OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (6)

「あたしのあの子は、少年と青年の狭間に取り残されているのよ」
とヴァンダーは私の弟を「あたしのあの子」と呼んだ。
「奇跡だと思う。薄いシャツを着れば、麻の、ああいう手触りのシャツを着れば、その向こうに肌があるってことが、シャツの丸襟から伸びる細いようで少し筋張った首の肌からわかるわけ。きめの細かい肌。あの滑らかさはきめの凹凸が生み出しているのよ。うっすら汗で表面がしっとりしている。そこに、挨拶するみたいに顔を近づければ、外気よりも少し湿度と温度が高くて、鼻孔いっぱいに広がるのよ。こういう歓喜ってあんた、知ってる?」
 また自分ばっかり知ってるみたいに。
「例えば本当にくたくたに疲れて体が、全身が重くてひたすら眠くて眠くて仕方がないときに、このままベッドに倒れ込めたら、あの柔らかさでこの重さが完全に受け止められて、足や腰が重荷から全的に許される想像をする。全てをなげうって楽になりたい、あの欲望を満たす、あたしはあの子のベッドになるのよ」
 デブベッド。
「ああ、たまらない……あんたは四十代を経験したことがないから知らないでしょ。すごいわよ、四十代って。想像以上よ。突然たまらなく切なくなるのよ。若い男の肉体を想像すると時間にぞっとする。あたしが四十代であの子が十代だなんて、残酷だわ。そして体がうずくの。今あたし、すごくたまらないわ」
 知らないよそんなこと。
「まあ、あたしはあの子にまだ触れたことがないから、いろいろ想像で話してるだけだけど、本当にたまらない。骨張って、うっすらと筋肉のついた、細い……あの腰つき! 少年のもの! 罪のかおりがするわ、とっても。それでいっぱい写真を撮ったのよ。学校でのあの子。帰り道のあの子。家でくつろぐあの子。あたしのあの子。でも写真ではあの子の匂いや声や肉体のやわらかさはわからない、ただかき立てられるだけ」
 ますます墨汁みたいな体臭が増進されてゆく。
「それにしてもあんた頭おかしいんじゃないの? 弟の手紙を勝手に読んだり、ごみ箱漁ったりして完全にストーカーじゃない。絶対に頭おかしい。それで今日は、引っ越しの挨拶も兼ねてあの子に忠告しにきたってわけ」
 ヴァンダーは猿みたいに歯を剥き出して威嚇してきた。体臭は墨汁を通り越して気味の悪い油のようになった。耐えられない臭いだ。
「あたしこの町って好きよ。引っ越してすぐに気に入っちゃった。あの子とだけじゃなくて、みんなと仲良くなれそう。特にインターネットの町内掲示板がいいわね。さっきサイレンが鳴ってみんな慌ててたじゃん。ここだけの秘密だけど、あれ、実はあたしの声なのよ」
 ヴァンダーが携帯電話を私に見せる。掲示板に「あれ、あたしよ」と書き込まれている。私はケンタッキーのバーレルを素早く抱えた。そして骨を一本一本、全力でヴァンダーの顔を目がけて投げ付ける。
「いたい痛い、いやんいやん」
 あのサイレンはお前の物じゃない。ヴァンダーに力を込めて投げ付け続ける。こんなに突発的に憎いと感じることがあるのか、と一方で冷静に自分を見ながら、他方で猛烈に腹が立つ。涙がぼろぼろ零れる。死ね、死ねと叫びながら投げ付ける。他は耐えられてもあのサイレンは私のものだ。こいつは平気で人の傘を盗める女だ。死ね!
 骨に反応した犬達がヴァンダーに押し寄せる。
「いやあん、あたし犬アレルギーなのよねー」
 犬に埋め尽くされる。犬のキャンキャン言う声が重なりに重なって吹き抜けの高く硬い天井にも反射してうわあんうわあんと鳴り始め、ヴァンダーのいやあんいやあんという声と溶け合って居間が幻想的な音に満たされる。音の中で犬に囲まれたヴァンダーは手をひらひらさせて踊っているみたいだった。肉はたゆんたゆん揺れ、ビロードのどす黒い赤は翻る。私はバールのようなものを、さっき確かめた感触を思い出しながら握り直し、犬をかき分けてゆっくりヴァンダーに近づき、頭を思い切り殴りつけた。
「すごく、痛いっ!」
 ヴァンダーはスローモーションみたいにゆっくり倒れていった。それを見ながら私は息を整え、この女は私に似ていると悟った。乱されたくない空気の粒が落ちてくる肉に次々にぶつかって弾ける。風としてしか感知できないはずのそのささやかな衝撃で肉がたわむ。波打つ。ドレスがはためく。残像を少しずつ引きずりながら落ちていく。そうしてついにフローリングにぶつかる。跳ね返る。ぶつかる。跳ねる。肉が波打ち、ドレスが揺れる。少しずつ運動は静まって静止に収束する。女は床に眠った。こんな醜悪な女と私は違わないのだ。どれだけ見た目が違っても世代が違っても無駄だ。この女のことは絶対に分からないのに似ているなんて、あまりに残酷な仕打ちだ。私は犬を戻し、骨を片付け、女のドレスを脱がし、下着をごみ箱に捨て、髪、脇毛、陰毛、生えている毛を全て剃り落とした。床に横たわる白い固まりは人間とはとても思えない。肉が床に流れている。やはり私とは違うとほんの少しだけ安心するが、それは錯覚だ。私はどす黒く赤いビロードの固まりを抱え上げて庭に降りた。


