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創作のブログです。

かれぴのTOEICが8兆点

 あなごのかば焼きおいしーいと思って食べてたら黒いゴムの板だったんだよね。味もぜんぜんかば焼きじゃないじゃんって言われたけどあたし、かば焼きって食べたことなかったから。
 それであたし怒って、妹を棒でたたいてた。ほんとうに悪いのはお母さんやお父さんだけど、もう死んじゃってハワイにいると思うから。お葬式をやるお金がなくて、妹は正当な法律に従って自動車運転免許証を取得していたから、レンタカーでお母さんとお父さんを海に運んで流した。だから、たぶんお母さんやお父さんはハワイについたと思う。
 あたしがかば焼きを知らないってことは教育の問題だから、お母さんやお父さんが悪いけど、もう二人とも死んだから妹を棒でたたいてた。それが責任だと思う。そしたら妹は
「給食で出たでしょ。」
ってゆった。あったかいかば焼きがいっこずつビニールに入って配られたでしょって。あれがかば焼き!? でもあたし、あれはビニールといっしょに食べてたから、ほんとの味のことはわからない。
「なんであんたが免許取るお金あったのに、お母さんやお父さんのお葬式をやるお金がなかったんだよ!!」
 あたしは別件で妹を棒でたたいた。妹は泣いてた。妹はみんなのうちからいなくなって、かれぴがうちに住むようになった。


 かれぴはもともと駅の近くの公園に住んでいたという。ある朝、それは10時ぐらいって言ってた、黒くて大きな先生につれられた200人の小学生たちが公園をうめつくして、かれぴに
「家に住んでください。」
ってゆったという。
「公園に住んでいますよ。」
ってかれぴがゆったら、200人の小学生たちがいっせいにウオーッて叫んで耳がこわれそうになって、逃げてきて市役所の人にうちを紹介されたから、うちに住むようになった。運命の出会いってこういうことかなと思った。


 あたしはあたしの心がどんどんおだやかになっていくのを感じてる。かれぴに抱かれて泥のように眠る。眠っているあいだ、こたつの赤いビームを顔に当てられつづけて、顔がめちゃくちゃになった。かれぴは
「殺そうとおもって。」
とゆった。あたしはこの試練に生き残ったから、神さまに選ばれたんだとおもった。パワースポット。
 かれぴは58歳で、あたしは21歳だった。かれぴは
「ぼくは後期高齢者だから、養ってもわらないといけない。」
とゆった。だからあたしは炊飯器にご飯を炊くように命じている。おかずはあたしの、はがしたかさぶた。


 あたしは眠るまえ、かれぴのお話を聞くことがよろこびだ。かれぴはあたしの首を絞めながら
「ぼくはドッグトレーナーだったんだ。」
とゆった。おなかがすいたら犬を食べてたとゆった。食べるのは小さい犬で、大きい犬は4匹横にならんで、その背中の上にのって、かれぴはこの川崎市までやってきたとゆう。
 かれぴは犬とコミュニケーションするために英語を勉強したから、TOEICがすごいといった。Test of English for International Communicationだ。
「ぼくはTOEICが8兆点なんだ。」
 人類で最強とおもった。だからあたしはかれぴにブログを書くのことおすすめとてもした。かれぴの記事は1億人が読んで、もうあたしの手の届かない存在になってしまった。でもまだうちにいる。あたしは炊飯器にご飯を炊くように命じている。


 あたしはもう一度お母さんとお父さんに会いたいとおもった。お母さんを棒でたたいてハワイに流したのが5年前、お父さんを棒でたたいてハワイに流したのが10年前だった。だからハワイに行きたいとおもった。
 かれぴはインターネットの犬たちから金をまきあげていて、たくさんお金を持っているとゆった。でもハワイじゃなくて鎌倉にあるHatch-Man-Gooに行くとゆって、行った。パワースポット。それからGiant Buddhaも見た。Giant Buddhaは頭のぽちぽちひとつずつにLEDが入っていて、すごく光ってた。プロジェクションマッピングでグンバツにおしゃんてぃなおべべを着てた。かれぴは涙を流していた。あたしは妹に会いたいとおもった。
 夏だから首のおにくの間に汗がすごくておしろいがどんどん剥がれていった。Giant Buddhaは、おでこにあるボタンからときどきたれを発射してた。かば焼きのたれだった。
 あたしは全身にかば焼きのたれをあびて、横須賀線にのって川崎にかえってきた。あたしは英語ができるようになってきた。ハロー。ライスマシーンがほっかほかのライスをアウトプットして、あたしのかさぶたがかば焼きのたれでベリーヤミー。


