絶望的な幸福が始まる
妖怪の娘
八十歳はぜったい過ぎてる。なのに妊娠してる。しかも足がぐちゃぐちゃ。どーなってるの? 優先席の権化みたいなおばあさんがこっちに来る。優先席に座ってるぼくの方へ!
おばあさんがぼくの前に立った。全身に大量の「おなかに赤ちゃんがいます」のキーホルダーをつけてる。思わず見上げると、おばあさんはぼくをガン見してた。白目をむいてるけどぜったいぼくを見てる。そしてガクガク震えてる。
席を譲った方がいいのかな? でもこう見えて実は元気かもしれない。いいんですいいんですって席を譲らせてくれなかったら恥ずかしいじゃん。老人扱いするなって怒られたら恥ずかしいじゃん。
「せ、席を、譲っていただけないでしょうか」
ほとんどヤスリで木を削るみたいな音だったから聞き取りづらかったけど、おばあさんがぼくにそう言った。それでほっとして、公式に席を譲ろうと思って立とうとしたら、いきなりとなりのサラリーマンがぼくの太ももをがっと押さえ付けて立たせなかった。そしてマンはマスクをしているせいで少し聞き取りにくい小声でぼくに
「こいつは妖怪ですよ」とささやいた。
こいつ妖怪なんだ。東京ってこわー。
「この妖怪に狙われた者は、席を譲ると命を奪われる。だからそのまま目を合わさずにやり過ごすと、命を奪われる」
「じゃあどうするの!」
「ガン見し返すんですよ」
アドバイスにしたがってぼくはおばあさんをガン見した。おばあさんもぼくをガン見してる。
「ぼく無理だよ。席ゆずっちゃう!」
「信じたまえ。全ての優先席は君のために存在していると信じるんだ」
「席を、席を、席を、席をゆずゆずゆずゆず」
おばあさんはあえぐように言ってる。ぼくは黙ってガン見してる。するとおばあさんは
「えげぇっー」
きゅうに破水した。
「いいぞ。あと少しだ」とサラリーマンは言った。
あと少しって何が? あ、出た。娘が生まれた。妖怪の娘が。ちょうど電車が駅に到着した。隣のサラリーマンは降りてった。先頭で乗り込んできた若いゆるふわカールの女が床に転がってるおばあさんと嬰児を颯爽と避けて風のように、さっきまでマンが座ってた優先席に座って目をつむった。
おばあさんは酸素の足りない金魚みたいに口をぱくぱくさせて、うわ言みたいにつぶやいて死んでいった。
「その娘、わ、わ、」
声変わり
わかめパウダーと呼んで妹のフケを収集していた磯野カツオであったが、大人たちはそれを黙認した。一方で兄の蛮行を告発する磯野ワカメについては、大人たちはそれを黙殺した。
しかるにカツオが学校でわかめパウダーを販売していることが判明するに及んで、大人たちは渋々カツオを召喚した。両親と姉夫婦がどれほど追求しようと彼はとにかくまずはパウダーを試してほしいと言うばかりだった。最初に義兄のマスオがしきりにカツオに同調する発言を繰り返し、ついに他の大人たちも埒が明かぬと同意した。
居間の円いちゃぶ台の上へ、四人分のパウダーが供せられた。それぞれの椀の底に一つまみほどの白い粉末がある。よくこれだけフケを集められたと大人が感嘆するとカツオは
「頭皮をヤスリで削ってるんだ」
と何か誇らしげに言った。大人たちはなるほど、と思った。
パウダーを前にしてマスオがにわかに異様な興奮を呈し始めた。彼の妻と義父母は冷ややかにそれを横目に見た。今にもむしゃぶりつきそうな義兄をカツオは牽制した。
「直吸いは、みんなにはまだ早いよ」
ヤカンの湯が各椀に注がれた。ただちに水を吸収してふえるわかめちゃん。吸い物が完成した。大人たちは食卓を囲んで椀に口をつける。調理実習の成果を家族に披露するかのように、カツオはやはり誇らしげに反応を待っていた。
ほどなくしてその反応はもたらされた。大人たちはやにわに立ち上がり阿波踊りに似たステップを踏み始めた。絶望的な幸福が始まった。
ちゃぶ台に上がってサザエが自身の髪だんごを引きちぎる。フネは波平のちょろ毛を引きちぎる。
カツオはその間に鼻から勢いよくパウダーを吸い込んだ。
「っふわぁ〜」
カツオは柱を背にしてものうげに座り込んでいる。夢見心地にときおり痙攣している義弟へマスオが近づく。
