読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

OjohmbonX

創作のブログです。

こぼれる華になる

「ねえ、よっちゃん」
「おれは達樹だってば。たっちゃん。よっちゃんはお父さんでしょ。おばあちゃん、ボケちゃってんだから」
 生意気な孫! あたしちゃんとたっちゃんって呼んだじゃない。あたしがボケてるだなんて、有紀さんがたっちゃんに悪口いってるんだから。ほんとに許せない、くやしい。良雄も良雄だよ。有紀さんの肩ばっかりもってあたしをボケてるなんて言うんだから。あたし実の母親だよ? どうしてあたしの味方してくれないんだ。
「良雄、あんたどうしてあたしの味方してくれないのよ」
「だからおれは達樹だってば」
 生意気な孫! あたしは達樹をビンタしてた。良雄がギャーって泣き始めた。へんなの。良雄がお父さんに叩かれて泣いてるわ。あたしが作ったカレーをおいしくないって良雄が言ったから、お父さんが良雄をビンタして「嫌なら食べるな」って怒ったんだった。火曜日の夜はサザエさんを見てたけどお父さんがテレビ消したから、良雄だけ泣いてて雰囲気がすごく悪くなってる。泣き止まないからあたし良雄の背中さすってとりなしてやる。
「ね、泣いててもしょうがないでしょ、お父さんとお母さんに謝って、ごはん食べよ」
 たっちゃんがびっくりした顔して逃げてった。
 なんなのよ~。謝りもしないでこんな孫。有紀さんの子育て見てるとほんとにイライラするときある。たっちゃんももっと小さかったころは、おばあちゃん、おばあちゃんってほんとに可愛かったんだから。みっちーに電話しよ。こういう話、要するに愚痴、わかってくれんのってみっちーくらいしかいないもん。ああ、目がかすんでイライラする。ケータイの画面がよく見えない。電話帳を開いて、み、み、……違う違う、平林美知子だから、あかさたなはま、だから戻って、ひ、ひ、……なんで見つからないの!! もうイライラするなあ! ああ、目がいたい。
「あのー、有紀さん?」
「はい?」
 頼み事するとすぐ嫌な顔するから。ほんとに下手に出て、卑屈に。
「あのね、みっちーに電話したいんだけど、なんか電話番号が出てこなくってね。ちょっと、ケータイ見てくれなあい」
「え……」
 ああっなんなの! 勘の悪い女、ほんとに何なの。みっちーのこと忘れたのか? しょっちゅうあたし話題にしてるのに忘れるなんてあたしより記憶力ないんじゃないの。それともケータイもまともに使えない年寄りとか思ってあたしのこと馬鹿にしてんのか。……ダメ、ここで怒ったりしたらまた喧嘩になっちゃうから。落ち着いて、深呼吸して……
「あのね、みっちー。平林さん。お父さんが亡くなってから、たまにあたし一緒に旅行とか行ってる人よ。ちょっと電話したいんだけど、電話帳ひらくとこまではできたのよね。でもなんか出てこないのよ。見てもらえればうれしいんだけど」
「あの、おばあちゃん、平林さんって一昨年に亡くなった……」
「は……」
 みっちーが、亡くなった。一昨年、みっちーの、お葬式……お墓参り、そうね。覚えてる……。
「あ、ごめんなさい、なんかちょっと、間違えちゃった」
「ええ……」
 一人でおこたに入って、少し考えて、おこたを出て便箋とボールペンを持ってきて、おこたにまた入った。ここ何年かの出来事を書き出して整理しよう。まずお父さんが亡くなったのがたしか去年の夏で、そうそう、だって今年の夏に一周忌をやってるから。お父さんが亡くなってからみっちーとは旅行とか行くようになって、そうそう、去年は京都に行って、今年は日光と鬼怒川温泉に行ったのよね。温泉街っていうからいろんなお土産やさんが並んでて、浴衣の観光客がみんな歩いててっていうの想像してたら、ぜんぜん。ホテルの外出たら何にもないんだもん。ほんとがっかりだったよね。あとでみっちーに電話しよ。ああ……みっちーはもう亡くなったんだ。みっちーの旦那さんとはお葬式で初めて会ったんだった。たぶん昔、会社ですれ違ったことくらいはあったんだろうけど、ぜんぜん覚えてなかったね。旦那さんもどうしてるんだろ。男の人は奥さん亡くすと急に老けこむとか言うけど。その点うちはお父さんの方が先に死んでよかったのかも。正直お父さんが亡くなったことよりみっちーが亡くなったことの方ががっかりしたって感じがしたくらいだし。
