堀川くんは尻ポケットからスイッチを取り出した。
「甚六さんにだけ。ちゃんと見ててください」
 堀川くんは一瞬、犬みたいな呼吸をした。磯野家を指差した。つられて指の先を視線が追った。
 何が起こったのかわからなかった。巨大な地震が真下で起こったと咄嗟に思った。音と衝撃の区別がつかなかった。磯野家の縁の下から土煙が噴き出すのを一瞬見た。けれどすぐに土煙が激しく立ち上って視界を遮るのと同時に、体がはじき飛ばされて床に尻餅をついた。目の前の堀川くんが遅れてふらふらと倒れこんできた。胸でその背中を受け止めた。子供の体温が熱くて、動物だと思った。
「立たせて。ねえ、いっしょに見て」
 堀川くんの両肩をささえて立ち上がり、窓の外を見た。磯野家がそのまま低くなっていた。形を全く保ったまま、縁の下の高さだけ「落ちて」いた。
「あぁ~」
 堀川くんは制御できないほどの興奮に襲われていた。なすすべもないふうに俺に体重をあずけてきた。みぞおちに堀川くんの頭が押し付けられた。体に力が入らないようだった。あえぐように言った。
「家の……ぜんぶの柱っ、床下の……バランスがね、難しくて、……上の重さが違うから全然……でも、見たでしょっ! かんぺきに、同時に落ちるところ……」
 腕の中で、堀川くんが俺を見上げた。ようやく子供らしい顔をしていた。
「あのさあ、ほめてよ、甚六さん……大人でしょ」
 街灯の光があごの下、喉元、首、その肌に白々と当たっていた。なめらかすぎると思った。子供の肌がつまっていると思った。手のひらで撫でていった。包み込むというよりもう、絞め殺すような手つきになっていた。堀川くんは細かく痙攣していた。
「ポテトチップスがね、たくさんあるんだ」
 力が入らないままの堀川くんをベッドの上に運んだ。後ろから抱き止める形でポテトチップスを口に運んでいった。堀川くんはおとなしく、ふつうに食べていった。このまま永遠に食べさせつづけたいと思った。
 磯野家は引っ越していった。急に時間が流れ始めた。

十九、二十歳

 こんな夜中に掃除してる。クイックルワイパーでフローリングの床をざっと拭いて、ガラスのローテーブルの上はウェットティッシュで拭いたあと乾いたティッシュで跡にならないよう水分を拭き取った。
「ごめん。急なんだけど今から泊めてもらえないかな。」
「いいよ。」
「実はもう一人友達もいるんだけど、、、終電のがしちゃって、、、」
「うちベッド以外は布団一組しかないけど」
「えっと、それでも大丈夫だけど、、、だめ?」
「いや、そっちがいいならいいけど」
「ありがとう」
「来る時間わかったら教えて。だいたいでいいから」
 ローテーブルをどかして布団をクローゼットの上から引っ張り出して敷いた。もう〇時半だった。平日はいつもなら十一時には寝てる。
 落ち着かなくて部屋の中をうろうろしてしまう。あれから一時間たったのにトラからLINEの返事がこない。その「友達」との話に夢中で気づかないんだろうか。トイレのペーパーホルダーの上に少しホコリがたまっているのが気になってここも掃除した。もとから部屋を汚くしてるわけじゃない。別に掃除をしなきゃいけないってこともない。でもいちばんいいところを見せたいってどうしても思ってしまうのは結局なんか、見栄なんだろうな。
 そう。見栄だ。泊まりにくるって言われたのが嬉しくて即答して、でも友達が一緒だと聞いたときに嫌だなと思ったのに、断らずに寛容な人間のフリしたのだって、見栄でしかない。
 チャイムがなって急いでドアを開けたら茶髪でふわふわのパーマになってるトラの頭を見て、一年以上も会ってなかったんだなと思った。その後ろに「友達」がいて二人とも大きなギターケースをしょって、なんだかごちゃごちゃしていた。
「あの、俺明日、七時前には家でなくちゃいけないし、六時に起きるんで、早めにシャワー使ってもらっていいですか」
「早っ」
「明日仕事なんで」
「バイト?」
「いや、普通に会社で働いてますけど」
「えっ。でも峰口と同い年のいとこなんですよね? えっ」