「カッツォくぅ〜ん、カッツォくぅ〜ん、びゃぁあーっ!?」
マスオは猫の真似をして顔をカツオの脇腹や脇にこすりつけ、ねじ込もうとしてくる。カツオはめんどう臭そうに、習字用の文鎮でマスオをガンガン殴る。マスオはうれしそうだ。
たかだか十五分ほどの幸福が過ぎると耐え難い疲労と倦怠が訪れた。大人たちは次のわかめパウダーをねだり始め、なし崩しに販売は許可された。
「でもお金を持ってないなら売れないよ」
親友と信じていた相手にすげなくパウダーの融通を断られて中島は、深夜に磯野家へ侵入した。カツオとワカメ兄妹の子供部屋へ窓から忍び込むと、あまりに濃密なわかめパウダーの気配にあてられて中島は鼻血を噴き出した。しかしこのパウダー臭で満足できるかと言えばむしろ、痒いところを厚手のコートの上から掻かざるを得ぬような、ひどいもどかしさに苦しめられた。気配が幸福の記憶を呼び立てて止まず、中島にその幸福の劣化コピーをそれと知って求めさせ、ほとんど自動人形のように暗闇の中を、わかめの原粉を求めてさまよわせた。
しかしあまりの混乱の中で、同級生の妹の粉末という認識が惑い、中島はあろうことか、布団をはねのけてうつ伏せで眠る兄のうなじに吸い付いた。ほとんど夢を見ているようだった。
「磯野。磯野。野球しようぜ」
カツオは蒸し暑さと重さで突然目を覚まし、腕を振って背中に乗った何かを撥ね除けた。しかしそれが中島だと認める前に、子供らしい眠りの深さに引き込まれて再び寝入った。カツオの肘が首もとに入った中島は昏倒した。
翌朝、いつものようにいつまで経っても起きてこない弟を起こしにサザエが子供部屋に入ると、弟と弟の男の同級生が絡まりあって眠っていた。単純にカツオの寝相の悪さのせいで絡み合った男子小学生たちだったのだが、サザエはそれを性的な遊戯と決め付け、大人たちを招集した。
「ヴァッカモーン」
「出て行け、とお義父さんはおっしゃっています」
「ヴァッカモーン。ヴァッカモーン」
「ホモなど認めん。許さん、と」
あの日フネに毛を抜かれて以来波平は「ヴァッカモーン」以外の言葉を発さなくなった。そして唯一その意図を汲めるのは、長年連れ添った妻でも実の娘でもなくどういう訳か、娘婿のマスオだけだった。それで義父の言葉を翻訳している。フネはそのことに微かな疑義を抱いていたが、娘婿への遠慮から何も言えずにいる。
「ヴァッカモーン」
「今すぐ出て行け」
カツオは泣き喚きながら誤解を晴らそうとする。大人たちはカツオの声が何かいつもより耳障りな気がして苛立ちを感じていた。変声期の男児の声など聞けたものではないにしても、今までは差しかかったばかりでまだ子供らしさを見せていたものが、今は急にその最も不安定で不愉快な声に入っているように思われた。それは彼が許しを乞うのに全く不利に働いた。
しかしその自覚もないカツオはほとんどしゃくり上げながら大声で弁解を続ける。その隣で中島も必死に親友を弁護する。女達はそれを気の毒そうに眺めるが一言も口にしない。波平は取り付く島もなく硬い表情を崩さない。その脇でマスオがにやにやと嗤っている。
「出て行け」
そうしてカツオと中島は追放された。
だがこれは大人たちによる追放というより、世界による追放だった。彼らが生きるこの世界が何十年と形を保存し時間を止めて生きながらえてきたのはひとえにその保守性による。ホモセクシュアルを、存在の可能性すら許さない保守性をいつも通り発動させたまでの話であって、ここで大人たちの意思は全く関係無いのだ。
しかし世界が自己保全のために講じたこの措置によって、主要人物を失った世界は結局形を崩すことになった。この崩壊が世界から強固さを奪って、時間が流れ始める。
その予兆が、カツオの声変わりだった。
カツオを失ってわかめパウダーの販売網もまた失われたが、人々はそれを許さなかった。磯野家を「業者」が訪れた。彼らはビジネスを持ちかけた。
「我々は既に地域一帯に販売網を持っています。路上で一対一で顧客へ健康薬品を販売しているのです。すでに我々の顧客からは問い合わせがありましてね。わかめパウダーの取り扱いはないのかと。もちろん磯野様へはこれまで以上の利益をお約束します。もちろん卸していただけますよね」