 やっぱみっちーとずっとお喋りすることがもうできないってのはがっかりだなあ。性格がさっぱりしてて、人にちょっと厳しいとこがあったけど、あの毒舌もイヤミったらしいとこがなくて楽しかった。そこは昔からあんまり変わらないな。同期入社だけどあたしが短大卒の一般職で、平林さんが大卒の総合職だから、むこうの方が年上だし同じ職場でも最初は遠慮が正直あったけど、ほんとに飾らない感じで話しかけてくれてあれはやっぱうれしかったな。すぐ「みっちーって呼んで」とか笑って言ってて。向こうも年が近い同性の話し相手がほしかったんだろうけど。ご飯さそってくれて、職場の人のこと批評したりもけっこう楽しかった。とくに野沢さんね。今思い出しても変な人だった。いっつもバカ丁寧でさ。あたしなんか20歳のお茶くみなのに「ありがとうございます」とかって最初は感じいいおじさんかなと思ってたけどとんでもない、ちょっとしたことですぐキレるし、細かいことにいつまでもぐじぐじこだわってて仕事の能率も悪いし。そうそうみっちーが、あれはみんな被害者意識なんだって言って。自分はなんにも悪くない、自分は人よりもちゃんとしてる、なのにみんな自分のことを評価してくれない、あの人はちゃんとしてないのにずるい、そうやってずっと自分を正当化して他人をうらみ続けてる。かわいそうな人だよ、目の前にいるとほんっとにムカつくけどねとみっちーが言って、二人で大笑いしてた。
 あとみっちーはあたしの仕事のこと褒めてくれてたのがほんとに嬉しかった。どっちみちあたしは一般職だから、そんな責任のある仕事とかじゃなくて書類整理とか出張費の精算とかそういう事務や庶務だったけど、それなりにより良くしようとかもっと早くやろうとかいろいろ工夫はしてたわけ。そういうとこほんとにちゃんと見ててくれたよね。
 あたしがお父さんと職場結婚、職場っていっても隣の職場で、うちが企画課であの人は同じ経理部の税務課で、年末の部合同の打ち上げで知り合ったのよね。恋愛とかそういう感じじゃなかったけど、一緒にいて安心したし、悪い人じゃないなと思ったし、それで結婚してなんとなくみっちーとは疎遠になっちゃった。たぶん向こうが気をつかったんだと思う。あたしもすぐ良雄が生まれて、ずっとばたばたしてて知らなかったけど、あとで夫が平林さんが寿退社したよって教えてくれて、みっちーは同じ会社の別の職場の人と結婚したってことだった。
 それでそのままになっちゃってたんだけど、うちの佳奈と、みっちーの長男が同い年で、高校が偶然同じで入学式の後の保護者説明会で、なんか見たことある人だなあと思ってたら向こうも気付いて、それからときどきご飯食べたりするようになって、旅行とか行くようにもなったんだった。ほんと世の中って狭いなと思ったよ。久しぶりに会ってもさっぱりした性格はそのままで、うれしかったなあ。なんか全然おこた暖まらないと思って毛布めくったらついてないじゃない。ああ、ほんとにおっくう、スイッチをもっと手元に置いておけばよかった。よいしょっと立ち上がってスイッチはつけたけど足が痛くていやんなる。便箋、あれなんだっけ。なんか書こうとしてたのよね。ああー、なんだったかな。手紙……ああ、みっちーに手紙書こうとしてたんだっけ。よくわからないなあ。まあいいか。久しぶりに高橋真梨子のCDかーけっぴ。だんだんおこたもあったかくなってきた。あー、やっぱいいな。今きいてもかっこいいよ。っていうか高橋真梨子ってあたしと年同じくらいだよね。それであんなに活躍してるんだからすごいな。あ、この歌好き。
「だれも愛の国を 見たことがない さびしいものは あなたの言葉 異国のひびきに似て 不思議」
「えっ、どうしたの」
「なにが」
「いや、急に歌うからさ……」
「何よ! 歌ぐらい歌ったからって何!? あたしのウチでしょここは」
「いや、いいけど、だってメシの途中で急に歌い出すから……」
「ちゃんとご飯だって食べてるじゃない!」
 目の前のから揚げを急いで食べる。なんかちょっと味が濃いんじゃないの? 老人に塩分高いもの食べさせようなんてどういうこと?