「高卒で就職してるんで」
「あー……そうなんだー……」
 この想像力の欠けた「友達」にも、来る前に説明のひとつもしてないトラにも、イライラした。早くシャワーしろって言ったのに荷物も下ろさずコートも脱がず無遠慮に人の部屋を見回してくるこの初対面の「友達」にも、いつまで経ってもお互いの名前すら紹介しないトラにも、ますますイライラした。
「いや俺、シャワーいいっすよ。もう遅いし」
「そうじゃなくて、整髪料も枕につくし……」
「あーと、ああ、そうゆうこと」
 そうやってイライラを抑えられずに、もろ態度に出してる自分にも腹が立つ。
「は? あの人なんか怒ってんの?」
「いやいや、そんなんじゃないと思うよ」
 風呂場を案内して離れる間際に「友達」がそう言うのを聞いて叫び出しそうになった。
「リョータごめんね。急に、こんな遅く、明日も早いのに。えっとサークルで今日飲み会があって、」
 そのまま説明を続けそうなトラを遮った。
「いや。いいから。俺さき寝るから、あのお友達は下で寝てもらって、トラはベッドこっち半分使っていいし」
「うん。ありがとね」
 全然寝付けない。なんでこんな風になっちゃったんだろ。一人暮らしはじめてそういえばトラに泊まってほしいなと思ってたんだった。ゲームとかしたりして夜遅くまで遊んだり話したりして、そういう子供じみた楽しみ期待してたんだってこと思い出したのに、なんだこれ。
 壁にほとんど密着させてた顔を離して仰向けになって目を開いたら視界の端に、所在無さそうに部屋の真ん中で突っ立ってるトラの後頭部があった。
「髪染めたんだ?」
「えっ」
 ベッドの端を指して席を勧めた。こんな風にトラが自分に気を遣ってるのを見るくらいなら、泊まるのなんて断れば良かった。
「あー髪ね。うん、どうかなーと思って」
「結構似合ってると思うけど」
「リョータも、いっぺんやったら似合うんじゃない」
「いや、そういう職場じゃないし」
「あー、……そっか」
 そうじゃない。そういう気まずい雰囲気にしたいわけじゃないんだけど。トラがシャワーに行って、部屋で「サークルの友達」と二人になったから寝たふりしてたらそのまま眠ってた。シャワーから上がったトラがベッドに入り込んでくる動きで目を覚まして、自分が眠っていたことに気づいた。もう部屋は暗かった。「サークルの友達」はもう寝息を立ててた。ほんのちょっと酒の臭いがして、そうだ、学年いっしょだけどもうトラは二十歳なんだよなと思った。
 シングルベッドが狭すぎて、もちろん仰向けうつぶせは無理だし、二人で背中合わせに寝てるけど掛け布団の幅が足りなくて寒いし、寝返りも打てないし、他人と寝るとかそれこそ小中学生のころトラとふざけて同じ布団で寝たりしてたの以来だし、もうぜんぜん眠れない。体感で午前二時、家を出るまで四時間きってる。


 急に自分のダッフルコートが子供っぽく思えてきたのはリョータが、スーツにネクタイにしゅっとしたトレンチ着てていつもは、もっとラフっていうかビジネスカジュアルって感じだけど今日は外注先に行く用事があるからって言ったから朝、駅までいっしょかと思ったけど俺、下りの列車ちょっとギリだからごめん先急ぐねって俺と横田を残してさっさと行っちゃった。朝六時台の、歩いてる人も車もまだまばらな、住宅街を白い息吐きながら歩くなんて、久しぶりで変な感じがした。
 あの人さあ高卒で就職ってヤバくない工場とか、建設現場とかで働いてるのって横田が聞くからうーんと、コウミツって会社らしいんだけどって言ったらえーっ大手じゃんすげえコンシューマー向け製品じゃないから普通の人あんま知らないけど計測器で大手だよって横田が急にコンシューマーとか言い出して腹が立ってきてめちゃくちゃ、リョータって頭いいんだよって言ったらなんで、大学行かなかったんだろって横田が言うから二年前のこと思い出してた。もうこれ以上学校で勉強したくないし、社会でやってみたいって言ったけど母さんも、おばあちゃんもおじさんおばさんも、父さんも、自分が養子だから遠慮したんだって今でも思ってて、俺はでもよくわからない、リョータに直接聞いたこともないし。俺が進学してリョータが就職してから前みたいにあんまり会ってないし。