「業者」の提案はどこか有無を言わせぬものがあった。
「ヴァッカモーン」
そうして再びわかめパウダーは流通した。波平とマスオは仕事を辞めた。(マスオはともかく、波平が「ヴァッカモーン」しか言えずにこれまで勤めてこられたのは一種の奇跡であった。)昼間から磯野家はパウダーを吸って暮らし始めた。
しばらくして「業者」はパウダーの量産を要求した。しかしワカメは既に人間として限界を超えてフケを取られていた。これ以上とは土台無理な話だったが「業者」は引き下がらなかった。ワカメを増やせと言った。それで波平とフネは「業者」の目の前でセックスした。
「ヴァ、ヴァ、ヴァ……ヴァッカモーン!」
波平は果てた。あらかじめ「業者」に出自の分からぬ薬を飲まされていたフネは生理を復活させて妊娠した。双子のワカメを産んだ。ワカメは薬の影響か瞬く間に成長し量産体制に入ったかと思うと「業者」へ引き取られていった。
「ヴァヴァヴァ……ヴァッカモーン」
フネは次々とワカメを妊娠し、そのたびに妊娠キーホルダーを服につけてゆき、産み落とし、ワカメたちは「業者」に連れられていった。そしてそのたびに、フネは衰えていった。まず脚の筋肉が失われぐちゃぐちゃになった。そして容姿がますます老婆と化していった。
「お父さん、また産まれそうなんですが」
「ヴァッカモーン」
「一人で電車にでも乗って病院へ行けばいい、そして産め、とのことです」
「……はい」
全身につけた妊娠キーホルダーをじゃらつかせ、まともに動かぬぐちゃぐちゃの足を引きずりながらフネは出て行った。
「心配ですから僕がこっそり後を追いますよ。大丈夫です、お義父さん」
退職して以来久しぶりにスーツを着込んだマスオがそう言って出て行った。変装のつもりか口にかけた大きなマスクで表情ははっきりとは分からなかったが、波平にはマスオがかすかに笑っていたように見えた。もはや誰も聞く者もなく、その意味は知れないまま波平のつぶやきは虚空に溶けていった。
「ヴァッカモーン」
妖怪の娘たち
優先席は全部俺の席のはずなんだよなあ。俺は40代で健康だけど、優先されて当然って気がするんだよ。なのにほら、まぁーた俺の席に勝手に座ってる。学生共をどかして三人分の席に寝てやった。だけど男どもの汗の臭いが染み付いてムカつくから別の席を探す。車両を移動する。げぇー。ジジババの席なんて薬臭くてダメだ。とりあえず俺の席に勝手に座ってんのはムカつくからジジババを殴ってどかす。で次の車両。若い女が一人で座ってる優先席があった。ちょうどいいじゃん。いい匂いしそうじゃん? マジで頭くる。若いくせに俺の優先席に勝手に座りやがって。近づいてってボブカットのさらさらヘアをつかんで揺する。
「だぁーれに断って座ってんだドブスぅ?」
目の前が真っ白になる。俺は女に蹴り飛ばされてた。目の前に女が立って見下ろしてる。
「私は十五年前、お前が見殺しにした女の娘」
「妖怪の娘!」
「人間だ」
あのときの赤ちゃんが、いやぁー、大きくなったなあ。なんだかおじさん、うれしくなっちゃうよ。
「ここは人間の優先席に決まってる。妖怪の娘は電車に乗るな」
「私の母は妖怪などではなかったし、それに、ここは私専用の車両だ」
電車が駅に着いた。女そっくりの女が大量に入ってきた。車両を埋め尽くす。なんかすげぇいい匂いする。頭が痛い。俺、こいつの顔どっかで見たことある。
「この時間、ここはワカメ専用車両になります。ご協力をお願い致します」
あぁー。週刊誌で見たー。すげぇ覚醒剤が流行ってるって。女から採れる。こいつがその女じゃん? ヤクザから逃げ出してすげぇ抗争が起きてるとかって。あー頭いてぇ。甘ったるさが頭ん中に直接入ってくる。これがわかめパウダー? すげぇ。
あぁっ!? なんだこれぇ。俺の手ぇしわしわじゃーん?? いつの間に年とったわけぇ? 俺完全におとしより。座らないと死んじゃう死んじゃう。
「ゆずってくださぁい。ゆずってくださぁい」
全席にワカメ。全員俺をガン見してる。ゆずってくれない。絶望。あれれー? なんか腰が重い。見たら腹ボテ。俺妊娠してる。もう完全にゆずって。俺に席を!