 かれぴはTOEICで8兆点とる方法でユーチューバーになってサンシャインを浴びてた。ジャパンの法律をマキシマムに駆使してあたしのうちが、かれぴのうちになった(権利が)ということで、あたしはうちを追い出された(権利が)。かれぴがうちをもつ権利があって、あたしはうちを追い出される権利があるということ。
 ハワイに行きたいとおもって、ダイシ・カワサキを通り抜けて海にきた。妹に会いたいと思った。でも棒でたくさん叩いたからいなくなった。かれぴに会いたいとおもった。でも権利がちがうからもう、あたしのかさぶたのかば焼きを食べてくれない。お母さんもお父さんも死んだ。お母さんとお父さんがいるハワイに行きたいとおもった。
 海に行こうとおもった。そうしたらハワイが見えるとおもった。マリエン・カワサキの展望室にのぼった。工場ばっかりだった。こんなの海じゃないとおもった。

ペアレント-ティーチャー・アソシエーション

 4月になったら、早く4月になってくれたらもう、沢木さんとはただの他人になるんだってことがこんなに待ち遠しくて頭が、おかしくなりそうだ。こんなに会いたいって思うなら二度と、会うことはないって僕でも沢木さんでもない何かがいっそ勝手に決めてくれたらいい。早く楽にしてくれればいいのに。


 立ち止まらなければよかった。
「橋之上先生、今お帰りですか」
 4月なのにあんまり寒くてジャージの、ポケットに手をつっこんで教職員用の玄関を出て駐車場に向かうときにそう、名前を呼ばれたんだった。スーツの上に軽そうな起毛のコートをきれいに羽織ってその上の、大人っぽい顔がうれしそうに笑ってた。嫌いだったんだ。沢木くんのお父さんのことを、嫌いだった。


 みんなうつむいてたぶん全員僕より年上の、大人たちがいつもは子供たちが座ってる教室の席に座っていて時間が、僕だけを残して縮んでみんながそのまんま大人になったみたいだと思った。
「PTAの役員が決まらないと帰れません、どなたかお願いできませんか」
 死にそうなくらいゆっくり過ぎた1時間半の中でおなじことを言った8回目にあの、余裕っぽい顔がうれしそうな目がこっちを見てた。沢木くんの席に座っているからその人が沢木くんの、お父さんだってことはすぐにわかったけどこんなに、苦しい空気なのに笑ったりして僕は馬鹿にされてる気がした。


 もっちゃんは会ったこともない、沢木くんのお父さんの肩をいつも持つ。
「そのお父さんはたぶん、はっしーのこと助けてくれたんだと思うよ」
 会ったこともないくせに。
 もっちゃんは頭がいいし学生のころ、先輩だったって気持ちがまだそのまま残ってて僕らの、ふたりの関係性がかたまったままになってる。僕をどこかベースのところで見下してる。小柄でやわらかい表情でからだも、抱きしめればやわらかいのに僕が、彼氏として頼りないから彼女が、しっかりしちゃうんだろうか。ほんとは年下でも男なんだしもっと、僕に甘えたいとか思ってるんだろうか。


 23歳ですって答えたら視線を、ふっと外して沢木くんのお父さんは今思い出しているって顔で言った。
「23だった頃の自分と比べると、橋之上先生はずっとしっかりしててすごいですよ。自分の職場に先生みたいな人がいてくれたらいいだろうなあって」
 どこに住んでるのかとかそんな、当たりさわりのない話をして教職員用の駐車場までいっしょに歩いて別れた。
「あの、送りましょうか」
「いえ、うちはすぐそこですから。ありがとうございます」
 車に乗りこんでエンジンかけてハンドルを、両手で握ってぐっと腕を突っ張って顔がいっきに熱くなるのを感じた。大人になってから誰かにそんな風にほめられたことなんて、なかった。