 就職するって言い始めたとき大人ら全員すごく怒ってるみたいに大学に絶対行けって言ったけどリョータは、困ったみたいな顔して遠慮してるとかほんとにそんなんじゃないんだけどなって全然折れずにほんとに就職した。大人らにしたら罪悪感の裏がえしで怒ってる。母さんにしてみたらリョータは、実の息子なのに、そうじゃない俺だけ進学させて悪い母親って思ってるし、父さんは本当ならリョータを引き取って息子になってたかもしれない子供なわけで、自分の息子だけえこひいきしたみたいな形になってるし、おじさんおばさんは自分達がわがまま言って引き取った子供なのに大学に行かせられなかったってメンツが立たないし、みんなリョータに復讐されたって感じしてた。そういう空気もあって俺もなんとなくリョータのこと敬遠してたみたいなとこもあるかも。やっぱ頭よかったリョータが就職して、頭わるい俺が進学したって変な感じするし。
 あのあとリョータから連絡きてめし行ってリョータが、会社のこととかいろいろ話してくれてそれ聞いてたらほんとに仕事が充実してる感じだから別に、リョータはほんとに進学したくなかっただけかもしれないと思ってリョータは、もう働いてるのに自分がこんななんとなく大学通ってレポートとかサークルが忙しいみたいなこと言ってるのなんなんだろみたいな気がした。こっちから誘ったんだしそれに、今月はボーナス入ったしって言ってリョータがめし代を払った。


 置いてあったPS3でトラと桃鉄をやってた。ボンビーがついて邪魔されると
「あー」
と言ってくすくす笑う。もともと大声で話したり大笑いしたりするタイプじゃなかった。せっかく集めた物件とかカードとか勝手に捨てられたりすると、ちょっと本気でイラッとしてしまう自分とは大違いだなと思った。なんでこんな穏やかでいられるんだろ? 画面を見つめて特急カードを使うかどうか迷ってるトラを、斜め後ろから見てた。スウェットの襟から伸びたうなじと短く刈り上げた襟足の、案外しっかりした首筋を見ながら、そうそう、細い割にけっこう筋肉しっかりしてんだよなと思った。ふわふわしたパーマの茶髪がちょうどトラの性格と似合ってると思った。
 就職するときにもうほとんどゲームなんかやらなくなってたから家に置いてきた。年末から元日まで久屋の方の家にいて、元日から二日は峰口の方の家にいる予定にしたら、トラも同じ日程で合わせることになった。去年は結局、大晦日と元日だけ帰ってすぐ会社の借り上げ寮に戻ったんだった。まだ就職して一年も経ってなかったし、進学せずに就職したことでまだ何となく家というか親たちも変な感じだった気がして居づらかったけど、今年は父さんも母さんもばあちゃんも、どことなく帰ってきてほしいような雰囲気だったから。どうせ寮にいても一人だし暇だし。
「俺エレキギターの音ってちゃんと聞いたことなかったわ」
「そうなんだ。これ、この前の追い出しライブでやったやつ」
 トラの演奏は思ってたよりずっと上手かった。桃鉄にも飽きて、トラがギターを出して弾いてた。アンプにつなげずに小さな音だったけれど、キュイキュイ鳴ってけっこう気持ちいい音なんだなと思った。
 高校から始めたって聞いてたけど、四年くらい前に自分とこの高校の学祭で見た同級生のライブなんて、なんだこれってくらい下手くそだったからトラもそんなもんだと勝手に思ってた。
「あーもうぜんぜん覚えてないや。ライブ終わっちゃうとすぐ次の曲の練習しないといけないから忘れちゃうんだよね」
 もともと全然知らない曲だったから気にならなかった。トラの中で出てきたフレーズをあてもなく弾いてるみたいだった。
「ここがねー。このリフがちょうかっこいいんだよ。めちゃくちゃかっこよくてライブで本人が弾いてるの見ちゃうともう泣けるくらいかっこいいんだけど、難しくて、ほんと自分とか全然だなっていやんなるよ」