なんでだれもゆずらない!
「あなたは健康ですよ」
ほんとだ。よく見たら俺しわしわじゃないし妊娠してない。
一瞬頭がすっきりしてそう思ったけどまた高齢妊娠状態になった。しかも足までぐちゃぐちゃになてるー! なんかちかちかする。普通の俺に戻ったり、高齢妊娠の俺になったり、点滅してる。
とにかく足がいたい。ひきずって。いたいよー。
「ゆずってくださぁい。ゆずってくださぁい」
なんでだれもゆずってくれないの! 頭がいたいよ。なんか点滅がおさまってきた。超高齢妊娠の俺におちついた。あぁ、腹が重い、足が痛いし俺が、俺が、
「あぁー、俺が妖怪だったねえー!?」
「あなたは人間です。人間としてここで死ね」
家族
狭く、ひどく熱のこもったアパートの一室で磯野カツオは、昔、開け放たれて風がさわやかに通り抜ける広い畳敷きの客間で仰向けに寝転がりながら、軒の向こうの青い空をぼんやり眺めたことをふいに思い出していた。確かに自分はそんな家に住んでいた。
今はうつ伏せに寝て、首を起こして窓の外を見上げても、せいぜい向かいの家の壁が迫っているだけで空も見えない。風も通らない。
耳元に熱く荒い中島の息がかかる。うつ伏せに寝たカツオの下着だけをずり下げ、その上へ覆い被さり、自身のペニスをカツオの尻の割れ目の、腰に近いあたりに押し当てて擦り付けている。エアコンなどない夏の夕方でひどく蒸し暑い。時折中島はカツオのうなじにむしゃぶりつく。カツオは表情もなく中島のするがままにさせている。しかし頭をつかんで振り向かせ、中島が口を吸おうとした時には頭を無理に戻して枕に顔を埋めて拒絶した。中島が動きを止めたのを感じ、後頭部にその視線を感じたが、カツオは汗を吸って重い枕に顔を押し付け続けて黙っていた。しばらくすると擦り付ける動きが再開された。単調な動きと息を無視して、カツオは今ここに至るまでを繰り返し思い出し続けていた。どうして今自分がこうしているのか漠然とした疑問が不断に湧き続けながら、それを考察したり分析したりする仕方を、そもそもその方法の存在すらを、小学五年生を終える前に子供だけで生きざるを得なかった彼は、誰かに教えてもらう機会を持てずに、ただひたすら思い出すことしかできなかったのだ。少しずつ細部を忘れ、何かのマンガで読んだエピソードとすり替わってしまうことに気づきもせず、ただ思い出す。はじめは八百万円。わかめパウダーを売って得た金は放逐された子供二人には無限のように思えたのに、まともな宿に泊まれば減り、ひとつ所に居れば怪しまれるから他所へ移動すれば減り、誰かに騙されては減るうち彼らが十四になるあたりには底をついた。
それから路上で生きていった。警察に目を付けられる前に徒歩で去る。ひたすらどことも知れず移動を続ける中で、ある街の裏で男が小さなビニール袋に入った粉を受け渡しているのをカツオは偶然目にした。男は強く睨んだがカツオは何気なく男に近づき、それはわかめかと尋ねた。男も気紛れに「舐めてみるか」と応えた。何かとても懐かしく思えてカツオは粉を口に含んだのだったが、すぐに頭が割れるように痛んだ。「こんなのわかめじゃない!」一瞬男は気色ばんだが、わかめパウダーを見極める腕を買われてカツオは男に拾われた。
やくざに飼われた生活は、カツオの今の記憶ではきらびやかな武勇伝に満ちたものだったが、それはほとんどマンガのあれこれが混じり込んで本人も気づかないだけで実際には顎で使われ続けて二十歳を迎える前に捨てられただけのことだった。しかしこの偽の記憶を思い出すことが、彼の小学生時代の記憶と並んで彼の何よりの楽しみだったから特に念入りに思い出し、敵対するやくざとの修羅場等々ありもしなかった場面の細部を埋め続けてもはや、それが偽の記憶だとは彼には到底信じられなくなっていた。