 袖口で汗を拭いながら庭から戻ると、いつの間にか帰宅していた弟が床にへばりついた白い固まりの前に立ってぼんやり見下ろしていた。
「これ、何」
「あんたの彼女だって」
「そうなんだ……」
 ぼんやり二人で見下ろしていると、やがて固まりはぐにゃぐにゃと動き始め、おもむろに私達の前で柔らかい壁になった。視界が白に覆われて、なんとか二人で首を上げると上の方に黒い二つの染みと赤い蠕動があった。黒に埋没していて目は開いているのか閉じているのかわからなかった。
「知らないよ、こんなの」
と弟がようやく呟くと地響きのようなものが鳴って、目の前の白がうねり始めた。私達はうねりに言葉を奪われてただ、見つめるばかりだった。やがてうねりは止まって
「あたしのドレスは?」
と唇が言うので私は庭を指さした。庭の土は一部が掘り返されてこんもり盛り上がっている。墓だ。傾いた日のせいで庭は金色に輝いている。三人はそれを黙って眺めている。そのうちの似ている二人は金色の墓の下にどす黒い赤を見ている。こんな風に夕方を過ごす日もあるのだと私はやさしい気持ちになる。墓作りをした腕がだるく、そのだるさが私をますますやさしい気持ちにしている。私はカーテンだった白い布を白い肉に手渡した。肉は布を体に巻き付けて原始的な服にした。白い壁を保護色にして女は見えなくなった。ただ黒い二つの染みと赤い蠢きが宙に浮いていた。
「あたしを、見て」
 ちょうど露出魔が路上でコートの前を開くやり方で、ヴァンダーは弟の目の前でカーテンを開いた。
「ちょっと俺、よくわかりません。すいません」
と弟はきっぱり断った。ヴァンダーが信じられないといった顔付きで自分の体を改めて確認すると、いまさら気づいたようで、
「あたしのジャングルが、あああ、あたしのジャングルが、」
と戦きつつ股間と脇を何度も交互に見比べて
「いやあああ、」
と絶叫したまま表へ飛び出した日以降、ヴァンダーによる私の誹謗中傷が掲示板に展開されることになった。


(つづく)