 制服の、詰め襟のホックをいつもしめてるほど真面目じゃないし第一ボタンをいつも開けているほど不真面目じゃない、テストの点数は5教科で400点を下らなくて運動もふつうにできる、怒っているところを見たことがないし誰とでもそれなりに話を合わせて楽しそうに笑ってる、目立たないふつうの生徒。そういう沢木くんが西山さんのななめ後ろでおだやかな顔して立ってた。
「先生、校外学習の予定表です」
 西山さんが手書きの予定表を渡してくれて沢木くんは、あくまで自分は副委員だからというような控えめな態度で黙っていた。
 いちど決まりかけた校外学習の行き先を寺内くんたち3人が急に反対してほかの子が、わがままじゃないかって苛立って学活の雰囲気が悪くなりかけたのに、次の回であっさり寺内くんたちは元の行先で納得してすんなり決まった。
 荒れるのがこわかったから本当にほっとした。


 でも、と今までずっと黙ってた一番うしろの席の香坂さんのお母さんが口を開いてみんなが振り向いた。
「でも先生は先生なんですから、受験もあることですし、しっかりしてもらわないと困りますけど」
と言った。お母さんたちはうんうんうなずいて僕は、たまらないくらい怒りで顔が熱くなった。
 そんなこと僕がいちばんわかってる。
 クラス委員にさっき選ばれたばかりの沢木くんのお父さんが僕が、新卒2年目ではじめての学級担任だってことをわざわざ言ってみんなが、笑ってそれで香坂さんのお母さんが釘を刺してきた。なんなんだよこの人わざわざ、自分からPTAの役員になるとかたぶん、めんどくさい人なんだろうなと思ったけれど本当に、嫌な感じしかしなかった。
「ええ、うちの子もまだ高校受験のこと全然考えてないみたいだし、私もよく分からないからすごく不安です。学年主任の先生や学校全体でサポートする体制になってるのか、チェックしないといけないですね」


 あかりの、いちばん小さいオレンジ色の電気だけをつけた部屋のベッドの中でもっちゃんのきめの、こまかい肌に口をつけて体を背中から抱きしめて動物の熱をはっきり、感じながら急にはじめてのときを思い出して先輩で、いつも自分より上だと思ってた人がただの、女の人になって僕をただの、男の人って扱って立場が逆転したみたいなへんな感じがしてうれしかったってことを思い出してた。小柄でやわらかい表情でからだも、抱きしめればやわらかくて声が、ほとんど息だけになって熱かった。
 もっちゃんが僕にぜんぶ預けて甘えてくれるみたいに僕が、誰かにぜんぶ預けて甘えられたらどんな気分なんだろう僕を、ぜんぶ肯定してくれたらどんな、満たされ方になるんだろうと思ったときに沢木さんの顔を思い出してた。


 ソファなんてないからベッドの端にあさく腰かけてた沢木さんと目が、台所でインスタントコーヒーをいれながら部屋の方に振りかえった瞬間にあって沢木さんはすかさず、にっこり笑った。その笑顔が沢木くんとそっくりだったのが親子だから当たり前なのになんか、びっくりした。
「橋之上くんとこ、部屋ちゃんと片付けててすごいな」
と沢木さんは言ったけれど沢木さんが来るから片付けて掃除しただけだ。
「橋之上くんの部屋にいると自分が大学生だった頃、友だちの家に遊びにいってた気分を思い出して、急に時間が巻き戻ったような変な感じがするな」
と笑ってほんとにくつろいでくれてるみたいだった。
 沢木さんは自分の老いについて話をしていて見た目が、わりと若い気がするからあんまり考えたことがなかったけれど41歳で僕より、20歳ちかく年上なんだなってことをぼんやり考えてた。


 はじめての保護者会の翌朝に目が覚めると全身びっしょり汗かいててそっか、僕あれすごく緊張してたんだなと思った。自分より全員年上の保護者の前に立って、でも自分は先生なんだからって気を張ってたんだ。結局クラス委員になった沢木くんのお父さんとこれから1年も付き合っていくのかと思うとしんどいと思った。自分から仕切りたがるタイプの人、しかも人を平気で人前で馬鹿にしてくるような人。
 学年主任や他の先生は僕を助けてくれない。なんでも相談してねって言っても何をどう相談してもいいかわかんないしみんなすごく忙しそうにしてる。もっちゃんはアドバイスをくれるけれどなんか自分がバカみたいに思えてくるのが気が重くてあまり仕事の話はしない。親はすぐ、だから学校の先生なんてやめとけって言ったのにと非難してくるからぜんぜん、仕事の話なんてできない。
 なる前から僕だって何も知らなかったわけじゃない。
 学校の先生になる、それも中学校の先生になるってことが大変だなんて、ネットでもさんざん書き尽くされてる、親にも友人にも言われ尽くされてる。そんなことわかってたけど、それでも僕は、どうしてもなりたかったんだよ。学校の、中学校の先生になりたかったんだ。でも、辛かった。