捨てられてから、同じ街で歳を偽り職と住処をすでに手に入れていた中島に身を寄せた。それから中島の行為が始まった。最初は意味も分からず気持ち悪く思っていたのだが、転がり込んだ負い目から黙ってさせているうちにどうでも良く思えて好きにさせている。中島が果てる。腰のあたりがべたつき、少し遅れて独特の臭いが鼻をついた。中島が体を起こして床に座ったままいつまでも拭き取ろうとしないことにカツオは苛立った。
「おい、拭けよ」
「ああ。なんだ、タバコ切れてるのか」
そのままの姿勢でカツオは時計を見上げた。バイトにはまだ十分間に合う。カツオは今は居酒屋で働いていた。中島もまた別の居酒屋で働いていたが、今日は休みだった。カツオはそれをひどく羨ましく思った。バイト先でカツオは客や同僚に訳の分からない注意を受けることがままある。その訳の分からなさに苛立っていると相手も苛立ちを募らせて怒鳴り始める。誰もが最初は怒鳴るが、途中で彼が本当に自分の言うことを理解できないのだということに気づいて少し驚いた後、呆れて彼を馬鹿呼ばわりする。そのたびに彼自身も自分が馬鹿なのだと思い込んで自尊心を削って少しずつ卑屈になってゆく。昔、勉強はできなくとも頭はいいと、要領のいい子供だと言われていた記憶が遠く今でもかすかな誇りとなって残り、一瞬の反抗的な態度を彼から引き出すのだが、周りはそれに苛立って彼を馬鹿と蔑む。そうして彼の自己肯定はほんのひとときの持続も許されずに圧殺され、代わりに否定が重ね合わされ、卑屈になっていくのだ。
金に余裕が無いからテレビも携帯電話も持っていない。休憩時間に同僚が世間話をしていても意味が分からないから加わらない。とにかく嫌になって、それでも少しは辛抱して1年あまりで次々とバイトを変えてきた。ほんの少しリセットされた気もするがすぐに元通りになる。思考する道具も貧しく、すぐに頭が熱くなる中で考え抜いてようやくカツオが到達したのは、こうして毎日が同じなら別に、それは無くても同じだという考えだった。ただそれは、自殺を選ぶという積極ささえも持たない、ただの認識だった。考えていく中で、もっと勉強すれば良かったと、ひょっとして五年生までの長くはなかった小学校生活のうちにでも真面目に勉強していれば今がずっと違ったものになっていたのかもしれない、といった後悔が浮かんだこともあったが、それは長く持続せずに消えた。今から勉強し直すという考えにはまた至らなかった。そもそも勉強は学校でするものという思い込みの外へ出るには、あまりに彼に与えられていた思考の材料は貧弱だった。
とまれかくまれバイトに行くまでまだ五分あると気づいた彼は、思い出を辿るずっと気分のいい作業をもう少ししようと思い直した。
「お兄ちゃん」
ワカメだった。いつの間にか玄関に立っていた。カツオはどういうわけか、少し笑ってしまった。それからまだ下着がずり下ろされたままだったことを思い出し、色の抜けて生地も薄くなったトランクスを慌てて引き上げた。それから
「ワカメだよな」
と何か言葉で埋めなければというほとんど義務感からとりあえず口にしてみたものの、実際には一目見てワカメだと、髪形は少女のころから変えていないものの、背も高くなり顔も大人びていたが、彼女がワカメなのは当たり前のことで外の可能性を考える余地も無く分かっていた。目の輪郭はくっきりとして意志を感じさせ、肌も艶やかで、身につけている赤いワンピースもとても滑らかで美しく、カツオはたまらなく恥ずかしくなった。急に自分の顔のことを思い出していた。ここ最近、鏡を見た時にふと、他人の顔のように思うことがある。いったいこれが自分の顔だろうかと不思議に思い、ひどく嫌な気分になるのだ。彼本人は何がどう作用してそんな印象を自分自身に与えるのか分かっていなかったがそれは、彼の顔が人より早く老いを見せ始めていることから来るのだった。まるで容赦なく、食事や睡眠に余裕を持てない暮らしは彼の肌から水を奪い、職場での覇気も家庭での談笑も無縁な暮らしは彼の顔から筋肉を奪っていった。肌は荒れ、まぶたは腫れぼったく下がり、口の端を上げて微笑ませる力も失われ、彼の二十六という年齢を、その表情だけで十も押し上げていた。