 謙遜しているというより本気でそう思ってるみたいにそう言ったけど、素人の自分が見るとすごく上手かった。トラの、長くてやや骨ばった指がすばやくコードを押さえてくのを見てた。
「その弦がキュイキュイ鳴るのかっこいいな」と言ったらトラは、んふふーみたいな笑い方して、
「俺も好き」と嬉しそうに言った。
「年明けにね、またライブがあるから冬休み中も練習しないと。俺だけできないとみんなにも迷惑かけちゃうし」
 色んなバンドの曲をやると言って床に散らかしたスコアを手に取って見てみたけどどれ一つとして名前を知らなかった。トラの言う「みんな」っていうのがどんな人たちなのかも全然知らない。この前うちに泊まっていった「サークルの友達」なのかどうかも知らない。
「そうやって色んなバンドのコピーとかやるじゃん。で、そのフレーズ、リフ? とかどんどん覚えてったり、コード進行とか覚えてったりするじゃん。たくさんバンドのライブに行ってかっこいいなとか思ったりするでしょ。そしたらさ、こうしたらもっといいかもとか、こういうのが聞きたいなとか思ってきて、自然と自分でも曲作ってみたいとかってこと、ないの?」
「んーそういうのはあんまないかなあ。好きなバンドの好きな曲を演奏できて楽しいって感じで。サークル自体もオリジナルはやらないとこだし」


 めちゃくちゃ腹一杯で階段のぼって俺の部屋むかう途中で上から、リョータが振り返って「多すぎだろ」って言ったから二人して、ゲラゲラ笑ったのはもう年末からずっと久屋の方でも、めちゃくちゃ豪華なめしだったのにこっちの家も、めちゃくちゃ豪華なめしが出てきてぜんぜん、食べきれない量が出てきたから。そりゃそうだよだって、久屋のおばさんにとっても母さんにとってもリョータは自分の子供なわけだしぜんぜん、リョータもふだん会社の寮にいて帰ってこないし去年も大晦日と元日しかいなくてすぐ寮に戻ったし。「あり得ないでしょあんな量」ってうれしそうな顔で言うからほっとしたってとこあってやっぱ、大人たちみんな大学行けって言ってたの無視して就職したからなんか、ぎくしゃくしてたのかと思ってたし。
 元旦だし年始の挨拶ってことで今朝は、父さんも母さんも久屋の方にきて昼過ぎにリョータも一緒に車でこっちの家に帰ってきたその、車の中で峰口のお父さんなんかテンション高くなかった? ってリョータに言われてそういえばそうだったかもしれない。なんか今日父さんの車乗ってたらはじめて、峰口のお父さんが運転する車乗ったとき変な感じしたの急に思い出したってことリョータが話してた。こっちはだいぶ早く離婚してて自分の遺伝上の父親って知らないから父親の、車に乗るって経験なかったしそれでって。そういえばリョータあの日帰り妙に静かだったもんね、それまでは初対面なのにめちゃめちゃ俺としゃべってたのにって言ったらリョータはぜんぜん覚えてないって言った。
 小五のときはじめて俺と会ったときのことぜんぜん、覚えてないってリョータが言うからおかしくて笑ってた。俺の方はめちゃくちゃ緊張しててだって、これから母親になるかもって人と兄弟になるかもって人に会うとか言われて緊張しない方が変だと思うのに親たちが、ドリンク取りに行って二人きりになってちょう気まずいじゃんって思ったらいきなりそいつがねえそっち行っていーい? って。自分のとなりに来たと思ったら急にDS出してゲームとかするのって聞いてきてこれ、やったことあるって言い出したのがテトリスで急にやりはじめたと思ったらこっち渡してきて遊ばせてもらったってこと。ぜんぜんリョータは覚えてないけどテトリスにはまってたのは覚えてるとか言うからおかしくてめちゃめちゃ笑ってた。「トラのことはなんか最初っから友達だったって記憶しかないんだよ。」そのあと、峰口君って呼ぶのもさあ、だってたぶんこの後俺も『峰口君』になるわけじゃん、そしたら虎彦君? だっけ? って呼ぶの? でも呼びづらいしトラでもいーい? 俺のことは『亮太さん』でいいよ、とか言い出してそれずるくない? って俺が笑ったらリョータも笑ってそれからリョータ、トラって呼ぶようになったんだったってこと思い出して、笑ってたけどそれもリョータはたぶん、忘れてる。