 「橋之上先生」って声をかけられて顔を上げたらすぐそこの、職員室のドアからひょいっと沢木くんのお父さんが顔をのぞかせてた。今気づきましたみたいな態度を僕はとって、でもその日の朝からずっと放課後に今日はPTAの日だって意識しつづけててもう、授業が終わって職員室でなにも手につかない。
 隔週の、PTAの会の終わりにいつも絶対に沢木くんのお父さんはわざわざ職員室に寄ってきてくれる。近くの教室で30分くらいおしゃべりするだけ。ほとんど毎回僕が一方的にしゃべってるなって終わるたびに思うんだけど沢木くんのお父さんは、楽しそうに聞いてくれる。学校の話でも普段の生活の話でも彼女の話でもなんでも、いろいろ質問してきて僕のことをほんとに知りたいって感じで。
 そうやって特定の保護者と話しこんでるってことを3年の、ほかのクラスの先生や学年主任の先生は何にも言ってこないけど別の、学年の先生でよく思ってない人がいるらしいって人づてに聞いた。


 正直、女子生徒との距離の取り方がよくわからなくなる時があってみょうに、距離をつめてくるときがあって困る、そんな話をほんとに赤裸々に言えて、あとで家に帰って自分でびっくりした。前はぜんぶ自分でなんとかするのが当たり前と思ってたのに。それで実際、話してみたらおばちゃん先生が前の学校であった男先生と女生徒との関係の話をしてくれてすごく参考になったし気持ちが楽になった。
 夏休みに入るちょっと前に学年主任の大野先生が、3年の担任全員で毎週会議をしようって言い始めた。生徒同士の関係や状況や受験のこともあるし、お互い情報を共有してやっていこうってことだった。チームでやれば一人でやるよりずっと大きな力が出せるって。
 学年イベントの仕事もほかの先生が手伝ってくれたり、逆に自分に余裕があれば手伝ったり、いらない仕事は省略したりしてすごく楽になった。


「えっと、今度飲みに行きませんか」
「おっ、いいですね。……でも、先生と保護者で個人的に食事というのはやはり、まずくないですか」
「そう、ですよね……」
「じゃあ、先生と保護者じゃなくて、ただの友人ってことにしましょっか」
「えっ」
「なので……『橋之上先生』じゃなくて『橋之上くん』だね」
「あ、えーと……『沢木くんのお父さん』じゃなくて、沢木さん」
「そうそう!」
 そう言って沢木さんがいたずらっぽく笑って僕は、その日から二人のときは『橋之上くん』って呼ばれるようになって食事は、ちゃんと割り勘にした。


 久しぶりに外でご飯を食べたっていうのにもっちゃんは、何かすごく疲れてるみたいな顔をしていて嫌な感じだった。
 この前LINEで長々と文句を言ってきた。週末に来ないなら早く連絡しろ、こっちの予定をぎりぎりまであけてなきゃいけないじゃない、週末はうちに来るのが既定路線みたいになってるのに急にやめられるとしんどいと言われても、別にもともとそういう約束をしてたわけじゃないし、どうしてそんなことで怒るのか正直よくわかんないけど謝って、久しぶりに外でご飯を食べたっていうのにもっちゃんは、何かすごく疲れてるみたいな顔をしていて嫌な感じだった。
 夜遅くのファミレスはすいてた。
「そういえば『沢木くんのお父さん』じゃなくて、『沢木さん』って呼ぶようになったんだね」
ともっちゃんはすごくしんどそうに言った。
 生理って自分で体験したことがないからよくわからないけどホルモンバランスが、崩れるっていうし感情が落ち着かないのかもしれない。


