OjohmbonX

創作のブログです。

引かなくていいかもしれないボーダーラインを引くことしか頭にない人たちを減らしたい

 ここで私は、体系一般――物理学の諸体系、倫理体系、宗教、その他――に対するごく簡単な私の理解・認識を示す。
 私は、<私の理解・認識>と同じものを読み手・貴様らに持て、と言いたいわけではなく、そういった理解・認識をこれまで持たなかった読み手・貴様らに対しては、こういった考え方があるのだ・これを持てばある種の問題を解決するのに役立つかもしれないと提案しているのだし、すでに私以上に優れた理解・認識を持っている読み手・貴様らに対しては、それを私に差し出、ユー! 差し出しちゃいなよ☆ と言いたいのである。


・体系の構成
 体系は、仮定と結論と論理から成り立つ。

  • 仮定 : 体系の中の他の仮定や結論から導かれたものではないもの。現象などの観察により最も妥当と思われる少数の仮定が体系に採用される。結論を導くための足がかり。*1
  • 結論 : 仮定や他の結論から論理によって導かれるもの。
  • 論理 : 仮定から結論を、あるいは結論から他の結論を導くもの。

 それぞれの説明の中で他が入り込んでいるが、定義ではないため構わない。単に、私が体系に対して下図のような(有向グラフの)イメージを持っていることを説明しているだけである。

 上図で、矢印が論理を表す。


・体系の育て方の指針<オッカムの剃刀>について
 ある体系へ新たに結論を導入しようとするとき、[1]新たに仮定を採用する、[2]体系に既存の仮定あるいは結論から論理的に導く、という2つの方法があるが、まず試みられるのが[2]であり、それが困難な場合(つまり、既存の仮定が不十分だった場合)に[1]の方法を選択する。この[1]より[2]の方法を優先するという指針、すなわち、仮定をみだりに採用しないという指針が、<オッカムの剃刀>である。*2
 <オッカムの剃刀>という指針が存在する・体系がみだりに仮定を採用しないのは、仮定が主観的なものであり、(仮定や結論から他の結論を導く)論理が客観的なものであるためである。ここで、主観的・客観的のここでの語義を説明しておく。

  • 主観的なもの : 誰にとっても同じではないもの。感情など。正しい・正しくないと決定できない。
  • 客観的なもの : 誰にとっても同じもの。現象など。(同じ体系を共有していれば)正しい・正しくないと決定できる。

 論理により導かれたわけではない仮定は客観的なものではなく、何を仮定として体系に採用するかというのは主観的な問題である。*3
 仮定をみだりに採用することは、それだけ主観的なものを体系に招くことになるのであるから、体系としての普遍性が失われる・体系の適用範囲が狭まる可能性がある。そのため、仮定を採用する前に、体系に既存の仮定/結論から論理的に導くことを試みるのである。


・体系にとって結論=現象である必要はない
 論理に誤りが無くとも導かれた結論が現象と一致しない場合や、方法[2]だけでなく方法[1]によってさえも現象を結論として導き得ない(方法[1]により新たな仮定を採用しようとすると体系に既存の仮定や結論と矛盾が生じる)場合がある。しかし、これらの場合の発生は、体系が誤っていることを意味しない。
 体系で用いられた論理に誤りが無いのならば、体系としてある現象を説明できないのは、もっぱら仮定の選択に起因する。しかし、仮定の選択は主観的でしかなく、正しい・正しくないといった問題ではないのだから、体系が誤っているとは言えないのである。(もちろん、こういったことを理由に他の体系に取って代わられることはあるが。)