 結局リョータは兄弟に、ならずにおじさんとおばさんの養子になったからいとこになったけどその頃の大人たちとのやり取りの方ばっかりリョータは覚えててそれで、俺とは最初っから友達ってことになってるみたいだって。子供の自分よりおじさんおばさんや母さんの方が緊張しててもちろんいつだってお母さんにも会えるしもし嫌になったら峰口さんちの方へ移ってもいいのだしおばさんもおじさんも子供もいないしお母さんが亮太のお父さんと離婚してこっちに戻ってきてから亮太と一緒に暮らしたこと自分の子みたいで本当にうれしかったしもし、このまま一緒にってすごく顔こわばらせておばさんが言ってたのとか、峰口のお父さんが虎彦と、全く同じくらいに君のことは自分の子供だと思ってるからこれからは、亮太君じゃなくて亮太って呼ぶよって言ってくれたときもなんか緊張しててリョータは、学校変わるのも名字変わるのもちょっといやだなと思ってそのときオッケーしたけどでも、そのあとも時々もし、あのとき峰口の子になってれば俺と兄弟になってたんだよなとか同い年の、兄弟ってことは双子になるのかなとかでも、そのまま完全に他人のままだったってこともあったんだよなとか思ってたってこと俺の、ベッドの上でごろごろしながら話しててリョータのそういうのはじめて聞いたなと思った。
 こうやって両親が二組いるっていうの悪くないなって今だと思うよでも、めちゃめちゃ飯が出てくるけどってリョータが言った。二人でけらけら笑ったけど俺にとっては両親とおじさんおばさんでしかないんだよなと思った。午前二時だった。


 歯磨きしながらもう一本の歯ブラシを見てた。もともと俺が着てたジャージはトラ専用みたいになってるし、コーヒー入れるマグカップも使い分けが定着してきたし、俺のiTunesはトラがせっせとCDを持ってきては入れていったバンドの曲を今も流してる。
 そろそろ遅いから、と思って部屋をのぞいたタイミングでトラがちょうど音楽を消した。目があったトラがにやっと笑って親指を立ててきた。
 土曜の夜に合鍵で勝手に入ってくる。日曜に部屋でだらだら過ごして夜に外で飯食ってそのまま帰ってく。完全にパターンになってる。
「これ俺のホームステイ」
「なんかそれ意味ちがくない?」
「じゃあなんだろ。疎開?」
「もっとちがくない?」
「まあとにかくリョータんちが一番落ちつくってこと。あと大学から近いし」
 トラはギター練習したり俺のパソコンで学校の課題やったりLINEとかツイッターとかしたりテレビみたりして、俺はベッドで寝転がってネット見たり漫画や本読んだりして、それぞれ勝手に過ごしてるのが半分で、もう半分は冬のボーナスで買ったPS4とStar Warsバトルフロントで遊んでる。最初のころはトラもやってたけど「むずい」と言って俺がプレイしてる横で見てる。たまに気が向いてちょっと借りてプレイしてる。トラはベッドに横になって布団にくるまって画面の推移に合わせて間投詞と効果音をずっとしゃべってる。「うおっ」とか「どーん」とか勝手に言ってる。俺がベッドでネット見てて面白いの見つけて呼ぶと上から「どーん」とか言って子供みたいにのしかかって肩越しにスマホを覗いてくる。
 なんか別にそれだけなんだけど、俺の生活がすげえうるおってるって感じがする。大学行かずに就職してから高校の友達とも全然会ってないし、職場には同世代もいないし、高卒の同期もほとんどいないし、よく考えたら友達づきあいがなくなってた。こうやって家に一緒にいて楽しいやつがなんとなくいるってだけでこんないい感じなんだなってことはじめて知った。
「そういえばトラって彼女とかいないの。学校とかサークルとか……」
「いたけど別れちゃった。一年の秋に先輩から告られて付き合ってたけど夏ごろフラれちゃった。なんか私のことほんとは好きじゃないでしょって言ってその人浮気してた。ってかリョータは? 高校のころからのとか会社の人とか」
