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OjohmbonX

創作のブログです。

秘剣さざなみ

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1

「奥さまはどんな方?」
 和室で男女が膝をつめて杯を傾けている。夜具が端に見える。行灯の光で二人の顔が強い陰影を作っている。女は芸妓、男は侍、いずれも年は30手前くらいだ。
 賑やかな声が遠くで流れ続けている。
「どんなと言って……」
「仲睦まじくていらっしゃるの?」
「だったらこんなところには来ない」
 男は吐き捨てるように言った。
「醜女だよ。失敗したんだ。婚儀が決まってから知った。もう遅かった」
 男は恥ずかしさを隠すように早口に言った。女はうれしそうに口角をあげる。
「おかげさまで、こうして俊之介様と……」
 突然男が素早くにじり寄り、回すように女を抱き込み接吻する。直後、彼らの背後のふすまが大きく開けられる。向こうから大男が二人を見下ろしている。男の顔は影になって見えない。
 二人は男を顧みず唇を強く押し付けあい、くぐもった声を上げ、裾がはだけてあらわになった太ももに手を這わせる。
 ふすまの向こうの男は無言でそれを見下ろし続けている。ちょうどふすまの縁が正方形に区切って、その中に男が光を背にして立っている。30秒ほども微動だにせず見下ろしたあと、そのままの姿勢で左腕だけを動かしてふすまを素っ気なく閉める。
 女を抱いていた男が流し目にそれを見届けてから、女を離し、畳を滑ってふすまのそばに寄り、隣室に耳をすませる。女は乱れた着衣を直して座り直し、何事もなかったように手酌で杯をあおる。
 男はじっとそのままの姿勢で隣室の様子をうかがい続けている。女はその手前でやわらかくゆったりした動きで杯をあおっている。

2

 男女が寝具の中で絡み合っている。俊之介様、おもん、とお互いの名をうわ言のように呟き息を荒らげながら交わっている。おもんがやや背を起こして掛け布団がすべり落ち、背が露になる。滑らかな肌に肩甲骨の形がういている。俊之介の大きな手がおもんの背にまわってつかむ。二人の息がさらに荒くなっていく。


 先程と同じ部屋の中、布団を腰までかけて二人が並んでいる。奥の俊之介が足を投げ出して座り、手前のおもんがうつ伏せに寝て肘をついて上体をわずかに起こしている。
 二人とも無言でぼんやりしている。二人の静かな呼吸に応じてわずかに体が動くだけだ。
 ふいに俊之介が立ち上がり、床に打ち捨てられた着物を拾い上げ袖を通す。おもんはそのままの姿勢で俊之介が着替えるのを手伝わない。
「筒井様のお屋敷へ寄って報告せねばならんのでな」
 おもんが答えないのでそれは俊之介の、言い訳のような、一人言のようになった。俊之介が帯を絞め終え、袴を引き上げるところで、おもんが最前のままの姿勢でようやく口を開く。
「明日は?」
「明日も来る」
「うれしい」
 おもんの口調は別段うれしそうでもない。俊之介が袴をつけ終え、刀を差し、おもんに向き直ることなくそのまま部屋を出ていく。おもんも振り返らない。俊之介が出ていった後もおもんはそのままの姿勢でぼんやりしている。

3

 茶の間で俊之介が背筋を伸ばし視線を俯けて一人座っている。行灯の橙色の光が影をつくりながら照らしている。白色雑音がかすかになり続けている。
 俊之介の背後のふすまが、ほとんど動いていることがわからないほどの速度でゆっくりと、音もなく開いて止まる。隙間から同じような速度でゆっくりと女の顔が出現する。顔は半分だけを覗いて止まる。
 女はほほの肉と一重まぶたが重たげに垂れ、眉はほとんどないほどに薄い。無表情のまま顔半分で俊之介の背に視線を据えている。部屋には入らず、その場で動かない。俊之介は気づかないのか振り返らない。
 二人とも黙ったまま時間が過ぎる。もはや時間が止まっているようだが、行灯の火のゆらめきと流れ続ける白色雑音によって時間は紛れもなく経過していく。ふいに女が口を開く。
「お夜食は?」
「それは嫌味か? 勤めで遅くなったわけじゃない。遊んできたのだ。腹を空かせて遊んでいる馬鹿がいるか?」
 俊之介は振り返りもせず口早に憎まれ口を叩く。女は何も答えない。
「もういい。先に休め」
 女は極めて緩慢な動きで先ほどとは逆に顔を引き込めふすまを閉めて去った。
 俊之介は湯飲みを手に取るが、口許に運ぶ前に止め、また上げるが再び止めて、しかし畳に下ろすこともなく、じっと視線をそこに落としている。

