OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (7)

 跳べ、跳べと叫び続けていた。夏の江ノ島へ続く道のただ中なのだ、人通りも少なくはなく人々は叫ぶ男を避けて通る。立ち止まって何事かと見る者も、店の中から表へ出て露骨に迷惑そうな顔をする者もいる。蛙は緩慢な動きで振り返りもせずに私達から遠ざかる。しかし万丈一久は叫び掛け続けている。見物人がいれば新たに見物する抵抗も薄れて人垣が増える。それを無理に分けて、四人組のちゃらついた若い男が最前列に現れた。声を潜めもせず興味と嘲弄をあらわにして万丈一久とその視線の先の蛙を見て何事か笑いながら喚いていた。彼らの視線が、万丈一久の隣に立つ私の上へ注がれたのを感じて私は、この場から消滅したいと思った。こんな無遠慮な視線を投げ付けられるのは耐え難かった。あいつは? 連れじゃね? じゃあ何で一緒に叫ばねえんだよ。しらねえ。俺らが代わりに叫んでやりゃいいんじゃね? 四人組はばらばらに跳べー、跳べーと間延びした声をやる気も無さ気に蛙へ掛け始めた。
 蛙は歩き続けていたが、急に一歩分ぴょんと跳ねた。そしてまたのっそりした歩みに戻った。
 その瞬間、個人の身体ではなく全体が一つの身体のようにしてこの場が息を呑んだかと思うとそれから、唸りに似た拍手が鳴った。万丈一久と四人組は色めき立ち、言葉を結ばない歓声を上げた。万丈一久は彼らに駆け寄り、一人ずつとハイタッチを交わし合って、抱くように肩や背中を叩かれて健闘を祝われた。ああいうタイプの男たちと万丈一久が関わることなど今までも無くこれからも二度と無いはずだと思うと、この光景に目眩を誘われて距離感も失った。その隙をまるで無意識に突いて、男たちと喜び合った勢いのまま私の方へ取って返した万丈一久が、嬉しさに身を浸しきって私の手を掴んだ。陽光をきらめかせて縁いっぱいにまで満ちた水がふいに零れ落ちるような笑顔を私に振り向けた。てのひらがひたすら熱く、太陽の照り付けもアスファルトの照り返しも剥き出しの腕や首をじりじり焼き、耳鳴りみたいに響き続ける拍手の中で、一瞬立ちのぼったかすかに酸味を放つ匂いももはや私か万丈一久のものか区別も付かず、反射的に恐怖を覚えて手を引きかけた私を無かったものにするように、その手を強く引き返して回り始めた。汗が流れ、景色が流れて、回り続けて平衡を失い、ずっと声を立てて笑うのはいつの間にか自分になっていたが、それに気づいたと思った時には、本当に笑っているのが自分なのか誰なのかも定かではなくなっていた。回されて吐き気がこみ上げたのを捉えて、手を振りほどいて万丈一久を突き飛ばした。回転が止まっても立ち上がれずにこめかみを押さえてへたり込んだ。万丈一久も同様に熱いアスファルトに尻餅をついていた。
「あんな遊びが楽しいか」
「お前は分かっていない。蛙を遊んでいただけじゃない。みんなが蛙に遊ばれてたんだと信じないから分からない」
 蛙が人の言葉を解して跳んだとも、せめて人の声を刺激にして跳んだとも思ってはいない。その上、蛙が跳ぶかどうかすらもどちらでも構わない。ただ遊びつつ、同時に遊ばれているという仮定を主観において信じただけだ。などと呟いたのは、万丈一久の方だと今までは頭から疑わなかったはずがもはや、私かもしれないと受け入れ始めている。蛙はすでに姿を消していた。