「ちょっとおばあちゃんそれ俺の分」
「なんなの!! もの欲しそうな目で見るな。いじきたない!」
 前はこんなじゃなかったでしょ。なんでこんな生意気で礼儀もしらない子に育ったの? なんだか食べても食べてもお腹がすくのよ。
「おかわりちょうだい」
「ちょっと、食べ過ぎだよ」
 なんでそういうこと言うの!? 良雄が小さいころいいもんなるべく食べさせてあげてたのに、なんで、あたしだって、あたしだってもう好きなようにしたっていいじゃないの。お腹がすくのよ!
「ご飯のおかわり! 何!?」
「ねえお父さんいいじゃない。食欲があるってことは健康な証拠でしょ、ね」
「あんたあたしに塩辛いもんたくさん食べさせて早く死ねってわけ?」
「いい加減にしろよ。有紀は母さんに気をつかって」
「なによーっ。なんで有紀さんの肩ばっかり持つわけ? あんたあたしの息子でしょ!?」


 あたしがお母さんの亡くなった齢に近づいてきてるからかもしれないけど、よくお母さんのことを思い出す。ずーっとやさしかった。怒鳴ったとこなんて一度も見たことない。遅いときの一人娘だったってのはあるかもしれない。今でこそ35の初産も珍しくないかもしれないけど、あのころはやっぱり色々言われたりもしたんだろうな。お母さんは歌も上手だった。あたしが学校で習ってきた歌をすぐ覚えていっしょに歌ってくれたし、お勝手してる間もいろいろ歌ってた。いちばん多かったのはやっぱり美空ひばりかもしれない。
 あたしが小さかったころはお母さんの子供の頃のお話を聞くのがほんとに好きだった。お母さんの家は結構裕福だったみたいで「ねえや」もいたし、近所にはむかし下男をしていた家もあって、未だに堀内のお嬢様って道で会ったときなんかに小さかったお母さんにも敬語で話しかけてたって。あたしは別に裕福でも貧乏でもなかったし、ふつうの団地に住んでたから、なんか別の世界の話みたいで面白かった。近所の子供たちを一人のこらずぞろぞろ連れて、全員におしるこをおごってやったとか、想像すると可笑しい。あとお母さんはあの歌が好きだった。春を愛する人は、心清き人って。あれは先にあたしが好きになって、歌ってたら自然にお母さんも歌うようになったんだった。あたしはもう就職してたし、お母さんも今のあたしとあんまり変わらない年齢だったのに、まるであたしが子供の頃、学校で覚えてきた歌をお母さんも歌ってくれたみたいで、なつかしくて嬉しかった。そのあと亡くなるまえに病院のベッドでも歌ってて、やっぱり懐かしかったな。なかなか家で鼻うた以上に歌うのは、近所のこともあるし難しいし、なんといってもカラオケはいいよね。たしかこの部屋だったかな。なんか若い女の子が一人でいると思ったらみっちーじゃん。
「ごめんね。お待たせ。ひさしぶりだからうきうきするね。いっぱい歌おう」