4

 広い畳敷きの空間に、俊之介が畏まって座っている。何の音もしない。昼間の明るい光が大きな部屋を満たしている。奥のふすまが開き、長身痩躯の老人がさっさと入り、俊之介の前に座る。老人は俊之介の顔を見つめている。睨んでいるわけではないが、もとが険しい顔つきのせいであたかも咎めているようだ。
「そなた近頃、染川町の茶屋に通っておるようだな」
「は? は。いえ。恐れ入ります」
 俊之介の全身に力が入り、緊張しているのが見て取れる。いっそ震えてさえいるようだ。
「そなたの父を儂は覚えておるが、茶屋遊びなどとは無縁の男だったが……鬼子というわけかの」
「は……」
 俊之介はますます視線を落とす。
「ん? ああ、責めているわけではない。そんなことを責めるためにそなたを呼んだのではない。ある頼みがあってのことだ。先だって勘定組の蟇目七左衛門が斬殺されたのはお主の耳にも入っておろう。早朝に、旅支度で、ただ一太刀のもと斬り伏せられておった。相当な手練れによるものだったという。あれは儂が大目付の服部権兵衛に命じて調べさせておった者だが、突然に殺されて調べも頓挫した。というのも実は先々月の晦日の帳簿ジメに、元締めである小宮山作内より藩庫から二千両が消えたと報告があった。これはなみなみならぬことで小役人一人の盗みなどという話ではない。それで内々に服部へ調べさせておった矢先、先月の末にはその消えた二千両がそっくり戻っていたとの由。ますます奇っ怪な話ではないか。そのようなたいそれた事のできるのは先の家老、本堂修理をおいて他にないと儂は見当をつけ、本堂派の勘定組であった蟇目を探らせて……」
 老人の言葉はよどみなく続いていく。俊之介は聞いているのかいないのかわからない表情でぼんやりしている。一度も手をつけず、湯気もたてない目の前の茶を見つめている。
「さて、浅見」
「はっ」
 名を呼ばれて俊之介は顔を跳ね上げる。
「お主に頼みたいことと言うのは、本堂派の動きを探ることだ。本堂派の者共がひいきにしておる松葉屋は、ちょうどお主が通うておる茶屋というから、うってつけと思うが。茶屋通いの金は無論こちらが持つ……やってくれるか」
 老人はまばたきもせず俊之介の顔に視線をひたと定めて動かさない。
「はい」
 俊之介は老人の視線を外して自動的にそう答える。

5

 おもんが三味線をひき唄をうたう。俊之介は杯を傾けて目を閉じ聞き入っている。
 うたが止み、三味線が止み、おもんが放心したようにばちを持った腕をだらりと下げている。俊之介が目を開き微笑んでおもんに声をかける。
「上手いもんだな」
「あたしだって好きで上手くなったんじゃないんですよ」
 思いの外ぴしゃりとしたおもんの物言いに、俊之介は一瞬目を見張り、そして沈鬱に視線を伏せる。


 明るい日のなかで門のすみに老人が小さくうずくまっている。置物のように身じろぎもしない。表通りを過ぎてゆく人々も老人を一顧だにしない。
 門から10歳ほどの少年が現れると、老人は顔をあげ立ち上がるが、ほとんど背丈が少年と変わらない。背筋が強く曲がり左に傾いでいる。
「俊之介様」
 老人が少年とつれだって歩く。老人のよちよちした歩調に少年が合わせている。
「俊之介様、お勉学のほう、今日は、いかがでしたか」
「うん。今日は論語をこのまえより進んで、いつもと同じ、先生に続いて読むんだが、彦三郎のやつがね、また一人で間違えて」
 少年はうれしそうに、手振りをまじえて一所懸命に老人に話をしている。老人もうれしそうにそれを聞いている。
 二人は一軒の田舎家へと入っていく。
「おもん。おもんや」
 老人が奥に声をかけると、開けっ放しの戸から少女がひょいと現れる。
「はあい。あら。俊之介様、いらっしゃい」
 俊之介よりわずかに年長の12歳ほどの少女だ。田舎娘らしく質素な身なりだが、着こなしは整っている。こだわりなく俊之介の手をかろやかに取って、家に入りかけた俊之介を外に連れ出そうとする。
「おじいちゃんあたし、俊之介様と遊んでくるからね」
「うん、ああ、日があんまし傾かんうちにな」
「はいはい」
 おもんは俊之介の手を引いてゆこうとする。俊之介はあわてて十字に縛った本を上がりかまちに放り捨ててついてゆく。
 二人は田舎道をずんずん歩いていく。小川について、おもんは魚を見つけて指をさす。「よし」と俊之介は手近な小石を拾ってそこへ向けて思いきり投げる。もう興味が移ったように俊之介はそばの低木によじのぼって葉っぱをいくらかちぎって握りしめたまま枝から飛び降りる。小川にその葉をぱらぱらと落とし、行方を少し追って戻ってくる。おもんは笹を一枚ちぎって、あざやかな手早さでそれを笹舟に仕立てあげる。「上手いな!」とその手元に顔を近づけて俊之介が感心するとおもんはけらけら笑う。それを俊之介に手渡して、自身はまた笹を一枚ちぎって小舟をつくる。二人で小川に浮かべ、それを追って川沿いを跳ねるように歩いていく。