 いちど決まりかけた秋の文化大会にやる合唱曲を三輪さんたち3人が急に反対してほかの子が、わがままじゃないかって苛立って学活の雰囲気が悪くなりかけたのに、次の回であっさり三輪さんたちは元の曲で納得してすんなり決まった。
 後期も学級委員になった西山さんと、副委員の野崎さん、音楽係の佐々木さんの女子3人が決まった曲の、楽譜をコピーしに放課後の職員室にやってきてそのまま、僕もいっしょに教室でコピーを綴じる作業を手伝った。
「曲、無事に決まってよかったね」
 僕がそう言ったら西山さんが「沢木くんがね」って意外な名前を出したから僕はやましいことを、親にでも隠してる子供みたいにびくっとしてしまった。
 沢木くんが三輪さんたち一人ずつに声をかけて、ちゃんと不満もなく納得してもらったんだって校外学習のときも、寺内くんたち一人ずつに声をかけてくれたんだって教えてくれて西山さんは、なんか、自分の犬の頭がいいことを自慢するみたいな顔をしてた。


 学年主任の大野先生は50手前のベテランでこの前管理職の試験も受かったっていうからそのうち教頭先生になるんだろうな。
 定例とかで学年のサポートしてくれたり管理職って、こういうことなのかなと初めてイメージが持てた気がしたけど大野先生は「沢木くんのお父さんね」って意外な名前を出したから僕はやましいことを、親にでも隠してる子供みたいにびくっとしてしまった。
 自分より年下なんだけどやっぱり、大企業で若くして課長になる人って違うんだなと思った、PTA活動でもほとんど反感も買わずにどんどんいらない仕事をやめて負担を軽くしていってるしこの定例だって、保護者のみんなが経験の浅い橋之上先生のこと心配してるし橋之上先生のがんばりをサポートしてあげてほしいって沢木くんのお父さんに、それとなく言われて始めたんだよね。


 がんばりを先生はちゃんと見てるよってこと、伝えてあげることが生徒のモチベーションになるって定例でとなりの、おばちゃん先生に言われて沢木くんに、校外学習や文化大会のこと見えないところですごく色々してくれて成功したし西山さんも感謝してたし先生も、とても助かってるんだって伝えた。
 沢木くんはいつもの、はにかんだみたいな笑顔じゃなくて友達に、見せるみたいなぴかぴかの笑顔でほんとにうれしそうにしてやっぱり言って、よかったなと思った瞬間に
「僕まえ父に、言われたんです」
って沢木さんの話が急に出て僕の、顔に驚いた様子が出てないか不安になったけれど沢木くんは、うれしそうなまま話をつづけた。
 父が橋之上先生は初めての学級担任で絶対大変だけど僕は、中学校3年目でもうプロの生徒(?)なんだから先生の、仕事が楽になるように工夫したりするチャレンジだって、してみていいと思うよって言われて、学校の話を父がよく聞きたがるから色々話してたらアドバイス色々くれてやってみたんですけどそれで、ほんとに先生が助かってるんだって聞いてうれしいっていうかえっと、父のことは尊敬は、してるって言えばしてますけどなんか、なんでも熱心なところがうっとうしいときはたまにあります(笑)


 急に沢木くんの席のお父さんが手を挙げてほかの、保護者たちがぎょっとして注目した。
「PTAの仕事の内容が具体的によくわからないので、教えてもらえると助かるのですが」
 うまく答えられなかった。保護者になめられたらいけない時期なのに恥をかかされたと思った。結局役員経験のあったお母さんがかわりに答えた。
「隔週水曜夜に集まるのがメインなんですね……それなら……私、やってみようかと思います」
 でしゃばりなだけじゃないか。最初からやりたいならそう言えばいいのに。クラス委員が決まって一気に他の役員も決まっていった。
「初めての学級担任ということですし、私たちでサポートできるところはしていきたいですね。……だって。ね。こんなかわいい顔した先生が、困ってたらみんな、助けたくなるじゃないですか?」
 お母さんたちが嬉しそうに声を上げて笑った。ものすごく腹が立って顔が熱くなった。
「でも先生は先生なんだから、受験もあることですし、しっかりしてもらわないと困りますけど」と香坂さんのお母さんが言った。
「ええ、うちの子もまだ高校受験のこと全然考えてないみたいだし、私もよく分からないからすごく不安です。学年主任の先生や学校全体でサポートする体制になってるのか、チェックしないといけないですね」
 もっちゃんは会ったこともない、沢木くんのお父さんの肩をいつも持つ。
「そのお父さんはたぶん、はっしーのこと助けてくれたんだと思うよ」
 会ったばかりの相手にそんなの変じゃんか。
「わかんないけど、もともと人の満足を考えるタイプなんじゃないかな」