「いないよ! 仕事でもほとんど女の人いないし、いてももう自分の母親くらいのおばさん……なんかね、職場の人がさ、『おばさんじゃない、おねえさんって言わなきゃだめ』って言ってくるんだよね」
 2月になって「ごめん俺あんま金なくて」ってトラがマフラーをくれた。トラから誕生日プレゼントもらうなんて中学生以来だなと思った。
「ってかついにリョータも二十歳だねー。今度どっか飲みいこうよ」
 あっ俺トラの誕生日なんもしてないって一瞬焦ったけど、去年の十一月なんてまだトラと疎遠だったんだよなと思って、半年もたってないのに自分の生活にこんな風に友達っていうか家族みたいのがいてすごく楽しいっていうの、全然想像もしてなかった。


 リョータが自己紹介して女の子たちが、顔見合わせて「は?」みたいな表情したときリョータの顔をつい、見ちゃったけど見なきゃよかったってあんな風に、ひきつった笑顔してなんか言おうとしてなんにも、言えずにいるずっと俺なんかより頭よくてしっかりしてる人がそんな状態になる瞬間を見て一生、忘れるってことないと思った。それであっちのメンバー集めた女の子が俺の、顔見てなんで、大学生つれてこないんだよって目をしたの、リョータもぜったい知ってる。
 君らコウミツって知らないかもしんないけどすげえメーカーなんだってリョータさんさあ、高卒で入るとかすげえエリートなんだってボーナスもあるし俺らより、ぜんぜん。横田がそう言ってフォローしてそのあと合コンの、あいだほとんど女の子たち無視して横田はリョータに仕事のこととか趣味とか聞きまくっててリョータは、さすがに合コンなのに女の子としゃべろうとしないってこと最初は気にしてたけど途中からもう横田としゃべることにしたらしくて俺と、渡辺が向こう四人の相手してたけど二人はもう、完全に怒っちゃってて一人はぜんぜん気にしない感じでバンド好きの子で声が大きくてめちゃめちゃよく笑う子でそのときぜんぜんしゃべってなかった横田と一ヶ月後に付き合うことになって一人は、俺がリョータんとこ毎週泊まってるって話したらそのこといろいろ聞きたがって話したらキャーキャーゆって喜んでくれた。
 なんか俺のせいでごめん変な空気なったっぽいってリョータが言ってなんて答えていいかわかんなかったから黙っててまた、合コンとかの話があったから何回か誘ったけどこなかったから誘わなくなった。仕事で元請けの人から俺のことこの前、しっかりしてるって問題とかあってもすぐ連絡くれるしうらやましいって言われたって課長が、あとで教えてくれてやっぱ、そういうこと社外の人に認めてもらえるとかってこと嬉しいっていう話を急にリョータが言って母さんにそのこと伝えたら母さんは、ドン引きするくらい喜んでてなんか、ちょっと、自分が責められてるみたいな感じがした。
 母さんはリョータがそういう仕事のことを自分から、ぜんぜん言ってくれないからもし、他にもあれば教えてくれっていうけど別に俺は、リョータと母さんの連絡帳じゃないし。
 仕事のことで自慢したのは合コンで女子に、ばかにされたみたいな感じになったことともしかすると、関係あるのかもしれない。


 なにこのアイコン、と思った。フェス行ったときの友達三人の写真っぽいけど真ん中じゃなくて右端がトラで、これじゃアカウントの主だってわかんないじゃん。ライブ楽しみーとか授業だるーとか意味のないつぶやきが少しと、友達とのやり取りがたくさんで、その友達はほとんど鍵つきアカウントだからどんなやり取りしてるのかはあまりわからない。どんな関係かもわからないけど、かなり仲良くしてるっぽい女の子はいるみたいだ。フェースブックはほんとにときどき写真が更新されるくらいだ。
 あれ、今週は来ないのかってことが続いてこの一ヶ月は一回しかトラは来ていない。来ないなら来ないって連絡がほしい、こっちの予定だって立たないし。それで次の土曜は来るのかってラインしたら既読のままぜんぜん返事がない。