6

 暗い夜道、町家の塀が続くなかを足早に俊之介が歩いている。耳をすますともうひとつ別の足音が聞こえる。その足音は徐々にはっきりして紛れもないものとなる。俊之介がぴたりと立ち止まり素早く振り返る。もうひとつの足音も止む。20メートルほど離れた位置に大柄な男が立ち止まっている。顔は暗く判然としない。俊之介はほとんど駆け足のような早足で歩き去る。
 茶の間で俊之介があらい息をついている。ふすまのわずかな隙間から妻の顔が覗いている。
「おい、閂をかけてこい。ああ、表に誰かいるか、見ておけ」
「はい」
 妻が異様な素早さで姿を消す。俊之介が額の汗を手の甲で拭う。息が少しずつ整い、上下していた体も穏やかに落ち着いていく。深いため息を一つついたところで妻が戻ってくる。先程よりもやや広いふすまの隙間から顔が半分だけ覗いている。
「表にはどなたも見えませんでしたが……何かおありでしたか?」
「何でもない」
「でも……」
「何、でも、ないと、言っている!」
「……」
 二人とも黙ってしまう。あの白色雑音がまた底で鳴っている。妻の顔がゆっくりと敷居の上を通過してにゅーっと部屋に入ってくる。体は部屋の外のままだ。顔に光があたって、その狸のような面相があらわになる。どういうわけか微笑んでいる。
「お夜食は?」
「いらぬ! 当然だ! 勝手に寝ていろ!」
 微笑とも悲哀ともつかない平たい顔が、鳩時計のようにゆっくり引っ込んで、ふすまが閉じられる。


 俊之介が疲れきった沈鬱な表情で視線を落としていると別のふすまがさっと開かれ、ちょうど稜線で正方形に区切った空間に痩せた長身の老女が立っている。
「母上」
とそのまま振り返ることもなく、一人言のように俊之介は呟く。
「まだお目覚めでしたか」
「酒が匂いますよ」
「付き合いがあるのです」
「あれはできた嫁です。私の目に狂いはなかった」
「……」
「邦江は知っていますよ。器量の悪さで俊之介どのが自分を疎んじていると、わかっていますよ」
「そうですか」
「あわれな。あまりにあわれな」
 俊之介は泣き出しそうな、痛みに耐えてでもいるような表情で黙っている。母親は鋳造品のように表情をひとつも変えない。口を開くたびに、お歯黒のせいで、口がぽっかりと黒く開いているように見える。
「仮にも夫婦でありながら、慈愛というものはないのですか。このようなむごい仕打ちを自分の妻にして、あなたは地獄行きでも目指しておるとでも言うのですか」
 母親は部屋の外から息子を見下ろしている。俊之介は苦痛の表情で押し黙っている。
「それならそれでよろしい。地獄に落ちて、焼かれるがよろしい」
 寝巻きの上に着た濃紺の羽織の、豊かな裾をひるがえして、ふすまを閉めずに母親が去る。真四角の黒い闇を背にして、俊之介は黙ったまま息をひそめている。

7

 明るい屋外、店先に腰かけて邦江が往来を眺めている。微笑しておだやかな顔でそよ風を受けている。ありふれたおばさんという雰囲気だ。齢は30を越えていないように見える。顔と同じく体つきもずんぐりしている。
 通りは混んでいるわけでもなく、けれど人の行き来が途絶えるほどでもない。子供のはなやいだ声のかたまりが近づいてくる。剣道場の帰りの少年たちだ。その中に一人少女が混じっている。少女も木刀の先に道着をくくりつけて肩に担いでいる。少年たちと楽しそうに声をあげて歩いてくる。ちょこまか動き回りながら、道のむこうからあちらまで通りすぎていく。