 隙間に入り込まれちゃったんだ。僕の何もかもを沢木さんがあっという間に支えていった。
 ちがうちがう僕は、沢木さんの特別なんかじゃない自分の、子供の環境を良くしたくてあの人は僕を支えてくれただけなんだとかさいしょから、そういう風に人を管理するのが好きな人なだけなんだとかどれだけ否定したって、うちに遊びにきて笑ってくれたのが、一緒に飲みにいって「橋之上くん」って呼んでうれしそうに僕の肩に置いたあの手のことが、何回だって思い出されてそうだよ僕は、沢木さんの特別なんだよってどこまでも矛盾していく。
 また会ったらきっと証拠を、沢木さんのうえにいくつも発見して安心したり不安になったりをくり返す。そんなの意味ないってわかっていてただ苦しい。
 4月になったら、早く4月になってくれたらもう、沢木さんとはただの他人になるんだってことがこんなに待ち遠しくて頭が、おかしくなりそうだ。こんなに会いたいって思うなら二度と、会うことはないって僕でも沢木さんでもない何かがいっそ、勝手に決めてくれたらいい。早く楽にしてくれればいいのに。

堀川くんと俺

 朝5時に2階の窓から隣家の庭を見下ろしたら、10歳くらいの少年がこっちをじっと見上げていた。はっきり俺の目を見ていた。磯野家の子供ではなかった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。
 少年はまだ雨戸も開いていない家の縁の下へもぐりこんだ。15分ほどたってひどく汚れた体で出てきた。そして帰っていった。翌朝も同じだった。その次の日は来なかった。


 予備校の帰りに駅の階段から突き落とされた。
「堀川です」
 あの少年だった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。腰も背中もずきずきと痛んで息もできなかった。
「大丈夫ですか?」
 堀川くんは勝手にタクシーを呼んで俺を押し込め、家まで走らせた。着くなり親父を呼び出して金を払わせ、俺を2階の自室まで運ばせた。そして堀川くんは俺の部屋まで当然のようについてきた。
「ぼく、ワカメちゃんの同級生です。かもめ第三小学校の3年生です」
 堀川くんが親父にそう言うのを聞いた。親父は何度も礼を言っていた。
「甚六さんの部屋からだとワカメちゃんちがよく見えますね」
 しかし堀川くんは窓の外を見ていなかった。部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。歩いている間は頭はしっかり止まっていた。急に立ち止まって、ベッドに横になった俺を見下ろした。頭がぐらぐらゆれていた。無表情だった。
「じゃあ帰ります」
 その日から飼い犬のハチがいなくなった。近所の人も手伝って家族総出で探し回ったが結局見つからなかった。


「おじゃましてます」
と堀川くんは言った。勝手に俺の部屋にあがっていた。オレンジジュースが盆に乗って正座した膝の前に置かれていた。頭がぐらぐらしていた。俺を見上げていた。
「甚六さんはワカメちゃんのうちをよく見ますか」
「堀川くんはワカメちゃんのことが好きなの?」
 堀川くんは急に握りこぶしで床を打った。怒ったのかと思ったが無表情のままだった。やや斜視気味の目が、どこを見ているのかわからなかった。堀川くんはオレンジジュースの残り一口を飲み干して、なめらかに窓を開けてコップを外へ投げた。磯野家の瓦屋根にうち当たってコップが割れた。中からサザエさんとフネさんが慌ただしく縁側に出てきて屋根を見上げた。高い位置から見下ろすと人間というより人形が動いているように見えた。
「甚六さんは恋人がいますか」
 俺はポテトチップスを堀川くんに渡した。堀川くんは袋の口をわずかに開けて空気を逃がしたあと、ぺしゃんこになった袋を床に置き、握った両手で中身を砕き始めた。手の動きとは独立に頭が激しくゆれていた。それから右手を猫のように熱心に舐め始めた。唾液でまんべんなく濡れた手を袋に突っ込んで引き抜いた。手の表面にべっとりついたポテトチップスの粉末をまた丁寧に舐めとっていった。3回繰り返したあと、チップスの袋を折り畳んで短パンの尻ポケットに差し込んだ。
「残りは犬にあげます」