 なんかみっちーびっくりした顔してあたしをぼんやり見たりして、どうしちゃったのかしらね。
「みっちー先に歌っていいよ」っていうのに、みっちーはあたしの顔ばっかり見てるんだもん。歌の本さがしてたら、テレビの下にあった。みっちーにとってもらって、めくって、た、た、高橋、高橋真梨子、あ、これこれ。桃色吐息。なんだか最近のリモコンってわっかりづらい。さすがみっちーは若いだけあってリモコンの使い方教えてくれて、番号入れたら無事に歌がはじまった。咲かせて 咲かせて 桃色吐息 みっちーは鞄と上着もって部屋を出てった。トイレかな? ふたりして夜に こぎ出すけれど だれも愛の国を 見たことがない ひさびさに大きい声で歌うとやっぱ楽しい。やっぱり家だとさ、有紀さんもいるしどうしたって気をつかわないわけにいかないじゃん。歌がおわってまた高橋真梨子いれようと思って、そのまま電話帳みたいなやつ開いておいたから、曲を選んだのはいいんだけど、リモコンさっきの数字が並んでる画面にしたいのにやり方がわかんなくて、ほんとにイライラする。そしたらちょうど店員が部屋に入ってきたから
「あのねえ。これ、この歌を入れたいんだけど、ちょっと使い方が難しいのよね」
 なんか若い男の店員が怒ったみたいな顔して「部屋間違ってますよお客さん」とか言うから、あたし腹が立って「そんなことないわよ友達だって一緒なんだから」って言い返したけど店員のくせに客になんなのこの態度はどーなってる!? この店はどういう教育してるの。その男あたしが間違ってるって思い込んでんのよ。
「あのねえ、この部屋のお客さんからクレームきてんの。知らないおばあさんが急に入ってきたってさあ。とにかくまず出てもらえる? 自分の部屋わかんなくなっちゃったの?」
 男があたしの手首きゅうにつかんできた! こわい! あたしとっさにリモコン振り上げて男の頭たたいてた。頭かかえてうずくまる男をどかして、部屋を出て、気づいたらトイレに逃げてた。どうなってるの。あの男は偽物の店員で、あたしを誘拐しようとしてたのかもしれない。ああ、汚い。ぜんぜん掃除ができてない。こんな汚いトイレ座りたくもない。
 急にドア叩かれて「警察です」ってあたしびっくりした。「開けなさい」って怒った声でいうからこわくて、あたしそんな風に警察に怒られるなんて今まで一度もなかったから、もうわけがわからなくなってきた。警察がまだ怒ってる! これってほんとに警察なの。さっきの男も偽物の店員かもしれない、その仲間かもしれない、あたしを誘拐して身代金をとろうとしているかもしれない。ほんとの警察なの? あたしどうしたらいいの?
 えっドアが開いた、カギかけてたのに、警察の制服着た変な男が二人、手前の男があたしに手を伸ばしてくる!