 イヤーッ、ハッと囃子のような声、木の床を叩く足音、木刀同士が打ち当たる乾いた音が響く。
 板張りの道場に白い麻の道着姿の青年たちが並んで座っている。唖然とした表情や憮然とした表情が連なって誰もが正面を見つめている。彼らの顔の連なりの左隣に、少年たちが連なっている。いずれも紅潮して興奮した表情で一心不乱に正面を見つめている。少年たちのさらに左隣、端に一人少女が座っている。下ぶくれでだんご鼻だが、どことなく愛嬌のあってあどけない顔立ちだ。目をらんらんと光らせて食い入るように正面を見ている。


 セーッと気合いと共に道着姿の男が木刀を打ち込みにかかる。しかし相手の大柄な若者がこともなげにその太刀をいなしつつ、男の右脇に回り込んだかと思うと、すでに若者の木刀が男の首筋に寸止めされている。男が身を引いて「参りました」と礼をして退く。若者は軽く答礼する。若者は道場の白いそろいの道着とは別物の濃紺の着物を着ている。
 また別の青年が若者の前に進み出る。二人が晴眼に構えて直後、青年が突きを繰り出すが、若者は片腕を自身の剣の腹に添えながら突きを受け流し、そのまま木刀を返して相手の額際で寸止めする。青年は身を引いて礼をして退く。また別の30前後ほどの男が進み出る。今度は若者が吠えながら猛然と打ち込む。男はかろうじて受けながら後退していく。オオッと若者が低く叫んで重い一撃を打ち込むと男は受けきれずに後ろ足を滑らせて転倒する。
 次々と道場の男たちが挑み、若者がそれを斥ける。ほとんどダンスのように繰り返し繰り返し続けられる。

8

 道場の奥から壮年の男が現れる。道場にいた者、そのとき立ち会っていた二人も含めて全員が向き直って頭を下げる。師範のようだ。師範は道場にかかっていた真剣を2本とり1本を青年に渡す。二人は白刃を構えて対峙する。
 少女が口を結んでにらむように見つめている。
 大柄な青年に対して師範は背が低い。しかしずんぐりした体躯に力がみなぎっている。二人がおのおの裂帛の気合いを叫び、青年は上段から袈裟に打ち下ろし、師範は一度体を沈みこませ体を押し付けるように胴を薙ぐ。青年の刀は師範の肩口に、師範の刀は青年の胴の寸前で静止している。
 そして無言のままゆっくり二人は離れ、再び構え直す。
 青年が素早く右に回り込みつつ逆袈裟に振り上げる。師範はわずかに右後ろに跳びしさり、その一撃をかわす。続けて青年が斜め下に突くが、師範はわずかに上半身をひねってそれを避け、同時に身体ごと躍りかかる。青年は突きを即座に横薙ぎに変える。両者はまたぴたりと静止する。青年の刀は柄の付近が師範の脇腹の、師範の刀は青年の両小手の寸前でそれぞれ止まっている。
 二人はゆっくり離れ、構え直す。


「やはりまだ、西野先生には敵いませんでした」
「いや、いや。遠山どのも随分力をつけられました」
 庭からの鳥の声や風のたてる葉の音が遠く鳴るなか、師範と青年が客間でおだやかに談笑している。
「失礼します」
 ふすまが開き少女が入室し、茶を2人にてきぱきと供する。青年が湯飲みをすっと持ち上げて一口飲む。
「遠山どの、これはわしの門下で、邦江と申すものでな、子供ながらに筋がよく、ゆくゆくは道場一の遣い手かと思うております。邦江、こちらは遠山左門どの、江戸で梶派一刀流を修められ、このほど国元へ帰ってこられた」
 遠山は邦江に向き直り微笑する。
「遠山と申す。邦江どの、ずいぶん精進されておるようだな。また今度、拙者のお相手をお願いしよう」
 邦江はほほを紅潮させ、真剣な顔で「はい!」と声を張り上げる。遠山も西野も笑っている。


 邦江が鼻唄を歌っている。詞ははっきりしない。もとの店先で、紛れもなく年を重ねた横顔を空気にさらして、ゆっくり低く歌っている。道には道場帰りの子供たちは消え、もとの往来に戻っている。
「あら、なにかいいことでもあったんですか」
 声をかけられて邦江は歌うのをやめる。店の中年の女が邦江の横にかがんで、盆から茶と茶菓子を置いている。
「いえ、お恥ずかしい」
「あれ。いいじゃありませんか。歌くらいうたったって」
 邦江ははにかみ、自然な表情を見せている。
「あたしだってお店に出ながらしょっちゅう歌ってますよお」
「そう、ですね。歌くらいね」
「そうそう。そうですよ。それじゃあ、ごゆっくり」
 店員が去り、邦江は茶を一口すすってどこかほっとしたような横顔で往来を眺めている。