「えーと、こっちも予定たたないから連絡ほしいんだけど、、、」
 ずーっとトラのタイムラインをさかのぼって先週、先々週のそのころトラがなにしてたのか見て、トラの友達で鍵つきじゃない人がトラの写ってる飲み会の写真をアップしてるのを見つけて、ああ、そっちを優先したのかと思って、なにやってんだろこれ。俺。なんだこれ。なんでこんな、人のこと女々しく気にしたりしてバカみたいだ。もう嫌だ。結婚したい。結婚して子供できてふつうの家族つくってSNSですげえ充実してますみたいな写真載せたい。
「今週は行けたら行こうかな」
 ギター持ってくのめんどいからってトラがうちに置いてった練習用のやつ眺めながら邪魔だなと思った。だって来ないんなら単に俺の部屋が狭くなるだけで俺が損じゃんか。ごめんこれ持ってかえってほしいんだけどって言われてえっと、ここ置かせてもらえるとリョータんちきたとき練習できてすごく助かるんだけどだめかなっていうか、トラだって来ないじゃん最近なんか、だんだん俺の部屋っていうよりトラと共同の部屋みたいになってきてるけどこれはちょっと、違うんじゃないかってってリョータが、不機嫌っぽかったからこの前の合コンのことまだ怒ってるのかなと思ってとにかく、ごめんっていった。
「なにが?」
「なにがって、リョータがなんか不機嫌だから謝ってるんだけど……」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど」
 そういうつもりじゃない。ぜんぜん違う。なんでこうなっちゃうんだろう。せっかく久しぶりに遊びに来てくれたんだから楽しくやろうと思ってたのにこうなる。でも、ずるくないか? 不公平じゃないか? こっちばっかりあれこれ気にしたり便宜はかってるのに相手が何とも思ってないとか。
「でもそんなの、リョータが勝手にそう思ってるだけじゃんか」
 勝手にっていうかもともと、トラがうち来るっていうから予定あけたり、なるべく過ごしやすくしたりしてるんだろこれ。そんでこっちも予定立てたいから連絡してって言ってるのに連絡はくれないし、
「だって俺だってほかの友達との都合もあるからそんな前々から決めらんないよ」
 だからさあ、それだとこっちは来るか来ないかわかんないから予定開けといてさ、当日になったらそっちは友達とライブとか行ってるわけでしょ、なにそれ
「そんなのストーカーじゃん」
 リョータがきつく目をつむってしばらく苦しそうに、黙ったあと「そうかもね」って言った。どうしてこんなこと言っちゃったんだろって自分で思ったけどもうどうしようもなくて黙ってたらリョータが、もうほんとしんどいんだよいや、自分の方の問題だってわかってるけど、なんかもうトラのことばっかり考えてるみたいになっちゃってほんとしんどいしともかく、もう会うの当たり前って状態やめて前みたいに戻さないとだめだ。こういうこと話しながらこれ、トラの方は何とも思ってないんだよなとか思うと自分がみじめな気がしてしんどかった。うちに遊びに来るのは月一くらいにすること、来る予定は少なくとも一週間前には決めること、合鍵は返してもらってギターも持って帰ること、そんな提案をした。
「うん」
とうつむいて神妙そうな顔でトラが了承した。二十三時だった。そんな顔をしてほしいわけじゃない。もう一度ちゃんと友人としての距離を取り直そうってだけの話だからもっと、普通に事務的に返事してほしかったのに。
「えーと、で、……今夜泊まる?」
「いや、今日は帰る」
 でももう結構遅いし、泊まってっても別にいいよ、うん、でも、今日は帰るね。そっか。
 紐を結ぶのが面倒な靴を玄関で、履いているしゃがんだトラの頭を部屋着のリョータが見下ろしていた。その頭越しに体と腕を伸ばしてリョータは玄関の、鍵を開けてやったのに気づかずにトラが立ち上がりかけて体が、触れそうになった。リョータが怯えたように身を引いたから二人のからだも服も触れることなく避けていった。
「じゃあ、また」ってドアを開けたらもう、春の夜で生ぬるい、空気が部屋に流れ込んできた。