 以上が、私の体系一般に対する理解・認識である。
 この<私の理解・認識>に関連して、いくつか思うところを書いてみる。


・主観的なものと客観的なものとの峻別
 上記のような体系に対する理解や認識を、物理学などの体系に対しては持ちながら、倫理などの体系に対してはなぜか持たない人というのが、案外多いように思う。
 そういった人たち(や、物理学などの体系に対しても上記のような理解・認識を持たない人たち)は、<オッカムの剃刀>などそ知らぬ顔で(もしくははなから知らずに)、倫理の問題に対して真っ先に仮定を採用しようとしたりする。彼らは、様々の現象(人々の価値判断とか医学的事実とか)をよくよく勘案して仮定を選択しようとするのだが、そもそも仮定を採用しない・体系から論理的に導き出す、という考えは思い浮かばなかったりする。
 要するにこれは、いろいろな問題を体系的に解決しようというのではなくて、個別に解決しようとする姿勢である。個別に解決する方法は、体系的に解決する方法に比して、主観的なもの(仮定)がより多く入り込むために、誰にとっても同じであるような、普遍性の高い結論を得にくい。


・ボーダーラインを引くこと
 上に書いた、<彼ら>が倫理の問題に対して採用しようとする仮定として、ボーダーラインの設定を例に挙げることができる。
 ボーダーラインの設定とは、例えば、人工妊娠中絶に関するボーダーライン(胎児の人権はどの時点で発生するのかとか、人工妊娠中絶はどのケースで容認されるのか(原則的に容認しないが強姦の場合は容認するなど)とか)であり、死刑に関するボーダーライン(どの種類の罪を犯した場合に死刑とするのか)である。
 多くの場合ボーダーラインは、先述の通り、様々の現象(人々の価値判断とか医学的事実とか)をよくよく勘案して設定されはしても、そこで問題としている体系から論理的に導かれて設定されるわけではないため、ボーダーラインの設定は仮定の採用にほかならない。


・<論争>について
 AとBとが<論争>している場合、そこで仮定の採用について争われていることはまれで、実際には、AがBの論理の間違いを指摘しているが、BがAの指摘を(Bの能力の低さのため)理解できずに見当違いのことを言っている、という場合がほとんどのような気がする。(それらは論争と呼ばれていても、本当の意味で論争ではない(指摘とか啓蒙とかではある)から、括弧つきの<論争>である。)


・<私の倫理体系>への誤解
 「楽をしたいだけ」(id:OjohmbonX:20070209)というエントリで私は私の倫理体系について簡単に提示したのであった。
 その<私の倫理体系>では、「客観的な人間の存在意義はない・人間の存在意義があるとすれば、それは全て主観的なものである」という仮定を採用している。仮定は、「人間は神に奉仕するために存在する」とか、「人間は他人の幸福を追求するために存在する」とかを採用しても構わず、そういった他の仮定を採用した体系を、私は――その体系が論理の部分で誤っていなければ――否定しない。(もっとも、少なくとも私にとって「客観的な人間の存在意義はない」を仮定とすることが最も自然であるという確信と確証とがあったために、それを選択したのだが。)しかるに、「楽をしたいだけ」の読み手の少なからぬ一部は、私が<私の倫理体系>を唯一絶対のものとして提示していると誤読した。
 脚注に書いたように仮定の選択という結局主観的でしかあり得ない問題は、<しかし全力をもって客観性へと向かうもの>でなければならない。仮定の選択を客観性へと向かわせるべく、私は、システムの要素として見たときの人間(全体あるいは個人)の存在意義の発見の困難性(あるいは、不可能性)を示したのであったが、これが誤解を促した(仮定の選択は主観的でしかない、という事実を見えにくくした)のかもしれない。

*1:仮定が<他の仮定や結論から導かれたものではないもの>と書いたが、このことは、仮定が結論から導かれないことを必ずしも意味するわけではない。たとえば、あるAを仮定とみなすとそこからBが結論として導かれるが、Bを仮定とみなすとAが結論として導かれる、というようなこと・相互的に導きあうというようなことがある。仮定は、結論から導かれる必要のないものである。

*2:新たに仮定を採用したところ、その後、体系に既存の仮定あるいは結論からその仮定が論理的に導かれたという場合も考えられるが、これは明らかに[2]に含まれる。

*3:もっとも、<何を仮定として体系に採用するかという>結局主観的でしかない問題は、<しかし全力をもって客観性へと向かうもの>でなければならないが。