9

 茶屋の一室で、おもんが俊之介にしなだれかかっている。
「そういえば、今夜は本堂様、だれかお金持ちの人と会っているようですよ」
「なに。誰だ」
「さあ……? そこまでは知りませんけど、でも、相当なお金持ち。あたしらみたいな商売女にはぴんとくるんですよ。身なりや何やらでね。離れで人をお払いになっているようですから、よっぽど内密のお話じゃないかしら」
「そうか……」
 俊之介はしばらく思案顔でいたが「よし」とおもんを離して立ち上がる。
「誰と会うているか、確かめる。おもんも来い。その方がいざというとき、言い訳も立つだろう」


 二人が連れ立って縁側の廊下を進む。離れへ向かい、最奥の部屋の手前でうずくまる。明るい障子の前で二つの黒い影となっている。二人の男の声がする。
「金がないと言えば、それで済む話だ。断れ」
「しかし本堂さま。そう急に手のひらを返しては、私どもが怪しまれます」
「ふうん。まあ、飲め、堺屋」
 そのまま声が途絶える。二人は影のままゆっくり立ち上がり、退去する。もと来た廊下を逆順にたどる。二人の前にふいに番頭が現れて遮り、咎めるように言う。
「これは浅見さま。こんなところで、何をしておいでです」
「いや、ちょっと酔ったので、夜気に当たろうと思ってな」
 二人は番頭を脇へ避けて進もうとするが、番頭は意にも介さず二人を遮って立っている。
「まさかあちらへはおいでにならなかったでしょうね」
「そんなところへは行かぬ」
「離れはお人払いされております。駒代さんも、しっかりしてくれないと困りますよ」
「あら、ごめんなさい」
「くれぐれもお願いしますよ」
「もう部屋に戻る」
 ようやく行く手をあけた番頭は、しかしその場に留まって、戻る二人の背を疑わしげな目で見送っている。


 再びもとの部屋でおもんが俊之介にしなだれかかっている。
「そうか。堺屋か……本堂様は堺屋と繋がっていたか……」
「ふうん、あのお金持ちの大旦那は、堺屋さんっていうの」
「ああ、城下で一番の回船問屋だ。藩にもずいぶん金を貸していると聞くが……」
 おもんが俊之介の首にかけた腕に力を込める。俊之介もそれに応えておもんを強く抱き寄せる。そのままおもんを布団の上へ横たえ、覆い被さる。

10

 俊之介がおもんと連れ立って茶屋の廊下を歩いていく。向こうから男女連れが歩いてくる。すれ違うために双方が片側へ寄る。すれ違いざま、俊之介と女の目が合う。女は美しく、あでやかな微笑を浮かべ、立てた人差し指を唇にあてて通りすぎる。唖然とした顔で俊之介はその場に残される。
「すごくおきれいな方」
「……ああ」
「お知り合い?」
「義理の、姉だ」
「まあ、では、奥さまのお姉上。……お連れの殿方は、旦那様じゃあないわよね」
 俊之介はそれに答えずさっさと先を歩く。


 二人ならんで履き物を履き、茶屋を出て行く。

11

 明るく清潔で、冗談のように広い客間に俊之介がぽつんと座っている。供された茶に手もつけない。全くの無音の空間。
 奥のふすまがさっと開かれて長身痩躯の老人が入ってくる。
「本堂に閉門、組頭の矢島吉左衛門郡代の石沢宅蔵、作事奉行の大滝吉右衛門に逼塞を下した、そなたのお陰で本堂も、本堂一派の主だったやつらも葬ることができたというわけだ」
 俊之介がかしこまる暇も与えず、老人は話しながら俊之介の前に着座する。
「こたびの一件のそもそもの発端は、堺屋の船が一隻座礁したことにあった。商いを大きうするため多額を借り入れておったらしく、船荷が届かなんでは金を返せぬ。堺屋は二千両を早急に工面する必要に迫られ、先の家老である本堂に持ちかけたところが、本堂は手の者であった勘定組の蟇目七左衛門を使って藩庫から二千両を持ち出した。あくる月になり、次の船が到着して無事、堺屋は本堂へ二千両を返し、再び藩庫に戻したという次第だ。その後、疑われた蟇目を始末し、さらに恩を売った堺屋を自らの陣営に引き入れ、力を蓄えて返り咲こうとしておったところだった。藩財政が厳しさを増し城下の富商に借り入れねばならぬ中にあって、まつりごとは畢竟、何人の富商を握っておるかでその者の力が……」
 老人の言葉はよどみなく続いていく。俊之介は聞いているのかいないのかわからない表情でぼんやりしている。一度も手をつけず、湯気もたてない目の前の茶を見つめている。
「さて、浅見」
「はっ」
 名を呼ばれて俊之介は顔を跳ね上げる。
「本来であれば、こたびの一件、そなたの働きは加増ものだ。が、事が事だけに公にはできぬのでな」
 老人は懐から金包みを取り出し俊之介の前に置く。
「誰や彼やにとやかく詮索されるのも、儂、そなたの双方にとって嬉しくはないこと、これでお主との関係も切る」
 そう言い捨てて老人はすっと立ち上がり俊之介を顧みることなく部屋を後にする。俊之介は茶を見つめていたのと同じ目で、ぼんやりと老人の置いた金包みを見つめている。

