ジャンルに安住せずにズレること
今のところ私は、あらゆる面白さがズレによるのか/面白いと感ずる全てにズレを見出し得るのかに十分な確信を持たない。しかし、ズレは確かに面白さを生み出し得る・その可能性を持つと私は経験的に言い得る。
受け手の予期するものからいかにズラすかということは、会話、小説、映画、絵画、音楽……あらゆる表現活動において作り手がその能力に左右されて大なり小なり実践している。またたとえば、ニュートン力学をしか知らない者に、ニュートン力学を包含して存在する量子力学や相対性理論が新たな体系として示されることや、さらに――デカルトが代数学と幾何学を統合したように――量子力学と相対性理論とが近い将来(?)対応付けられる・それらを含んだ体系が私たちに示されることは、(理解できれば)そこに面白さを認め得るだろうし、こういった面白さの淵源するところもまた、受け手の予期するもの・認識からのズレと呼べるかもしれない。
人が表現を意図的にズラすことによって面白さを生み出そうとする際に必要とされる2つの段階は、(1)受け手の予期するものを把握することと、(2)受け手の予期するものからズレることである。
(1)受け手の予期するものを把握すること
言うまでもなく、意図的にズレようとするのであれば、どこからズレるのかを知る必要がある。
なお、病的でない程度に日常生活(?)において受け手の予期するものを高い頻度で把握できずに無自覚にズレたことを言ったりやったりする人たちは、「天然ボケ」とか単に「天然」、あるいは「ボケ」などと呼ばれ、非難されたり珍重されたり、する。そして珍重されることを見込んで、自覚的にズラしているにもかかわらず無自覚であるかのように装ういわば「ニセ天然」の――瀧波ユカリの『臨死!!江古田ちゃん』では「猛禽」と呼ばれるのかもしれない――人たちが散見されるにせよ、彼・彼女らの存在を指摘することはここの私の本意では、別にない。
(2)受け手の予期するものからズレること
ただし、受け手の予期するものを把握したところで、そこからズレるかどうかは当人が主観的に決定すれば良い。(ここで、当人の採用する倫理なり道徳なり哲学なり宗教なりの体系に従って決定する場合においても、そもそもその体系の選択が、あるいはその体系の持つ仮定群の選択が主観的である以上、どの道主観的な決定でしかない。)
たとえば、面接試験での会話や、点数を落としたくないテストの解答、顧客からの注文といったものはズレないようにされる――もっとも、可能な範囲でいかにズラせるかが腕の見せ所、と言えるのかもしれない――し、「お笑い芸人」と呼ばれる人たちはテレビのバラエティー番組なり何なりの発言にズレを生じさせることが職業として求められる。
もちろん意識的にズラしたとしてもそれが面白いとは限らない。面白くなければそれを一般に「スベる」と呼ぶ。(この語はズレようとしてそのまま転倒するイメージを私に喚起させる。)それから、どこからズレたのか/どうズレたのかを説明すること、または単にここがズレているのだと示すことを「ツッコミ」と呼べるかもしれない。作り手自らが――例えば漫才のように――ツッコむ場合はともかく、作り手がツッコミを示さず受け手にそれを委託するとき、受け手がツッコめなければ・どこから/どう/どこがズレているのかを言い当てられなければ、ズレが生じようもないのだから、受け手から見て作り手は意味不明のことを表現しているように見えるだろう。一方で、作り手の意図しなかったところに受け手がズレを見出し(だから面白い/面白くないと表現し)たとき、それが「批評」となる。もちろんその辺に転がっている「天然ボケ」をつかまえて彼らの言ったりやったりすることのズレを指摘するといった、受け手の誰もが知っているズレを指摘することは(その指摘の受け手にズレを生み出さないために)大抵つまらないのだから、面白い批評は作り手だけでなく受け手の多くが見出し得なかったズレを指摘することになる。
さらに続けて、ズラせない/ズラさないことを恥ずかしいと感ずるようになることと紋切型のことや、ズラすことが迷走していく場合のあることとお笑いコンビのスピードワゴンのことや、ズレようとしないためにズレてしまうこととマラソン選手の高橋尚子(のインタビューでの返答)のことや、(表現物とはかかわりの無いこととして)作り手がズレに意図的であることを受け手に知られたいと思う自尊心と画家のダリのことやを書きたい誘惑にかられるのだが、あまりに散漫になり過ぎるためここではやめておく。
それから、私は(1)にせよ(2)にせよ、その外形・構造を説明するのみでその具体的な、あるいは一般的な方法を書くつもりはなく、また、今の私はそれを書き得ない。(あえて書くとすれば、いずれも表現者の教養とセンスにかかっている、としか書き得ない。)
ところで、「食人賞」のこと。
「食人賞」(http://neo.g.hatena.ne.jp/keyword/%E9%A3%9F%E4%BA%BA%E8%B3%9E?kid=85)は、「従来の文芸部ではお試しできなかった部活です。部員は小説を書きます。」というはてなグループ「ファック文芸部」内で近ごろ開催されているもので、「人間を食べる習慣、習性がある文明もしくは生物、またはそのような概念が存在する世界観を持った短編」を募っている。(なお、私は「ファック文芸部」に属していない。)
「食人賞」の応募作のいくつかを読んでみると、もちろんどれもがズレを競って面白くあろうと書かれているにせよ、それはほとんどがジャンル――テーマなり文体なり構造なり何なりの制約――の中でのみ行われており、ジャンルそのものからズレてはいないのだった。作者たちがそのことに自覚的であるかどうかを・意図的にジャンルからズレないことを選択しているのかどうかを、私は知らない。
ただ、断るまでもなく、例えばある推理小説がある純文学(?)小説よりはるかに面白い場合があるように、ジャンルからズレずに書かれているからといって、それがすなわち面白くないことを意味しない。ジャンルの中でのみズレを生み出した「食人賞」応募作中にはとても面白いと思えるものもあれば、そうでない・スベっているとしか思えないものもあった。(とは言え、既存のジャンルからズレる・それそのものが新たなジャンルを体現することのほうが、上手くすればよりダイナミックな面白さを生じて刺激的と私は信じるし、既存のジャンルに安住したものは小説ではあっても「文芸」ではない、とも考える。)
「食人賞」というジャンルからズレることとして、例えば、作品が律儀に独自の「世界観を持」とうとすることを――もはや小説ですらなくなると承知で――冷笑したり、「人間を食べる習慣、習性がある文明」が作品中に実在しない(実在することからズレて、幻想(というか誤解)の中に存在する)ことを私は思いつく。
ここで、それでは「食人賞」の「レギュレーション」に沿わないではないか、と優等生ぶって非難する者には、「食人賞」の「レギュレーション」は私のレギュレーションではない、と答えれば良いし、それを実践しているらしいお前の「食人賞」の応募作(id:OjohmbonX:20071002:p6、id:OjohmbonX:20071004:p1)は面白いのか、と聞かれれば、お前が面白いと思えるかどうかは知ったことではないにせよ作者であり読者でもある私はそのときそれらに面白さを認め得たから公開したのだ、と言うし、被はてなブックマーク数マジ少な!(笑)、には、で?(笑)、である。顔で笑って心で泣いて、である。
そして、そう書きながらこのエントリ自体がズレてないじゃないか、と言う蒙昧な読み手があれば、まっとうであることがズレている場合があり得るのだ、ということと、何事につけそこに発展の余地があるのだ、と書き手の私は書くのみである。