 日に焼けた肌が火照る鬱陶しさを引きずりながら万丈一久がアパートに帰ると、隣家の前でベルを鳴らす代わりに扉を激しく叩いている男がいた。細身のスーツを着込み、異様に先の尖って長い革靴を履き、元々の痩せ型をさらに骨張って見せていた。目を合わさないように万丈一久は手早く自室に戻ろうとしたが声を掛けられた。男はゆっくり近づき、隣人の所在を万丈一久に訊いた。知らないと応えて万丈一久が鍵を取り出して扉を開けようとするのを、男が足で扉の下を押さえ、ノブにかかった手の首を掴んで隠すなと凄んできた。そういった顔付きを続けて定着した眉間の皺と筋肉の無さのせいで年齢を推し量ることを難しくさせる顔をしていた。万丈一久は脈が強くなり、かすかに震えが走るのに気付いたが、気付いたところで止めようもなかった。男は手首を掴む力を強くして痛みを与えながら、震えるなよ、震えたって無駄だ、と静かに言った。それは万丈一久の脚にも震えを走らせて、立っている間隔を失わせた。男はそれを笑いもせず万丈一久の肩越しに何かを見た。あれは平岡の子供だな。万丈一久も振り返ると平岡ユツキが暗くひんやりした廊下の奥に立っていた。手首を掴む力が緩んだのを万丈一久は知覚した。自分の脇を抜け男が平岡ユツキに近寄るその時、ほんの少しの時間差を生じて、男の体臭と煙草の臭いが交じってかすかに鼻に届く、というイメージを明確に万丈一久は描いた。それはまだ実際には行われていなかったが、手首の力が緩むのを感じ、さっきから男の体臭と煙草の交じった臭いを嗅いでいたから目にしたすぐ先の光景だった。万丈一久は耐え難い焦燥を感じていたが思考が線を刻まず何も出来ずただ弱く震えているだけだった。男の手が万丈一久の手首から外される。男が体の重心をかすかに右へ移す。視線は肩越しに平岡ユツキにじっと注がれたままだ。先立って見た光景がまさに実現されかけている。思わず私は言葉を発していた。
「その子を連れて逃げ込め」という声を私は耳にした。私は反射的に体ごと振り向いて走り出していた。男の指が走る背にかかったようだが捉えられない。せいぜい五歩の距離を一気に走り、平岡ユツキの二の腕をさらう。足に衝撃を受けつつ無理に止まって引き返す。平岡ユツキを引きずって進むその五歩の復路を今度はもう一歩踏み込み、肩で男の懐に飛び込んで男を弾き飛ばす。慌てて取り出した鍵で扉を開き、平岡ユツキを押し込む。意図が伝わらずに平岡ユツキは恐怖を顔に張り付かせ、ドアに小さな指をかけて抵抗した。私は迷わず平岡ユツキの腹を蹴り部屋の中に押し込む。視界の端で、私の体当たりに倒れていた男が怒鳴り散らしながら起き上がる。もう少しドアを大きく開き、自分の身体を滑り込ませる。ドアの透き間に男が指をかける。ドアを思い切り引いて角張った太い指輪が嵌まり皺の刻まれた指を躊躇わずに潰す。男が痛みに絶叫して手を引く。私はドアを閉めきり、鍵を締めてチェーンを掛けた。
 息が上がっていた。玄関先に蹴飛ばされて転がったままの平岡ユツキを見下ろしていた。息が整わずまともに声も出せずに、しかし頭は冴え渡っていた。全てを手で触れて分かっているような感覚があった。あの声を聞く直前に何も思考が形作られずに言葉にもならなかったのとは対照的だった。あれはついさっき別れたばかりの佐多英幸の声だと今更腑に落ちたがそんなことは問題にもならず、現実的な解決を待つのは、さっきからドアを激しく叩いて激昂している男の罵詈と、ふいに腰の辺りに抱きついてきた平岡ユツキのことだった。殺すぞとか何とか喚き続ける声の中で、涙声を抑えるあまり身体がひくつく平岡ユツキの身体の、子供の体温の高さと土埃の臭いだった。平岡のガキを出せと男が言うので私は思わず
「これは、俺の子だ!」と出任せを叫んで平岡ユツキの背にかけた手の力を込めた。嘘を言え、嘘を言え、なめるな殺すぞと脅し続ける男に苛立って私は断言した。
「絶対に嘘じゃない、正真正銘、俺がお腹を痛めて生んだ子だ」
 男が黙った。音が遠退いて全てがゆっくり静止した。ただ暑く湿った空気が相変わらず肌に重さを乗せて、窓に切り抜かれた夕日が黙って部屋の床を赤に燃え立たせていた。


(了)