12

 俊之介の盃におもんが酒を注いでいる。俊之介はさっとあおいで飲み干し、また酒を注がせる。俊之介があいた手で懐から金包みを取り出して投げやりにおもんの前に置く。
「おもんにやろう」
「ええっ。いやですよ。どうしたんです、こんな大金……」
「二人してこそこそ嗅ぎ回ったご褒美だとさ」
「ご褒美なら、俊之介さまがお取りになっておけば……」
「いらぬ」
 きっぱりした物言いにやや気圧されておもんは少し黙るが「それなら」と金包みを手に取り袂にしまう。
「あの、俊之介さま、ひょっとしてもうあたしには会わないおつもりで……」
「……いや……また来よう。これからはまた自分の金を工面せねばならんから、毎日というわけにはいかぬが」
 オホホホホと急におもんが声を上げて笑い、盃と徳利を脇に押しやり俊之介の懐に体を滑り込ませる。俊之介はおもんの体に曖昧に腕をまわし、それから改めて強く抱き締め直す。


 二人が茶屋の玄関で履き物を履いている。おもんは俊之介が履き終えるのを見届けて先に店ののれんをくぐる。続いて俊之介が長いのれんを手でおしのけてくぐった瞬間、ギエエと絶叫が響き、さっと視界を走る白い光の線、のけ反るおもんの背中、血しぶきが目に入る。どさりとおもんの体が崩れ落ちて、その向こうに大柄な男が白刃を手に提げて立っている。刀身には血がべっとりとついている。ようやくおもんが斬殺されたのだ、逆袈裟に切り上げられたのだと理解する。男はじっとこちらに視線を注いでいる。
 俊之介は思い出したように、自身の刀の柄へ手をかけるが、すでに男は血をぬぐった懐紙を捨て、刀を鞘へ納めている。
「貴公が浅見か」
 俊之介は何も答えられない。刀を抜きもせず柄を握りしめたまま動かない。
「拙者は遠山左門と申す。この女が斬られたわけはよく存じておるだろう。お主とはここではやらぬ。果たし合いを申し込む。明日の暮れ七つ半、五間川のそばの、一本松で会おう」
 遠山はさっさと立ち去る。刀の柄を握りしめたまま俊之介は、おもんの無惨な遺骸を見下ろしている。

13

 茶の間で俊之介と邦江がひざを突き合わせている。邦江はやや前屈みに、相手の話を受け止める姿勢でいる。俊之介は力なくぐんにゃりと、押せば崩れてしまいそうな様子で座っている。表情に生気が感じられない。
「遠山左門という男に、果たし合いを申し込まれた」
 邦江の表情はやや強張ったようだが、口をはさむ様子はない。
「受けた。どうせ断ったところで別の討っ手がくるだけだ」
 俊之介はそこでやや口をつぐむ。邦江は俊之介の目をじっと覗きこんだままやはり黙っている。
「ご家老である筒井様の命を受けて、密偵のようなことをしておった。いや、藩命だからではない、そんな高尚なものじゃあない、所詮遊ぶ金がほしかったんだよ。そんな罰が下ったんだ」
 口早に吐き出すように言ってまた黙る。邦江は身じろぎもしない。
「覚悟しておけ。おれは剣など遣えん。遠山とかいう男が、どれほどの遣い手か知らんが、恐らく勝てんだろう。だから、覚悟しておけ。こうなったら意地だ。せめて一太刀でも報いて死ぬさ」
「……一太刀すら、届くはずが……」
「え?」
 ふいに口を開いた邦江にやや驚いて、しかしその言葉を聞き取れずに俊之介は聞き返すが、邦江はまた黙って何も答えない。
「とにかく、もうおれは休む」と無理に立ち上がった俊之介が空を歩むような足取りで奥のふすまを開けくぐると力なくそれを閉めて部屋を後にする。