 堀川くんはそれから5日連続で来て、そのあと7日来なかった。
 予備校から帰るともう部屋にいた。家族は、知的好奇心の旺盛な小学生が、俺を兄のように熱心に慕っていると思っているようだった。堀川くんは部屋の中を歩きまわって、様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。人間の価値尺度で測ると、あまりに残酷だったり、不条理だったりするような話ばかりだった。ほとんどおとぎ話か、教訓のように聞こえた。ポテトチップスを買い置いていた。口の中でたっぷり5分もふやかしてから食べたり、形を全て分類してから食べたり、毎回作法が変わっていたが、いつも半分以上を残して持ち帰っていった。
 そして来なくなった。ポテトチップスが溜まっていった。毎朝窓から隣家の庭を眺めたがそこにも姿はなかった。見逃しているのかもしれないと疑って、予備校に通うのをやめて一日窓から見張るようにしたが現れなかった。7日後に玄関チャイムが鳴った。堀川くんはハチを連れていた。首輪とリードが変わっていた。そしてひどく肥っていた。歩いていたのを偶然見つけたという。ハチは旺盛な食欲がもとに戻らず肥り続けていった。
 その日、堀川くんにどんどんポテトチップスを食べさせて肥らせる夢を見た。すごく気に入って、眠る前にベッドの中でそのイメージを思い浮かべるのが習慣になった。


「カツオくんは、日記を書いているの」
「書かないですよ。書いてもいつも三日坊主なんです。ほら、ぼく、ほんとに坊主頭じゃないですか。夏休みの絵日記だって最終日にお父さんに書いてもらうんですよ」
 話しかけるとうれしそうに三倍くらい返してくれるのがカツオくんらしいなあと思った。そうしてひとしきりしゃべってから、どうしてそんなことを聞くのという視線を向けてほんの少し、不安げな顔をする。
「たまたま物置を整理していたら、子供の頃に書いていた日記が見つかってね。今の子も書いているのかなと思って」
「すいませんぼく、書いてないんです。でもワカメは書いてますよ。いつも寝る前にノートに書いて引き出しにしまってます」
 俺は物置の整理なんてしていないし、俺は子供の頃に日記なんて書いていない。
 磯野家から人がみんないなくなることはめったにない。サザエさんが夕飯の買い物に出て、フネさんとタラちゃんの2人になるのが日常での最小人数だ。門から子供部屋のある方へまわる。ここの窓の鍵はいつも開いている。カツオくんが大人の目を盗んで遊びに行くからだ。靴を脱いで音を立てないように部屋へ入る。学習机が2つ、窓を挟んで壁際に並んでいる。どちらがワカメちゃんのかは一目瞭然だ。脇の引き出しの1段目を開けると、もうそこに「にっき」と書かれたノートがあった。ざっと目を通すと、1日に2行ほどの文章で、ここ12ヶ月分の日記だった。それより古い物もないかと別の引き出しを探っていると、未就学児童に特有の、電子音に似た足音が近づいてきた。
 ノートの背をくわえ、廊下に面したふすまに素早く身をよせて、両手でふすまのへりを抑えた。電子音が止んだ。ふすまを開けようとする力が手に伝わってきた。
 タラちゃんは何度もふすまを開けようとした。間歇的に正確なリズムでふすまを開けようとしてくる。幼児とは思えない力で、腕を突っ張って全力で押し返さないと敗けてしまいそうだった。
「おばあちゃーぁん……カツオお兄ちゃんのお部屋があかないですーぅ……」
 電子音が遠ざかる。
 ワカメちゃんの引き出しを全て元に戻し、窓を乗り越え外へ出る。音を立てないように窓を閉めようとするが木枠がきしむ。閉めきった瞬間、奥でふすまが開く音を耳にする。
「そうかい? ふつうに開くようだけれど……」
 フネさんとタラちゃんのいぶかしむ声を、窓の下で、壁に身をよせて聞いた。