それからようやく、同居人に意識が向かう。すぐ脇で湿った畳の上でまだあぐらをかき、自分とさして変わらぬ下着姿でワカメを見上げたままぼんやり座っている。この、まともな家具も家電もない閉め切った澱んだ空気に満ちた部屋で。もう何もかもがたまらなく恥ずかしくなった。小学五年生で止まっていた妹に対する兄の自尊心が十五年経って突然再開され、かすかな混乱をもたらしながら、こんなところを見られるのは嫌だと強く思わせて、咄嗟に口に言わせるのだ。
「悪いけど帰って。これからバイトだし」
けれど妹は許さない。
「それはできないの」
ワカメは部屋の中へ進み入る。その後ろから全く同じ姿形のワカメたちが何人も続いて入る。「中島さんは少し下がっていて下さい」と丁重に何人かのワカメに連れられて中島は部屋の入り口あたりまでおとなしく下がる。狭い部屋がたちまち妹たちで満たされた。
懐かしい妹の匂いが部屋に満ちてゆく。
「お兄ちゃん、これは決して復讐というものではないの。ただ、責任を取るということなのよ」
「そうか」
責任、と言われてもよく分からなかったが、分からないなりに何か妹の言うことに納得して素直にうなずいた。ひょっとして十五年ぶりの自尊心はもう、近ごろの卑屈さの習慣に襲われて消えたのかもしれない。妹の輝かしい姿が、自分を下と位置付け、彼女の言うことは全て正しいと見做して安住する道を無意識のうちに選ばせたのかもしれない。しかしそんな理由を我々が忖度することなど完全にむなしく、彼自身はひたすら安らかで、この生活の中では夢想すらしなかったほどの幸福に全身を浸していた。その幸福に誘われて、昔の家族のことをふと思い出した。妹に問うというより独り言のように口に上った。
「父さんや母さんや姉さんは、みんな元気なのかな」
「もう残りはお兄ちゃんだけ、ごめんね」
本当にワカメだらけのこの部屋で、大気圧が幾倍にもふくれあがって懐かしい匂いがかすかな凶暴さで体を満たしてゆく。頭が宙に浮いているようで意識がきれぎれになる。ああ、ぼくは、死ぬんだとカツオが思うのと全く同時に、入り口近くにいた中島もそれに気づいたらしく、突然絶叫して部屋に入り込もうとした。しかしワカメたちが中島を押さえて身動きを取らせない。それでも必死に身じろぎして名前を叫んでいる。
「磯野、磯野!」
ふいにカツオの耳に(野球しようぜ)という中島の声が届いたように思えたが、さすがに幻聴だと気づいて、おかしく思った。そしてこんなに自分は楽な気分の中にいるのに、中島が必死に叫んでいるのが何か不思議な気がして、またすこしおかしく思った。本当に何年ぶりかわからないほど久しぶりにカツオはほほ笑んでいた。とても自然に、掛け値なしに。
目の前のワカメたちがゆっくり透き通っていき、たった二人で生きてきて今、声も遠くもはや聞こえないけれど、自分の名前を必死に叫び続けている中島をまっすぐ見ていた。
「こんなことなら、今日死ぬのだったら」
後悔と呼べるような焦りや胸の痛みや息苦しさを、まったく感じないままカツオは思った。
「キスぐらいさせてあげればよかったな」
家族
「済んだかい」
「マスオ兄さん。全部終わったわ」
「血は繋がっていないけれど、ぼくはワカメちゃんたちを本当の妹だと思っているよ。ぼくだけが君の家族なんだ。たった一人の」