 邦江はさっと部屋のすみの文机に向かい、筆を走らせて文をしたため、折り畳んで机の上に置くとすぐに立ち上がり、すべるように部屋を横切って消える。

14

 吐く息が白く、邦江の呼吸の音だけがかすかに流れる。玄関の前に立ってその戸が開くのを待っている。身じろぎもしない背中で待っている。
 戸が開かれ、現れた遠山が邦江を見下ろす。
「このような夜更けにご婦人がひとりで、何用か」
「……浅見の妻でございます。遠山さまがみょう日、浅見と果たし合いをなされるとお聞きしました」
 遠山は黙って聞いている。
「しかし浅見は剣に不馴れな者、ただ遠山さまの、一方的ななぶり殺しに終わることと思います」
 遠山はまだ黙っている。
「わたくしが、浅見に代わって、」
「何か。そなたの方が剣を遣えるとでも申すつもりか」
「はばかりながら」
「断る!」
 邦江の話を突然たちきって遠山が言下に拒絶した。
「代わりが務まるような話ではない。お引き取りいただこう」
 遠山が引き戸を閉めるのを、邦江がそのままの位置からにゅうと腕を伸ばしてへりをつかみ、押し戻していく。
「浅見は、このことを知りません……」
 遠山が戸から手を離し、同様に邦江も離す。
「遠山さまは、猪谷流の西野鉄心を覚えておいでですか」
「うん? 無論だ。いくどか手合わせしてもらったが、ついに勝てなかった。まれにみる達人だな」
「では、西野が編んだ『さざなみ』なる技のことは」
「噂に聞いたことはあるがしかし、誰も直に見たものはおらぬとも聞く……それが、何か」
「わたくしが授けられました」
「はあ?」
 遠山がやや黙りこむ。
「ご新造、名は?」
「邦江と申します。もとは畑中の家の者でございます」
「ははあ……そなたが……ああ……」
「遠山さま。あらためてお願い申し上げます。明日の果たし合いを、」
「承知した。では明けの七つ半、五間川の一本松で」
 邦江の言葉を遮るように事務的に答えて遠山は戸をさっさと閉める。邦江は閉ざされた戸の前で立っている。

15

 たすきをかけた邦江が一人、スローモーションのような動きで刀を振るいながらゆっくり前進している。庭は、夜更けながら月光で明るい。邦江は自らの身体の動きを確かめているようだ。袈裟に下ろし、そのまま手首を返して切り上げる。刀を脇に構えて巻き込むように体を回しながら薙ぐ。ふうぅと深い呼吸を繰り返しながら極めて緩慢とした動きで進んでいく。
 そして庭の端まで進むと反転して晴眼に構え直して制止する。
 再び剣をふるうが今度はやや速い。剣舞のように流れていく。身体を回し、ひねり、沈み込ませ、身体と一体となって剣を振るい進んでゆく。ふっ、はっ、と息の声が響く。
 端につくとまた反転、晴眼に構えて制止。
 次は猛然と突き、薙ぎ、袈裟、足払いと多彩な技を繰り出し、シェッ、シュッと鋭く息を吐き、横や後ろにも跳躍しながら前進していく。最も激しい動きを休みなく繰り出していく。そして庭の中ほどまで進んで動きが止まる。その横顔の額から湯気が立つ。しかし息は上がっていない。深い呼吸に戻っている。

16

 朝もやの中、遠山がさっさと歩いている。草を踏みしめる足音だけが立つ。一本松が見える。その手前に立つ人影が見える。たすきをかけたずんぐりした女。着古してやや色褪せた着物。遠山が邦江から2間ほど離れて歩みを止める。邦江はやや前屈みに、開いた両足を踏みしめて立っている。
 遠山はじっと見ている。邦江もじっと見返している。邦江の姿は左手に提げた刀を除けば、ほとんど勝手仕事でもする女のそれにしか見えない。邦江ははらった鞘をやや腰をかがめて足元に置き、刀を晴眼に構える。遠山も抜いた刀を同様に構える。邦江の姿はどこか悲壮感を漂わせている。
 イヤーッ! おおっ! と気合いを掛け合う。わずかに両者とも左に動くが打ち込まない。が、一呼吸おいて遠山が大きく踏み込みつつ袈裟斬りにかかる。邦江は右足を素早くひいて体を開きその一閃をかわしつつ、後ろに飛びしさると同時に小さな動作で小手を打つ。遠山の右手首にかすり傷が生じ、わずかに血がにじむ。やや距離を離してお互い構えを整える。