 両親も妹も出かけて一人だった。昼寝から目覚めたら夕方になっていた。堀川くんが部屋を歩きまわっていた。他人の家に断りもなく入るなんて言語道断だと思った。
「だめじゃないか、不法侵入だぞ! 子供だからって絶対に許されない!」
 記憶にないくらいの大声を出した。大きな声を出してみたら、怒っているという実感が増した。となりの波平さんもこんな気持ちなんだろうな。この際、平手で頬を思い切り張りたおしてみようと思った。堀川くんは部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。
「だまれごくつぶし!」
 歩きまわりながら、俺より大声をだした。それから様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。
「ワカメちゃんの日記を盗んだんだけど、読む?」
 ベッドの端に座って堀川くんは膝の上に置いたノートをぱらぱらとめくっていった。俺はその隣で堀川くんの手元を覗いていた。堀川くんは頭が激しく揺れ、いったいそれで物が読めるのだろうかと思った。堀川くんはときどきページを指でさした。日曜日の箇所だった。いつも日曜日は空欄だった。
「その日記には堀川くんのことはどこにも載ってないよ」
 覗き込むように横顔を見つめたけれど、堀川くんは無表情のままだった。気にしているのは、いつも空欄の日曜日だけだった。読み終わって返されたから、ワカメちゃんの日記はそのままゴミ箱に捨てた。部屋が暗くなってきていた。電灯のスイッチを入れようとしたら
「まだ、待ってもらえませんか」
と堀川くんは言った。頭が揺れていなかった。二人でベッドの端にとなりあって腰かけていた。あっという間に部屋が暗くなった。起きているのに部屋が暗いままでいるのは変だった。子供のころから付き合いがあるのに知らない顔を見せられた気がした。色がなくなって、カーテンをひいていない窓から入る外の光を元手にして、ものの輪郭が残っているだけだった。堀川くんは、黙っているし、歩きまわってもいないし、頭もゆれていない。
 堀川くんが立って窓を開けた。
「聞こえますか。これ、一家団欒の声」
 今夜は波平さんもマスオさんも帰りが早かったみたいだ。にぎやかな声が適度に減衰して俺の部屋に流れ込んできた。夜7時くらいだろう。二人で窓辺に立って、磯野家を見下ろしていた。
 堀川くんは尻ポケットからスイッチを取り出した。
「甚六さんにだけ。ちゃんと見ててください」
 堀川くんは一瞬、犬みたいな呼吸をした。磯野家を指差した。つられて指の先を視線が追った。
 何が起こったのかわからなかった。巨大な地震が真下で起こったと咄嗟に思った。音と衝撃の区別がつかなかった。磯野家の縁の下から土煙が噴き出すのを一瞬見た。けれどすぐに土煙が激しく立ち上って視界を遮るのと同時に、体がはじき飛ばされて床に尻餅をついた。目の前の堀川くんが遅れてふらふらと倒れこんできた。胸でその背中を受け止めた。子供の体温が熱くて、動物だと思った。
「立たせて。ねえ、いっしょに見て」
 堀川くんの両肩をささえて立ち上がり、窓の外を見た。磯野家がそのまま低くなっていた。形を全く保ったまま、縁の下の高さだけ「落ちて」いた。
「あぁ~」
 堀川くんは制御できないほどの興奮に襲われていた。なすすべもないふうに俺に体重をあずけてきた。みぞおちに堀川くんの頭が押し付けられた。体に力が入らないようだった。あえぐように言った。
「家の……ぜんぶの柱っ、床下の……バランスがね、難しくて、……上の重さが違うから全然……でも、見たでしょっ! かんぺきに、同時に落ちるところ……」
 腕の中で、堀川くんが俺を見上げた。ようやく子供らしい顔をしていた。
「あのさあ、ほめてよ、甚六さん……大人でしょ」
 街灯の光があごの下、喉元、首、その肌に白々と当たっていた。なめらかすぎると思った。子供の肌がつまっていると思った。手のひらで撫でていった。包み込むというよりもう、絞め殺すような手つきになっていた。堀川くんは細かく痙攣していた。
「ポテトチップスがね、たくさんあるんだ」
 力が入らないままの堀川くんをベッドの上に運んだ。後ろから抱き止める形でポテトチップスを口に運んでいった。堀川くんはおとなしく、ふつうに食べていった。このまま永遠に食べさせつづけたいと思った。
 磯野家は引っ越していった。急に時間が流れ始めた。