「いやーっ! 助けて、助けて殺される、誰か助けて!」


 火のないおこたに足を入れて、冷たいちゃぶ台に顔をのせて、ほとんど何の音もしない部屋のなかで、ああ、あたしボケちゃったんだなと思った。歳も歳だし、認知症なんてありふれて珍しくもないし、自分がなったって別に不思議なことなんてないけど、ああ、あたしボケちゃったんだなとあらためて思うと、涙がでてしょうがない。
 子供みたいに泣いて、ほんとうに疲れた。今はこんなに普通なのに、その普通のまま、無理やり起こされて寝ぼけてるときみたいな風になって、なんかわかんなくなっちゃう。自分でもちょっとときどき、自分が変なことを言ってるなってわかるときもあるのにどうしようもない。寝ぼけておかしなこと言ってる、そんなのがだんだん長くなってる。
 50歳くらいから体を動かすのがはっきりしんどくなってきて、万全ってときがどんどん減っていった。おんなじようなことが今度は頭に起きているって感じかもしれない。まあ、でもね。悲しいっていつまでも思ってても仕方ないし。なるべく運動して、昔のこともいろいろ思い出したり話したりして、そういうのが認知症の予防に効果があるって聞いたことあるし。電気ついてないおこたから出て、よいしょっと。お散歩でもしようって部屋を出ようとしたら、戸が開かない。あれ、どうなってるの。立て付け悪くなっちゃったのかな。思いっきり引いてもダメ。なんで。あたし閉じ込められちゃったの。急に怖くなってくる。思いっきり引くけど戸の向こうでガチャガチャ音がするばっかでぜんぜん開かない。
「ねえ誰か、誰かいないの、ちょっと、」
 しばらくガチャガチャして諦めたら、戸の向こうに人の気配があった。
「誰かいるの……」
「お義母さん、あの、今開けますね……」
 鍵の開く音、戸が開いて、有紀さんが立ってた。叱られるのを待ってる子供みたいな顔して立ってて、ほんとにかわいそうでたまらなかった。
「いいのよ、しょうがないのよね」って言って、あたしが部屋の中からそのまま戸をゆっくり閉めていくと、閉めきる前に、ああーん、ああーんって子供みたいに有紀さんがおお泣きしだした。あたしも泣けてしかたがない。この部屋は窓がないのよ。電気をきると、昼も夜もなく真っ暗になっちゃう。しょうがないのよね。だってこの前、あんな、警察なんかにお世話になったりして、近所の人も見てる中で、恥ずかしい思いさせちゃったの、あたしのせいだし……蛇口からずっとお水が流れてる。水の流れに指をさしこむと、そこで流れがみだれて散り散りになる。指をいれたり、離したりして、じっと見てる。あっあたしお弁当作らなくっちゃ。やだ急がないと。中学までは給食あったのに高校になるとめんどくさいね。めんどくさいけど、今だけだって思うとがんばろうかなって気になる。食器棚の下の、観音開きをあけると、ごちゃごちゃに物がつめこまれてる、その奥に3段積みの魔法瓶でできたお弁当箱がある。1段目がごはん、2段目がおかず、3段目がお味噌汁。何はともあれお米をといで炊飯器にセット。おかずはどうしよう。冷蔵庫に豚肉があるからしょうが焼きと、あとほうれん草のおひたし、昨日の残りのひじきがある。残り物いれると良雄すぐ文句言うから腹が立つけど、メインにお肉が入ってるとだいたい何にも言わないんだよね。お味噌汁は、ひさしぶりにほんとにおいしいのを作ろうかな。ちゃんと昆布とかつお節で出汁をとって。
「ちょっとお義母さん、何してるの」
 かつお節を削ってると知らない女が入ってきた。誰この人。なんでうちにいるの。
「お義母さんトイレに行くからお部屋を出たんじゃないの」
「あなた何言ってるの」
 この女は何を言ってるの。
「あの、お義母さん、お部屋に戻りましょうか」
 あたしはかつお節で女を殴った。キャーンって音がして女がくんにゃり倒れていった。太もものあたりが暖かくなってうつむいたらあたしおもらししてた。いけないって思いながらでも止まらなかった。情けなくって涙がでてくる。