 今度は猪のように邦江が突進する。右袈裟、左袈裟と次々と一撃二撃を放ち、遠山は危なげなくそれを受ける。遠山が邦江の刀を跳ね返しながら追撃の突きを邦江の顔に放つ。邦江は右足をひき突きを避け、後ろに飛びながら小手を放つ。先程と同じ動きを見せた。邦江は横びんをそがれ頬にかすり傷がついている。遠山の右手首の傷からは血が滴っている。遠山は右手を二度開閉させて柄を握り直す。


 邦江が身を低くして踏み込む。遠山が下から切り上げ、邦江が素早く下がって避ける。遠山は刀を頭上で切り返して真っ直ぐに打ち込む。邦江は左斜め後ろに大きく下がり、避けながらも遠山の小手に切っ先を振るう。遠山が思わず下がって体勢を整えようとするが、邦江が跳びかかりながら打ち下ろす。かろうじて鍔元でその一撃を受け止めた遠山の小手に、邦江がまた浅く打ち込む。遠山が上段から力押しに猛烈な打ち込みを繰り返し、邦江は押されながらも、身体近くに構えた刀の腹で細かくその連撃を追って防ぎきる。遠山が打ち手を止めて下がろうとした瞬間に邦江は小手に打ち込んで飛び退る。遠山の右手首からは白く骨が覗いている。


 お互い息が上がっている。邦江は着物のそこここが裂けて破れ、ところどころ血が滲んでいる。一方で遠山は右手首を除けば傷らしい傷もない。
「さざなみ……ひいては寄せ、繰り返す波が、岩をうがつ……」
 一人言のように遠山が低く呟く。邦江は構えをとかずに刀の向こうで機を伺うように視線を注いでいる。
 遠山が踏み込みながら刀身を頭上に一気に引き上げる。ぐっと声をくぐもらせたかと思うと、柄から右手が外れ、遠山は身をややのけ反らせる。邦江が懐めがけて一気に走り込み、遠山の右脇を抜けながら深々と胴を斬る。遠山はさらにのけ反り、走り抜ける邦江の背に左手一本で刀を振る。背を斬られた邦江は前につんのめって転がる。遠山はそのまま仰向けに倒れ、もう絶命している。
 邦江は刀を手放し、一本松へ這っていく。根本に辿り着き、つらそうに体を仰向けて幹に背をもたせかけ、足を投げ出して座り込む。もう空が青い。疲れ果てて邦江は眼を瞑る。

17

 俊之介が遠くで駆けていく。一本松の5間ほど手前で立ち止まる。邦江のいる一本松と、遠山の死骸の方を数度見比べて立ち尽くしている。それから、ゆっくり松に近寄っていく。


「邦江。おい。邦江」
 俊之介が間近に寄って邦江を覗きこんでいる。邦江は何も答えない。二人とも黙って、鳥の声や風の音が交じる。邦江が何かぼそぼそと呟く。聞き取れずに「なんだ」と俊之介が耳を寄せる。
「去り状を、いただきとう存じます」
「え」


 俊之介が邦江をおぶってゆっくり歩き始める。
「すまなかった。俺が馬鹿だった」
「……戻りましたら」
「ああ」
「去り状をいただきます」
「……」
 邦江は俊之介に背負われたまま、ほとんど地声で鼻唄をうたっている。詞はわからない。ゆっくり草原を横切っていく。






※注記
 下記のような指摘がブックマークコメントでなされた。
<これ、藤沢周平の「女人剣さざなみ」ですよね。文章はちょこちょこ変えてあるけど、ほぼまんまのような……著作権的に問題ないのですか?>
 指摘を待つまでもなく誰の目にも明らかな通り、本作は藤沢周平作短編「女人剣さざ波」(『隠し剣孤影抄』所収)を下敷きとしている。<ちょこちょこ変えてある>との印象に反し実体としては全的に書き換えている。「女人剣さざ波」から何が保存され、何が廃棄された試みが「秘剣さざなみ」であるかを読むことなしに、<ほぼまんま>とだけ呟くことは、ほとんど何も言っていないことと等しい。



 また、このような既存作品を書き換えるといった作業は今回に限らず以前から試みられているものであるという点を書き添えておく。
  鴨長明作「方丈記」に対する 現代誤訳 鴨長明「方丈記」 - OjohmbonX
  新美南吉作「ごんぎつね」に対する ごんにんげん - OjohmbonX
  樋口一葉作「わかれ道」に対する リメイク 樋口一葉「わかれ道」 - OjohmbonX



 <著作権的に問題>かという点で言えば、本作は著作権者の翻案権を明らかに侵害している。しかし本作による<侵害>によって現実に誰かしらが損害(経済的その他の損害)を被るとは私にはほとんど信じ難い。万が一にも権利者その他からの要請等があれば作者私は記事の削除等の対応をするだろう。