「誰なの、ここはあたしの台所よ。なんで勝手に入ってくるの。あんたたちおかしいよ」


 鍵のかかったお部屋の中で、火のないおこたで一人しずかにじっとしてたら居間の方で有紀さんと佳奈の話す声が聞こえてくる。話す中身は聞き取れないけど、それは、あたしをどうしようかっていう話し合いだってわかる。それから2、3日か2、3ヶ月くらい経って、ちょうど今日があたしが入居する日なんだって。よかった。ちゃんと頭がはっきりしてる日で。
 良雄の車の助手席に乗って、窓をあけたら、たっちゃんが泣きじゃくってて、有紀さんも泣いてるんだもん。あたしまで泣きそうになったけど笑って
「いろいろごめんね。たまにでいいから遊びにきてね」って言った。「ありがとう」って言おうとしてたのに言いそびれちゃったと出発してから思ったけど、また遊びにきてくれれば言う機会もあるから。
 お父さんが遺してくれたお金のおかげで、ちゃんとしたホームに入れた。しかも申し込んでから立て続けに空きができた、それって誰かが死んだってことだけど、おかげであんまり待たずに入れた。しかも今日はびっくりするくらい天気もいい。車の窓をちょっとだけ開けて、ホームにつくまでそんなことを良雄と話した。感謝してるんだよ、ありがとうねってことは、やっぱり言いそびれちゃった。だめだね。新しい生活でうまく、みっちーみたいに気が合う友達ができるといいんだけど。あたしは別に趣味ってほどの趣味なんかないけど、まあ、歌を聞くのは好きだから、良雄が新しい小さなCDプレーヤーを買ってくれたのでさっそく、自分の部屋(たぶんつい最近あたしの前にだれかが死んだ部屋)で高橋真梨子の、CDを聞きながらこれも、良雄が買ってくれたアイパッドでお花のマークを押してむかしの、写真を見てた。もともとアルバムがあったんだけどみんなデータにしてアイパッドにぜんぶ入れたという話で、むかしの写真もぜんぶ見れる。良雄と佳奈の小さいころの写真。お父さんもときどき写ってる。ドアをノックする音が聞こえて、出たら小さいおばあさんがいた。あたしも小柄な方だけどあたしよりも小さい。
「わたし、隣の部屋の、吉崎と申しますけれど」
 おばあさんがあんまり深々と頭を下げるから、
「今日からお世話になります、三宮です。こちらこそどうも」とあわてて挨拶した。
「あのう、音楽を、聞いていらっしゃるようですけれども、もう少し、音を小さくして、いただけませんでしょうか」
「すみませんね」
 おばあさんがまた深々と頭を下げて帰っていった。上品な人だ。たぶん生まれも育ちもいいんだろうね。80歳くらいかな。あたしよりずっと年上だとは思うけど話のわかる人っぽいね。ひょっとしたらいい友達になれるのかも。吉崎さんとリビングですれ違って、あ、おはようございます、ってあたしから挨拶したら、何にも言わないわけ。えっ。耳が遠いのかなと思ったけど他の人には挨拶してるじゃん。みんなあのおばあさんにぺこぺこしてる。よく見たらおばあさんからは挨拶してなくて、みんなが挨拶するのを当然って顔してはい。はい。って返してるだけ。なんなの。感じ悪いおばあさんだね。あたしびっくりして腹が立ってじっとそれ見てたら、おばあさんがリビングを一周してまたあたしの前にやってきた。
「そこ、どいてくださる?」
 しわくちゃの顔で、目がほら穴みたいでどこ見てんのか、にこにこしてる。気味がわるい。あたしこの年寄りを突き飛ばしてた。薄い髪がなんのクッションにもならずに、女の頭蓋骨がフローリングの床にぶつかって、不気味な音を立てた。みんなが大声でゲーラゲラ笑いだした。
「あたしは大園商事に務めてました。あたしはキャリアウーマンです。総合職で、企画で、男なんかよりずっと仕事ができるんです。それにあたし、あなたなんかよりずっと立派な家柄なんです、ねえやだって、下男だっていて、お嬢様、お嬢様って呼ばれてたんです。あなたなんかに、馬鹿にされる覚えなんてない」
 みんなが大声でゲーラゲラ笑い続けてる。あたしもう地獄に落ちちゃったのかな。